遺爪


 兄が、死んだ。

 首つり、だったそうだ。

 涙ながらに電話してきた母の後ろで、父が怒鳴っていた。

 アイツはうちの恥だ!と。


 兄が、仕事がうまくいかなくて悩んでいたのは、少し前から知っていた。

 広告代理店に勤めていた兄が、上司から独立を持ちかけられて、フリーランスになったのは四年前。前の職場で築いたコネや顧客を相手に、滑り出しはよかった。けれど、一人ではできる内容や範囲が限られていることもあり、大口企業相手の取引が難しくなり、徐々に依頼が減っていった。

 兄は、新規の顧客獲得に奔走したが、元々あまり営業に向いていなかったこともあり、なかなか思わしい結果は出なかった。

 そんな兄を父は、厳しく非難した。

「見ろ。言わんこっちゃない!」から始まり、

「だから、おれは言ったんだ。横文字を並べりゃ最先端だと勘違いしているような、あんな聞いたこともないような会社はやめろ、とな!」

「苦労して大学まで出してやったのに、とんだ親不孝!赤っ恥だな!」

「そもそも、初めっからお前には向いてなかったんだ!」

「なにがフリーランスだ? やってることは、日雇い人足それ以下じゃないか!」

「お前は、その会社から体よく干されただけだ!ちょっと考えりゃわかりそうなもんだ!」

「お前は社会ってもんをわかってない!世の中を舐めるなよ!お前みたいな甘ったれの出来損ないがやっていけると思っているのか!」

「まあ無理だろうな。お前は、学生時代にもなにひとつ努力をしてこなかったからな!」

「そんな歳になるまで、フラフラしていたお前に勤まる仕事があると思うな!」

 商社マンだった父は、戦後の景気回復の波に乗って、最終的には社長補佐役にまで昇り詰めた人だ。

 そのせいで、自分の考えと言動には絶対的な自信を持っている。

 多忙だった当時の父は、家庭を顧みないばかりか、母を軽んじていた。

 たまに家にいる時があれば、飯がマズいだの部屋が汚いだと母を怒鳴り、兄に小言や皮肉を浴びせ、わたしには説教を垂れていた。父は家族にキツく当たることで鬱憤晴らしをしているようにさえ見えたものだ。

 わたしは、父のそんなところが大嫌いだった。

 母は、父の所業によく耐えていた。

 飯がまずいと言われれば黙って作り直し、部屋が汚いと言われればすぐに掃除をし、バカだ無能だのと数々の罵りを俯いてやり過ごす。これが昭和の妻の鏡なのかと感動すらしても、真似たくはなかった。

 父のような暴君みたいな男となんて絶対に結婚してたまるか、と常に決心していた。

 早く大人になりたかった。

 特にわたしは女の子だったので、兄と違って一人暮らしを許されていなかったのだ。

 家を出て行く方法は一つ。結婚だけだ。

 だけど、父の紹介やお見合いなんてとんでもない。父と似たような種類の男を連れ添わさせれた日には、目も当てられない。

 わたしは、学校や職場で、父のお眼鏡にかないそうな旦那候補を血眼になって探した。

 そして、とうとう見つけたのだ。

 行きつけの居酒屋で知り合った夫は、明るくて気さくな男だった。

 両親と共に小さな皮膚科医院を経営している彼は、れっきとした医者で、しかも彼の曾祖父が旧華族の出だとかなんとか。人柄よりも家柄重視で見栄っ張りの父は、彼の経歴を聞いただけで彼を気に入り、あっさりと結婚を承諾した。

 取るに足らない目の上の瘤でしかない娘が、そんな立派な家に嫁に行けるのだ。父は、両家の顔合わせや結婚式の時などには、決して普段の暴君振りを見せるような愚かしい真似はしなかった。そればかりでなく、娘の行く末を心から案じ、結婚を祝福する不器用な父親を完璧に演じきったのだ。

 滅多に見せない笑顔で涙ぐむ父を、わたしばかりでなく母や兄ですらも吐気を催す程の軽蔑の眼差しと、冷えた笑顔で眺めていた。

 兄に続いてわたしという仲間を失った母は、さぞかし孤独だったのだろう。

 わたしが出産した辺りから、孫の世話をしたいという名目で押し掛けてきた。幸いにも、夫側の両親が忙しかったため、結果的に助かりはしたのだが、父は激怒し、何度も電話をかけてくる事態となった。

