死化粧


 母が毎年楽しみにしている、うちの向かいの公園に植えられた桜が、散り始めた。


 私は、いつものように朝食をとって、いつもと同じように、夫と両親に行ってきますと言って、きっかり同じ時刻に玄関を後にした。


 春風が花びらを舞い上がらせる気持ちのいい朝だ。


 私は、深呼吸をして空を見上げた。

 今日は少し残業しなければいけないが、母が夕飯を作ってくれると言っていたので、私の好物でもあり母の得意料理のビーフストロガノフをリクエストした。今から楽しみだ。


 夫は、両親ともうまく付き合ってくれている。


 出会った頃の彼は、モジモジと恥ずかしがりやの奥手で、遠慮がちでそそっかしくて受け身で、おまけに丸い眼鏡をかけた到底魅力的とは程遠い、ただただ頼りない草食系男子だった。

 当時の私は、大胆で強気で男らしい肉食系が好みで、彼は真逆のタイプだった。

 それなのに、まさか、そんな人と結婚することになろうとは、つくづく人生はなにがどうなるかわからないものだわ、となにかにつけてしみじみ思う。

 押し出しこそ弱い夫は、とても心優しい人で、私はそこに何度救われたかわからない。

 彼は、両親を大切にしている私の気持ちを、誰よりも理解してくれていた。

 それだから、父が倒れた時にも、夫はパニックになった私を落ち着かせながら、すぐに同居したほうがいいと言って、テキパキと手配をしてくれたのだ。この人が夫でよかったと心底思った。

 幸い、後遺症が少し残るだけで退院できた父と、すっかり気弱になってしまった母を説得してこのマンションに引っ越してきて早三年。

 子どもこそ、なかなかできないでいるが、両親と愛する夫と過ごせることに幸せを感じている。

 例えるなら、苔生した堅牢な岩や青々とした瑞々しい水草を縫って、時々陽光をチラチラと反射させながら流れていく美しい小川を眺めているような、安穏とした幸せだ。

 私は、小さく息をついて、ホームに滑り込んできた満員電車に乗り込む。

 乗り換えする新宿駅までは、遠い。

 ニュースをチェックしようとして、スマホを取り出した。

 いつのまにか着信が入っている。それも立て続けに、何件もだ。

 夫と父からだった。

 嫌な胸騒ぎがする。

 次の停車駅を確認している間に、夫からメールが届いた。


『お母さん、倒れた』


 凍り付いた。

 え・・? うそ・・何度も何度も短い文面を確認するが、どこにも間違えが潜む余地など見つからない。

 夫も狼狽しているのだろう。メールは単語ごとに千切れて、矢継ぎ早に届く。

『救急車、呼んだから』

『おかあさん、意識ない』

『いまどこ?』

『帰ってこれる?』

 次の駅まで、あと少しで到着する。

 私は目の前にある扉を手動で開けるレバーを引いて、飛び降りて駆けていきたい衝動を押さえながら、スマホの画面と車内案内表示装置とをもどかしげに交互に睨み続ける。


 速く!速く!速く!速く・・!


 やっと降車した私は、向かいの反対線に乗り込む。

 心臓が早鐘を打っている。

 夫からのメールは続く。

『いまどこ?』

『救急車まだ』

『来ない』

『どこらへんにいる?』

『はやく』


 速く!速く!速く!速く!

 速く着いてよ!


 動悸がする。顔が熱い。冷や汗が出る。

 心臓が口から飛び出してきそうだ。

 私は、開く扉側に陣取ると、緩みそうな涙腺を引き締めて車窓を睨んだ。

 朝は、元気だった。

 一緒に朝ご飯を食べて、笑って見送ってくれた。それなのに・・

 やっとついた最寄り駅の階段を駆け上がって、自宅に向かってひた走る。

 救急車は、来たのだろうか?

 スマホを確認する時間すら、もどかしい。

 やっと自宅のマンションが見えたのと同時に、赤く光るランプを乗せた白い車、救急車が私の視界に入った。

 風に舞い散る花びらが、その胸も張り裂けそうな景色に、彩りを添える。

 マンションのエントランスから複数の救急隊員がタンカーを押して出てきた。

 タンカーの上には、毛布に包まった、母。


 待って・・待って・・!


 後を追って出てきた夫と父の姿も見える。

 私は息を切らせてもがきながら、叫ぶ。

「・・お母さん!」

 私に気付いた夫と父が泣き出しそうな相貌になり、次いで救急隊員に声をかけて彼女を指差す。

 母が大好きな桜の花びらが、毛布に包まれた母に散り掛かる。

 私の視界が滲む。それでも、足は止まらない。


「・・お かぁ さん!」




 目の前で納棺師に髪を洗われている母を、瞬きも忘れて呆然と眺めていた。

 そんな私の背中に、夫がそっと手を添えた。

「・・お母さん、気持ちよさそうだね」

 夫がなんと言ったのか理解するのに時間がかかった私は、少し遅れてゆっくりと頷く。

 声が、出てこない。

 声を、言葉を、今までどうやって口から出していたのかを、忘れてしまったような、そんな妙な気分だ。

 耳から入ってきた新しい情報は遮断されて、分別・判断するような段階まで持っていくことができないし、そんな気力は体のどこにも残っていなかった。

 私の記憶は、臨終の際に見せた母の顔で、止まったままだ。

 それでも、夫の言葉に反応するために、錆び付いてしまった思考のネジを、痺れた手で無理矢理回しているような恰好だった。

 母の横には、桜の柄が刺繍されたピンク色の棺が待機している。

 母は桜が好きだからと指差したのだが、こうして現物を目の当たりにすると、綺麗な色だとか可愛いといった感情より先に、空恐ろしさが沸き上がってくるのだ。あれは、紛うことなき棺。

 母が、あの中に入ってしまったら、もう・・


 母が昏睡状態で倒れてから、一年。

 とうとう、こんな日が、来てしまった。



 運び込まれた病院で精密検査を受けた母の体は、病巣と化していた。

 これだけ進行していて、本人に自覚症状がなかったはずはない、と医者は言う。けれど、私を始め、家族の誰も知らなかった。

 母の自室からは、様々な種類の薬が、大量に発見された。


 お母さん・・どうして、黙ってたの?


