献体
叔父さんは、せむしだった。
叔父さんは、いつも項垂れて下ばかり見ている。
くたびれたスーツを着込んだ独り身の叔父さんは、社会に圧し潰された哀れなサラリーマンそのものに見えた。
叔父さんは、足が上がらなくて、いつも擦って歩く。
叔父さんは、いつも、カッコいいブランドスニーカーを拘って履いていた。
叔父さんは、プリンを持って遊びにくる。
叔父さんは、プリンを食べながら、自分は難病にかかっていて、あと数年で死ぬのだと、話す。
叔父さんは、死んだらケンタイに行きたいと言う。
オレには、ケンタイの意味がわからなかった。
数日前から降り続いていた豪雨が、絹糸をハラハラと振り落とすくらいになった頃、夏の気配は消滅していた。
厚めのパーカーを羽織らないと肌寒さを感じるそんな十月の午後。父から電話がかかってきた。
オレは、バイトの休憩中で、カフェオレ片手に、崇拝するバンドのライブ情報をチェックしていた。ニューアルバムを引っさげての全国ツアーの申し込み方法を読み始めた途端に邪魔され、思わずつっけんどんな声が出る。
「ケイタ、叔父さん死んだって。なにか聞いてるか?」
開口一番の父の言葉。でも、別に驚かなかった。だからなんだ、と言う感じだ。物心がつく前に祖父母が他界し、身内の死を経験したことがないオレは、死を立体的に捉えられなかったせいもあるだろう。それよりも、全国ツアーの申し込み方法が気になってしょうがなかった。
「おまえ、あいつとは親しかったろ。なにか、遺言状とか預かってないか?」警察に引き取りに行かなくちゃいけないのだと、父は億劫そうな溜め息を一つ挟んだ。遺言状だとか、そんな寝耳に水なことを急に言われても、わからない。叔父さんと親しいとは言っても、よく顔を合わす程度。それだって、オレと叔父さんのアパートがたまたま近所だったからだ。通学時や、バイト終わり、コンビニの行き帰りなんかに偶然会って、一言二言、挨拶程度の会話を交わしていただけに過ぎない。唯一の肉親でもある父はうんざりと二回目の溜め息をつく。
「金、かかるんだよなぁ。葬儀にしても。火葬にしても。あいつ、そういうのなにか言ってなかったか?」
「そういえば・・叔父さん、死んだらケンタイに行きたいって言ってた」
「ケンタイ? ほんとかよ?」
「確かだよ。何度も言ってたから覚えてる」
「そうかぁー・・」父の言葉の温度が急激に下がった。そして、低い声で、そっかぁと何度も繰り返す。
「・・あいつなりに、色々と考えてたんだな」
オレには父の言葉の意味が、よくわからなかった。だから、なぁケンタイってどういうこと? と質問しようとしたが「じゃあ、」と再び言葉の温度を取り戻した父に遮られた。
「せめて、最期くらいキレイにしてやるか」
叔父さんは昨日の出勤時、土砂降りの中で倒れたが、運悪く泥だらけの水溜りに倒れ込んだようで、酷い有様らしいのだ。
「キレイにって、オレたちで風呂にでも入れてやるのかよ」
「まさか。納棺師に湯灌してもらえばいい」血を分けた弟なんだ、そのくらいは出すさ、と父はしんみりと呟いた。オレはそんな父の声を聞きながら、今回のツアーは、チケット一枚かと気付いて、少し寂しくなった。
叔父さんは、せむしだった。
叔父さんは、いつも項垂れて下ばかり見ていた。
それは、自業自得なのだと叔父さんは話す。
もちろん、体が強張りやすい病気のせいもあるだろうけど、それ以上に卑屈になっていた自分の心根のせいなのだと。子どもの頃には、両親や兄が必死に元気づけようとして気をつかってくれたが、それが却って辛かった。
自分をこんな体にした運命を呪った。呪って呪って呪い続けたあげくに、こうなったのだと。この形は自分の呪いなのだと。
だから、仕方ない。誰に不遇を託つつもりもない。
そう言って、人生を諦めて無表情な中にある口だけ僅かに動かして笑っている、子供心にそんな印象の人だった。
そんな叔父さんと、いつから交流するようになったのかは、覚えていない。
「なにもない部屋ですけど、よかったら、うちに遊びに来てください」
確か、弁当屋で鉢合わせて、一緒に弁当ができ上がるのを待っている時に交わした会話の延長だったと思う。それで、基本的に暇なオレは、後日、さっそく叔父さんの住んでいるアパートを訪ねた。手土産は、ポテチだ。