「ごめんなさいね。明日には帰りますから」と父に言いつつ、母は、息子が一歳になるまで居座り続けたのだ。

 それからは、わたしのサポートと孫の面倒を見るためにと、頻繁に訪ねてくるようになった。

 夫が働く皮膚科にも、一週間に一度の頻度で表れる。体が痒いだとか、蕁麻疹ができただとか無症状で来院するわけではないので、夫も無下にはできない。実際、母はストレス症皮膚乾癬や帯状疱疹などに悩まされていた。原因は明らかだった。父が、家にいるようになったのだ。

 定年退職を迎えてもOBとして会社に雇ってもらえていた父も、さすがに八十の大台に乗ってくると隠居を勧められたこともあり退職した。父流でいうところの、体のいいお払い箱だ。

 ところが、趣味の一つもないため、毎日暇を持て余し、どっかりと胡座をかいて今まで以上に母虐めに熱を入れているらしいのだ。これには、さすがの母も参った。

 なにかしら架空の用事を作っては、外出するようになった。

 もちろん、料理一つできない父のために、早起きして二食分のご飯を用意し、洗濯を済ませ、掃除をしてから出て行く。ところが、父には、それが気に食わなかったようだ。

 家に帰ると、しつこく詮索され、ねばっこく尋問され、鞄の中を調べられ、電話までかけられる。

「女房失格」「浮気女」「無駄金使い」だのと散々言われるのだと、母は溜め息をついていた。

 母は兄のところにも逃避していたらしく、兄からは何度も離婚しろと忠告されていたらしい。

「離婚できたら、どんなにいいかしらねぇ」でもねぇーと母は、湯飲みを置くと、首を右寄りに項垂れる。

「もう還暦なのよ。お先短いこんな歳になってから、離婚もなにもあったもんじゃないのよ。今のあたしができることって言ったら、あの人が先に逝くことを祈ることだけ」せめて癌かなにかになって入院してくれないかしら、とぼやく。だが、父は健康そのもので、いくら老いても病気どころか風邪すら滅多にひかないのだ。

「あたしが先に逝くなんて、ご免だわ。苦労損じゃないの」確かにその通りである。

「お兄ちゃんのところに行くってことはできないの?」

「あの子は、今集中しなきゃいけない時期なのよ。商売を軌道に乗せるのは生半可なことじゃないの」

「かえっていいじゃないの。お母さんが行って、お兄ちゃんの身の回りの世話をするって口実になるわ」

「そうかねぇ。あの子は、それを望むかしら?」

「だって、うちはもうすぐ中学受験だよ。ナーバスな時期を迎えるの。塾にも行かなきゃだし、家でだって勉強に集中させてあげたいのよ。今までと同じには行かないよ。お母さん、勉強教えられないでしょ?」

「それは、そうなんだけねぇ・・」母は抱えた湯飲みの表面を両手の指で擦り続けている。

 わたしは、その時、知らなかったのだ。

 兄の仕事が、軌道に乗るどころの話ではなかったことを。


 兄は、おっとりとしていて優しい人だった。

 ただ、わたしと違って顔立ちがよく、当時人気のあったイケメン俳優に面影が似ていたこともあり、学生時代にはだいぶモテたらしい。バレンタインデーには大きな紙袋いっぱいのチョコレートを持って帰ってくるので、わたしはよく相伴に与った。兄の顔は、父にも母にも似ていなかった。

 いつだったか、父が母のことを『不貞な妻』と罵っていたことがある。その時は、意味がわからなかったが、後になって知って驚愕した。兄は、わたしとは父親が違う子どもなのだ!だが、その事実と思われることは、いつまで経っても、わたしの憶測の域から出て真実になることができなかった。母が頑に否定していたからだ。

 けれど、兄の顔を見れば見る程、自分との共通点はどこにも見出すことができなかったわたしは、兄のことを近所のお兄さん的な存在として見ることにした。さすがに情愛などは沸かなかったが。

 兄は、父の操り人形でいたがった。

 父が理想とする息子になることが、兄の夢だったのではないだろうかと思う程、彼は父に絶対服従の姿勢を示した。それは、もしかしたら、兄が、自分は父の本当の息子ではないと、どこかで気付いていたからこその行動だったのかもしれない。だからこそ、父は、齧り付こうと必死になる兄を、厳しく蹴落として、誰よりも貶していたのだろうか。今となっては窺い知ることはできない。