前置きされた通り、殺風景でなにもない部屋だった。あるのは、畳んだ布団と座卓、小さな本棚だけ。テレビすら、ない。
本棚には、フリードリヒ・ニーチェとかドストエフスキーとか、なんか暗くて難しい本が幾つかあるだけだ。
オレはあまりに会話がないので、話題として目についた本を、手に取ってみた。
読み込んでいるらしく、少しくたびれている。
「ツァ・・ツァラ、トゥ、ストラ? 言いにくっ。なにこれ? 面白いの?」
「多くのことを中途半端に知るよりは、何も知らない方がいい。他人の見解に便乗して賢者になるくらいなら、むしろ自力だけに頼る愚者であるほうがマシだ。これは、その『ツァラトゥストラかく語りき』に、書いてある名言です。ニーチェの本は、とても、ためになりますよ」
「へー・・」オレみたいな若造にはちょっと難しいな、もっとおっさんになったら理解できるかもな、なんて、ぼんやり思っているうちに、会話が終了してしまった。仕方なくポテチを摘む。叔父さんは、真っ白い飾り気のないカップと変な模様がついた湯飲みに、それぞれ紅茶のティーバッグを入れてお湯を注いだ。
ポテチに紅茶かよ・・合わねぇな、と内心呟きながら、喉が渇いたので遠慮なく飲む。
叔父さんは、オレが座卓の上に放り出したニーチェを手に取って、パラパラと捲っていたが、ふと止まった。
「こんな名言もあります。『なぜ生きるか』を知っている者は、ほとんど、あらゆる『いかに生きるか』に耐えるのだ」
なんか・・暗いな。
それが感想だった。いかに生きるか、なんて、知るか。いかにも、タコにも考えてる暇なんてない。日々、楽しく充実して過ごす。これがオレの信念だから。その延長にある将来については、ざっくりとだけ決めておいて、あとはその時になって考えればいいだろ。状況なんていくらでも変わるもんだし。つか、叔父さんって、生きてて、なんか楽しいことあんの?
「あなたにとってもっとも人間的なこと。それは、誰にも恥ずかしい思いをさせないことである」
「それ、また名言だろ。そうじゃなくてさ、叔父さんの人間的な楽しさとかさ快楽、ないの?」
「快楽? 愛されたいという欲求は、自惚れの最たるものである」
「なぁさっきから、それって、叔父さんが最初に言ってた、他人の見解に便乗してってヤツやってんだけじゃんか。違うよ!そうじゃなくて!喜びだよ!幸せな瞬間とか、充実した時間!叔父さん、そういうの、ないの?」
「この世に存在する上で、最大の充実感と喜びを得る秘訣は、危険に生きることである。ボクは危険に生きたくはありません」
叔父さんが変わり者の所以がここにある。会話にならないのだ。それは、親戚が集まった時に、話題を振られた叔父さんの見当違いな返答を何度か耳にしていたので、許容範囲内ではある。だが、自称熱い男のオレは、生きるだなんだといかにも知り尽くしたように口走りながらも、喜び一つ幸せ一つ知らないらしい叔父さんに、なんだか腹が立ってきた。
「今度、オレのとこ来てよ!」ただ、思い知らせてやりたかった。
くたびれたスーツを着込んだ独り身の叔父さんは、社会に圧し潰された哀れなサラリーマンそのものに見えた。
だけど、叔父さんは、ただのサラリーマンじゃない。叔父さんは、ロックなサラリーマンだったんだ。
早速翌週、叔父さんは嬉々として遊びにきた。
叔父さんは、人間に興味ないような言葉を吐くくせに、内心では人恋しいのか寂しいのか、誘うと割と乗ってくる。手土産に紅茶セットを持ってきた時には、どんだけ紅茶好きなんだよ、と突っ込んでしまった。オレは、緑茶派だったから。
叔父さんは、オレの部屋に張られた水着姿の女の子のポスターや山積みになった漫画や、CD、雑誌なんかを物珍しそうに眺めていた。博物館の展示物でも鑑賞するかのように、狭い室内をじっくりと丁寧に見ていた叔父さんは、ふと一カ所で立ち止まった。
「これは、誰ですか?」
叔父さんが指しているのは、小さめのポスターだ。オレの崇拝するバンドのアルバムジャケットのポスターだ。いいのに目を付けたな、と叔父さんの眼をちょっと認めた。
「このバンド知らないなんて、人生損してるよ」