 とにかく、兄は、父に言われた通りに勉強に励み、父の希望する大学に入学して卒業した。問題はそこからだ。

 兄は卒業と共に、件の広告代理店に就職し、家を出た。父に相談も許可もなしにだ。

 これは謀反と取られても仕方ない行動だった。父が絶対君主として君臨する城から逃亡したのだ。それも、父に虐げられても虐げられても崇拝するように父の意思を優先していたのに、ある日、いきなり裏切ったのだ。

 けれど、兄のこの衝動的ともいえる行動は、少なくとも、わたしの視野を広げた。


 わたし達は、自分がその気になりさえすれば、

 いつだって、父に脅かされない世界に出て行くことができるのだと。


 そうして兄に続いて、わたしも、父が支配する城から出奔することに成功したのだ。

 結婚式の日に久しぶりに顔を合わせた兄とは、その後も、何度か会って食事をした。有名な広告代理店にいた頃の兄は、今まで見てきたどの兄よりも、羽振りがよく、生き生きとしていた。わたしは、兄のお陰で初めてホテルランチというものを味わったのである。

 ザ・プリンスパークタワー東京のレストランの窓越しに都会の景色を横目に、兄の饒舌は止まらない。 

 仕事が順調であること、やり甲斐を感じていること、なにより充実して楽しそうなことを語り尽くそうとするかのようだ。絶好調の時の人が誰しもそうであるように、兄は夢物語みたいな将来の展望を飽きることなく話し続けていた。

「子どもから年寄りまでスマホが浸透している今の時代、宣伝・広告は増々力をつけてくるだろう。むしろ、以前より遥かに人心を操りやすくなるのは、スマホの依存に警笛を鳴らされてることからも明らかだよ」

「えーなにそれ。でも、インターネット上でなにかを検索して、出てきたページを開くと必ず広告がくっついてきて、うっとおしいのは事実ね。消そうとしてもバツ印が小さいんだもの。面倒臭いから放りっぱなしにしてるけど、」

「そうして、知らない間に、広告が焼き付けれるんだ。それが狙いだよ」

「ええ!それって、精神コントロールじゃないの? ヤダー怖いわ」

「心理学は、人間相手には欠かせないスキルだよ」

「でも、お父さんはモロに言葉と顔に出てわかりやすいから、心理学は必要ないわね。お母さんも」そんな皮肉めいた冗談を口にしたわたしが笑うと、兄もつられて、あの二人はわかりやす過ぎる、と笑い出した。

 兄からは話してこなかったが、きっと彼女らしき特定の相手もいたのではないだろうか。たまに会う度に、兄からは大体同じ女物の香水の匂いがしていたから。それとも、それはもしかしたら兄自身のものだったのかもしれない。整った顔立ちを維持していた兄なら、充分そういう方向性も考えうることだわと、わたしは勝手な想像を膨らましては楽しんでいた。

「とにかく、なにもかもが今までとは違うんだ。毎日が楽しくて、しょうがない。朝起きてすぐに、その日の仕事のことをワクワクしながら考える。広告には無限の可能性があるんだ。どこまでだって、自由に飛んでいける!」

「兄さんの人生は、これからなのね。応援してる。がんばってね!」

 ありがとう!と、照れながらくしゃっと破顔する兄。少年のような可愛らしい笑顔。

 その時が兄の人生におけるピークだったのかもしれない。

 まさか数年後、自分が首を括るなんて、本人すら予想もしていなかったことだろう。



 兄の葬儀に、身内以外の参列者は、なかった。

 再会した兄の顔は、化粧を施されて厚ぼったい印象を受けた。

 顔色が紫から黒に変色してしまっていたので、仕方ないことだが、イケメンの兄とは程遠い顔だった。

 けれど、母は真っ先に駆け寄り、号泣しながら兄の顔を両手で包んだ。

「お母さん、お化粧落ちちゃうから、あんまり」わたしが母の肩に手をかけようとしたその時。

「納棺師さんが困っているだろう!やめなさい!みっともない!」

 父が、母を一喝。

 その場に嫌な沈黙が降りたが、納棺師が、後程お直ししますから大丈夫ですよ、と場を執り成す。

 母はずっと泣いていたが、父は悲しむ気配さえ見せなかった。

 その様子を見て、わたしは、兄が父と血が繋がった子どもではないのだと確信した。

 父は兄に末期の水を飲ませる時にも、手を拭く時にも、始終顔を見ることはなく、忌々しそうな顔をして機械的にこなした。兄に「お疲れさん」と、声をかけた後は、まるで幼子のようにウロウロと部屋を散策し始める有様。