オレは、ヤカンを放っぽって、スマホでそのバンドを検索して、何百回と見たPV動画を流す。
叔父さんは、スマホの画面をじっと凝視し、身動き一つせずに聞き入っているようだった。オレは、プレイリストで彼らのPVを次々と再生した。一周すると、叔父さんは、もう一回いいですか? とお代わりをねだってきた。オレは嬉しくなった。
何度か聞いて、帰る時、叔父さんはオレが所持している彼らのCDを借りていったのだ。
そして、次に来た時には、バンドのTシャツを着ていた。すっかり嵌った様子だった。
「ケイタ君の言う通りです。ボクは、今までの人生を損してましたよ」
叔父さんは、照れくさそうにはにかむと、流れてきたバラードに合わせて囁くように感慨深げに歌う。歌詞はとっくに暗記済みらしい。
「危険に生きることにしたんだね」オレが揶揄って、ニーチェを引用すると、叔父さんは、首を横に振る。
「いいえ。この程度では、まだまだ最大には程遠いですよ」
「でも、ニーチェよりいいだろ?」
ニタリと笑うオレに、いえ、彼らはニーチェと通じる部分があるのですと、叔父さんは尚も食い下がる。事実を認めるべきかどうか、実はまだ迷っているのかもしれない。
叔父さんは、足が上がらなくて、いつも擦って歩く。
でも、叔父さんは、いつも、カッコいいブランドスニーカーを拘って履いていた。
そのスニーカーは、オレ達の共通の趣味でもある某有名バンドのメンバー達がプロデュースして、よくライブで履いているブランドだって知ってるのは、オレだけだ。
「彼らは神様が丁寧に拵えた傑作です」と言い切る叔父さんの嵌り様はオレ以上で、彼らの着ているものから履いているものまで目敏くチェックし、真似できるものは給料の大半をつぎ込んでいた。
熱狂的な叔父さんの部屋は、あっという間に彼らのポスターで埋まった。傍目には新手の信仰宗教のように見えただろう。なので、恐らく、叔父さんの口座にはほとんど残高はないだろうと、オレは勝手に思っている。だいぶ危険に踏み込んできたなぁと、顎を擦って見守ることにした。危険に生きれば生きる程、最大の充実感や喜びを得られるのだろうから。オレは、叔父さんの人生が一転した結末をかぶりつきで見たいのだ。
叔父さんは、プリンを持って遊びにくる。
プリンと言ってもコンビニなんかの安いやつじゃない。お高めのやつだ。しかも、たくさん。
初回で、紅茶セットを持ってきたことに、緑茶派のオレが難癖をつけたので、次からはプリンになった。
プリンと一緒に彼らのDVDを持参する。そして、オレたちは、高級プリンを食べながら、PVやライブ映像の鑑賞会をした。
「実際に聞くことがあったら、ボクはきっと泣いてしまうだろうなぁ」
叔父さんが感嘆の息をつきながら、そんなことを言うので、ライブに行こうと誘った。次いでに、バンドは生で聞くことに意義があるのだと熱弁した。けれど、叔父さんは、自分はこんなだから、申し訳ないと断る。
「ボクみたいな人間が、彼らのファンだなんて、おこがましいよ。だから、とてもとても」
「なに言ってんだよ。そんなの関係ねぇよ。オレ、次のドームツアーは、二人分で申し込むからな」
半ば強引に連れていったが、結果は大正解。
幸運にもアリーナ席が当たったのだ。
有り金全てを持ってきたという叔父さんは、片っ端からライブグッズを二人分購入して、そんな豪快なことをしてるくせに、オドオドと周りの目を気にして、せむしを更にせむしにしながら小さく縮こまっている。
照明が落ちた。何度も何度もDVDで聞いたスネア太鼓のオープニングが鳴り響き、ドーム内に細いレーザービームが何本も走る。さながら流星群を見ているようだ。そして、無数の流れ星はステージ中央に集まり、そこに彼らが使う楽器の影が浮かび上がる。宇宙船みたいなドラムセットが、スタンドに立てかけた先鋭的な形をしたエレキギターが、女性の体のように柔らかい曲線を描くクラシックギターとウッドベースが、無口な職人を思わせるエレキベースが、圧巻の存在感を放つグランドピアノが、そして、突き刺さった剣のようなマイクスタンドが。哀愁の漂うトランペットが鳴り響く。
ー見失った夢の欠片を取り戻すのに、時間なんて関係ないさ
ここから取り戻せばいい そうだろ?