 仮にも喪主と名乗っているくせに、理想の息子になろうと翻弄していた兄に対して、血が繋がっていないというだけで、最後の最後までなんと情けないことなのだろう。縁を切りたくなった。

 母は、泣きながら、いつまでも兄の足を擦っていた。兄は冷え性だったのだ。

 それを見た父が「あんなに爪を長くして、みっともない」と、低く唸った。

 すると、母が納棺師に向かって言ったのだ。

「この子の爪を、いただくことはできませんでしょうか?」

「お前、なにを言ってるんだ!死人の爪を取っておくなんて縁起が悪いに決まっている!無理でしょ?」と納棺師に問い掛ける。

 納棺師は、父と母の顔を交互に見比べていたが、暫くして、お切りしましょうと爪切りを出してきた。

 父が一瞬、憎悪の籠った眼差しで兄を睥睨したのを、わたしは見逃さなかった。

 母は、兄の爪をハンカチで大切に包むと、ハンドバッグに閉まった。それから、兄の手を取って「がんばったね。辛かったね」と繰り返した。

 わたしとわたしの息子が、涙で溶けてしまうんじゃないかと思う程泣き続けている母に寄り添っていたが、父は知らん顔でお茶を飲んでいる。

 最後、棺の上に母が持参した花束を手向ける段になって、急にしゃしゃり出てきたかと思うと、放り投げるように花束を置いて、泣いている母の肩を突き飛ばして離れていった。終始最悪だった。


 棺に納めた兄が式場に安置されたので、全員でお線香を手向けに行き、控え室に戻って一息入れていた。

 不機嫌な顔をして母が煎れた緑茶を啜っていた父が、突如立ち上がったかと思うと、母の脇にあるハンドバッグを掴んで中身を掻き回し始めたのだ。

 驚いた母が、父の手からハンドバッグを取り返そうと手を振り回したが、父はハンドバッグの中身をぶちまけた。そして、兄の爪が包まれたハンカチを掴もうと手を伸ばしたが、ハンカチの前に落ちていた白い紙に目を止めて、ふと拾い上げた。

「あぁそれは・・!やめてください!」

 母の制止を振り払って、四つ折りに畳まれた紙を広げた父の顔は、たちどころに色を失った。かと思うと、青ざめて震え出し、それが赤い怒り顔へと変わっていく。

「これは、どういうことだ!」

 テーブルに叩き付けられたそれは、離婚届だった。既に母の署名は済んでいる。

 母は、兄の爪をハンカチごと優しく拾い上げながら、そのまんまのものですよ、と冷たく返した。

「あの子を骨壺に納めた後に、お渡しする予定でしたのに」仕方ありませんわね、と先程の消え入りそうな母とは打って変わって、キッパリとした強い口調だ。

「お前、いったいどういうつもりだ!そんな歳で独り身になったところで、行く宛てなんてないだろうが!」

「宛てがないのは、あなたも同じでしょう。それに、この歳じゃ遅かれ早かれ独りになるんです。なにを恐れることがありますか」

「生活費はどうするんだ!働くこともできないくせに!」

「あなたは、いつもあたしを無能だとバカにしていましたね。でも、この世の中には、こんなおばあちゃんでも必要としてくれる人はいるの。ご心配には及びません」

「お前を必要とするやつだと? 誰だ!まさか・・!」父の顔が、真っ青になっていく。まるでカメレオンだ。

「あなたには、心底愛想が尽きました。あたしは、あの子を連れて出て参ります」

 兄の爪を包んだハンカチを両手で握りしめた母は、キッと父を睨んだ。

 それは、わたしが見た最初で最後の母の下克上の姿だった。

 父はぶるぶる震えながら、勝手にしろと怒鳴って出て行った。

「一世一代の大芝居ってやつねぇ」母はソファーに崩れ落ちた。

「え? 今のお芝居なの? 離婚しないってこと?」とわたしが聞くと、母はしーと口に手を当てた。

「それは、これからの、あの人の出方次第ね」ね、と兄の爪の包みをポンと叩いた。

 まだまだ納まらなさそうな騒動の予感がした。

 とりあえず、この後迎える通夜、告別は険悪なムードになるのは間違いなさそうだ。

 わたしは肩を竦めたが、どこか胸のすく思いだった。

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