透明な歌声がドーム内にこだますと、叔父さんは、背筋をぐいっと伸ばして、颯爽と立ち上がった。
割れるほどの歓声が上がる。
叔父さんは、メンバーの名前を叫ぶ。その恍惚を帯びた歓喜の表情の叔父さんは、オレが見たどの叔父さんより生命力がほとばしっていた。叔父さんが、とうとう化けた!
オレは、あの時ほど、叔父さんの剥き出しの感情に触れたことはなかったのではなかろうかと思う。
歌声に絡まっていく分厚いドラムとベース。そして、メロディアスなギターリフに合わせて叔父さんは、叫び、何度でも腕を突き上げ、振り回し、歌い、叫び、手を叩き、叫び、ジャンプする。
叔父さんは、全身で彼らの音楽を感じていた。叔父さん自身が、音楽そのものみたいだ。
透き通ったピアノの旋律が流れ出した。バラードだ。
彼らの作るバラードは、初雪が降った朝に張った雪の結晶が残った薄氷のように美しかったり、晴れ過ぎた空を見上げた時に落ちた名もない花の微かな影のような儚さだったり、憂いを含んだ目を縁取る長い睫毛がゆっくりと瞬きするような様子だったりと、心をそっと包み込むような優しい歌詞や時にオーケストラが混じり、とにかく文句なしに美しい。彼らのファンでなくても、知ってるような有名な曲も多い。やっぱり生で聞くと、最高にいい。
鼻を啜る音が聞こえて、ふと横を見ると、叔父さんは静かに涙をだだ流しにしていた。
そのただならぬ様子に、あぁ叔父さんは、とうとう最大の充実感と喜びを手に入れたのだと悟った。
更には、叔父さんのその姿が、彼らのバラードと相俟ってなぜか、なぜだかとても神聖なものに見える。
叔父さんは純粋なんだ。大人だけど、どこまでもいつまでも、純粋なままなんだ、と思った。叔父さんは、嘘とか卑怯とか魔が差すとか、誰かを傷つけるとか攻撃するとか、罰とか悪とかそんな類いとは全く無関係なところにいるんだ。まるで、生まれたての赤ん坊みたいに。だから、彼らの音楽にこんなにも一喜一憂するのかもしれない。
オレは、同じように彼らが好きだけど、きっと叔父さんとは、違う。崇拝の種類が、違う。オレも確かに、彼らの音楽に共感できて勇気づけられはする。だけど、その程度だ。無数にいるミュージシャンやアーティストの中から選ぶなら、好きだと公言するなら彼らってだけで。彼らの音楽が、生そのものにストレートに突き刺さって揺さぶられている叔父さんとでは、なんだか次元が違うのだ。例えるなら、全盛期のビートルズのガチファンとそこそこのファンみたいな。別にどっちが良い悪いの話じゃないけれど、叔父さんのほうがより深く彼らの音楽を理解しているような気がして、ちょっとだけ嫉妬を覚えた。だって、どう贔屓目に見たって、今この瞬間の叔父さんの姿のほうが、彼らの音楽に相応しいように映ってしまう。そんなこともあって、オレはあまりライブに没頭できなかった。
「ボクはもう、いつ死んでもいい!」
ガラガラに枯れた声で興奮気味に口走る幸福そうな叔父さんに、死んだら彼らの新曲を聞けないじゃんと返すと、それは大変だ!と、破顔した。叔父さんって、こんな陽キャだったのかと、新たな面を見つけられた初参戦だった。
「ケンタ君!このライブのチケットを取ってくれて、ほんとうに、ありがとう!感謝しています!」ありがとう!ありがとう!と涙目で何度も深々と頭を下げる叔父さん。オレは、止めてよと手を振る。
「そんなにいいって。オレのほうこそ、グッズ奢ってもらってんだから。マジで感謝してる。ありがと」
さっきまで、叔父さんに嫉妬してたくせにな、と喉に痞えた小さな己の愚を無理矢理飲み下して、口角を上げる。
「苦しみを共にするのではなく、喜びを共にすることが友人を作るのです!」
「なにそれ。またニーチェ?」
「そうです!ボクたちは、親戚ですが、ちょっとした友人です!」
「ライブ友ってとこ? また、行こうぜ!」
以来、彼らのライブには二人で行くのが常となっている。
叔父さんは、プリンを食べながら、自分は難病にかかっていて、あと数年で死ぬのだと、話す。
「ボクは彼らと出会えて救われました。これまでの、ボクの人生は、夢も目標もない、死に向かって生かされている屍でした。彼らの音楽は、こんなボクに光と喜びを与えてくれました。ケイタ君に感謝しています」と言うのだ。
「叔父さんが、勇気を出して、危険に生きたからだよ」
「確かにその通りかもしれませんね」と、おかしそうに笑う。
叔父さんは、よく笑うようになった。
コケシみたいに微笑んでるんだか不満があるんだかよくわからない中途半端な顔しかしなかったけど、表情豊かになったんだ。
オレは、一緒にライブに行って、自ら呪いをかけた体をいっぱいに伸ばして、飛んだり跳ねたり泣いたり叫んだりしている叔父さんが、死ぬ未来は、ちょっと想像できなかった。
『いつか時が、僕らを分つまで』と彼らの歌詞にあるように、それはオレにとって『いつか』だったから。
でも、その『いつか』が、とうとう巡ってきたんだ。
叔父さんにどうしても着せてあげたいものがあるからと、父にせがんで二人で叔父さんの部屋に踏み込んだ。
最初、父は戸惑っているようだった。そりゃそうだ。なんせ壁一面に男四人のポスターとライブタオルだらけだし、飾ってあるのは、彼らが表紙の音楽雑誌や切り抜きだ。オレは、押し入れを開けて、叔父さんが一番お気に入りで、一番ライブに着ていた彼らのTシャツを取り出した。それから、彼らとお揃いのジーパン。ジーパンの尻ポケットには特典でついていたギターピックをねじ込む。
「あいつ、こんな趣味があったんだな・・」
苦笑いを浮かべる父に、湯灌をしている最中に、音楽をかけてもいいだろうかと聞いた。
「わからないな。一応ひと揃い持っててみればいいんじゃないか?」
叔父さんが好きだったバラードが流れる中、叔父さんの湯灌は進んだ。
泥が乾いてガチガチになっていた叔父さんの髪は大量の湯を必要としたが、納棺師は何度も往復して洗髪してくれた。顔を拭ってキレイになった叔父さんは、お気に入りのライブTシャツを着せてもらい、やっと落ち着いた表情になったように見えた。
『出来損ないのボクが、世の中の役に立てる唯一のこと、なんだよ』
いつだったか、その献体ってヤツはなんなんだ、どうしてそれに行きたいのかと、叔父さんに聞いたことがあった。その時に、答えてくれた言葉だ。
オレは、やっぱり今いち理解できなかったけれど、叔父さんがそうしたいのなら異論はないと思った記憶がある。献体は、自分の体を医大なんかで研修医が解剖するように提供するというものだと、叔父さんが亡くなってから知った。興味がなかったオレは、調べようともしなかった。でも、内容を知って叔父さんの意思がどれほど尊く美しいのかを知ったのだ。叔父さんが好きだったバラードに負けないくらいじゃないか。叔父さんは、彼らに助けられて、自ら呪いをかけた体を解放できたのだ。その体を、世の中の役に立てるために、見ず知らずの医者の卵に解剖されるために、捧げるなんて。その行為は、なんて神聖で素晴らしいことなのだろうかと叔父さんを誇りに思った。
叔父さんは、彼らが書く繊細な歌詞に、磨かれた旋律に自分を重ねてでもいたのだろうか。もし、そうだったら、嬉しい。
オレは、冷たくなった叔父さんの手に、初ライブのチケットを握らせた。
「納棺と火葬は、大学側でやってくれるから、骨壺が戻ってくるのを待つだけだそうだ」
叔父さんの遺体を見送る父が、寂しそうに口にした。献体に行く遺体は、棺も火葬も全て無料らしい。
叔父さんは、残された者に一切負担をかけることなく逝ったのだ。
叔父さんが愛した彼らの物品は全てオレが相続することになっていた。例え、彼らが解散することになっても、死ぬまで大事にすると誓った。もちろん『ツァラトゥストラ』もだ。ドストエフスキーは父に押し付けた。
遠ざかっていく、叔父さんを乗せた車を目で追いながら、どうか、大学関係者がチケットを読んでくれますようにと切に願った。叔父さんの手に握らせたチケットには『火葬の際には、必ずライブTシャツを着せてあげてください!そうしないと呪います!』と書いたのだ。
『世界には、君以外には誰も歩むことができない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め!』
叔父さんから相続したニーチェの本の中で見つけた、アンダーラインが引かれた一文だ。
叔父さん、進むよ、オレは。どこに行き着くのかなんて考えずに。任せろよ。
秋空一面に広がったうろこ雲。止め忘れたデッキから流れるバラードのヴァイオリンの旋律が、風に乗って流れていった。
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