 さぞかし、夜も眠れず苦しかったことでしょうと医者は推測するが、母はそんな様子などおくびにも見せなかった。一緒に寝起きを共にしていた父ですら、母の様子には気付かなかったのだ。


 母は、いつも、笑顔で・・

 いつも変わらず、優しくて・・


「ごめんね。迷惑かけちゃったね」

 意識が戻った開口一番の母の言葉がそれだった。

 迷惑かけるなんて、そんなこと気にしてたの? と、私は安堵からつい声を荒げてしまった。

「どうしてよ!なんでよ!今更そんなこと、自分の体を犠牲にしてまで、気にすることなの? お母さん、わかってないの? 体中なんだよ!もう、手遅れかもしれないんだよ!どうしてよ!どうして、こんななるまで放っといたの? どうして、話してくれなかったの? お母さんは、私たちのこと信用してないの? ねえ、なんでよ!」なんでよーと泣き崩れる私を、傍らの涙目をした夫がまあまあ、よしよしと慰めてくれる。

 母も、泣いていた。


 それでも、母は一年もがんばった。


 がんばって、がんばって、最後まで生きることを諦めなかったのだ。

 けれど、日に日に痩せ細っていく母の姿を、生命力の色が薄くなっていく顔色を、その背後に蠢く死を見る度、私は発狂しそうだった。


 母にこんな思いをさせるために、同居したんじゃ、ないのに・・


 病院から帰ってくると、部屋に籠って泣いた。

 どんなに泣いて嘆いても、母に迫り来る絶望的な死は、その歩みを止めてはくれない。いや、今考えると、母がその歩みを必死に止めていたのだろう。

 私はどうにかして母の命を繋ぎ止めたいと、インターネットで調べた病院や医者に連絡を取りまくったが、返答はだいたい似たようなものだった。

 病状説明に始まり、具体例、痛みの緩和治療方などが書かれていたが、私の記憶には残らなかった。残ったのはただ一文のみ

 『お力になれず申し訳ありません』


 再び巡ってきた春、大好きな桜の蕾が膨らみ始めた頃、母は永眠した。



「あの・・母にお化粧してあげたいんですけど」

 納棺師がメイクボックスを広げたのを見た時、咄嗟に言葉が口をついて出た。喉が塞がっているような籠った声はまるで自分が言ったんじゃないような錯覚になる。

 納棺師は莞爾に笑んで、どうぞ、お母様もきっと喜ばれます、と場所を譲ってくれた。

 私は、持参していた口紅を手に、母の右側に陣取り、納棺師に教えられるままに化粧をしていく。

 ファンデーション、チーク、アイブロウ、そして口紅。

 生前、母が愛用していた赤いチューリップ色の口紅を塗ると、げっそりと青白かった母の顔は、生き返ったように明るくなった。

「ああああ、かあさん・・!かあさん!」

 それまで黙って眠そうに俯いていた父が、目に涙を溜めて、母に躙り寄ってきた。

「キレイだよぉ ほんとにキレイだぁー・・」

 泣き伏せる父の横で、眼鏡に電気の明かりを反射させた夫が鼻水を垂らして、うんうん頷いている。

 私は、改めて母の顔を見た。

 母は、少し困っているような微笑みを浮かべている。ように見えた。

『あらあら お父さん、しっかりしてくださいな』そんな母の声が、聞こえてきそうだ。

 母のカールした髪をそっと撫でる。美容院が好きで、いつも身綺麗にしていた母は、きっと喜んでくれるだろう。


『ありがとう みんな元気でいてね』


 自分は死んじゃったくせに、お母さんが言わないでよ、と私は小さく悪態をつく。

 優しい母の娘のくせに、いつも私は捻くれた物言いをしてしまう。


『それもそうね ごめんごめん』

 謝んないでよ。お母さん、どうしていつも謝るの? 


 思い返せば、父が倒れてからずっと、母は私たちに謝り通しだった。

『仕事が大変なのに、呼び出して、ごめんなさい』

『ごめんなさい、どうしていいかわからなくなったの』

『あなた達の生活があるでしょうに、無理させて、申し訳ないわ』

『ごめんなさいね。いつも気を使わせちゃって』

『なんだか、私たち夫婦だけ、こんないい思いしちゃって、申し訳ないわね』

『旦那さん、無理してない? 迷惑ばかりかけて、ごめんなさい』

『ごめんなさい。やっぱり迷惑かけちゃったわね・・』

『あたしはもういいのよ。ごめんね』

『こんなにもあなたを悲しませてしまって、ごめんなさい』


『ごめんね・・』


 もういいよ!

 お母さん、謝らないで!

 もう、謝らないで!



 子どもの頃、私は、だいぶ正義漢の強い頑固な子どもだった。


 おっとりしている父と優しい母のいったいどこから産まれてきたものだか、二人の性格をちっとも引き継がなかった私は、幼稚園の頃からしょっちゅう誰かと喧嘩をしては、母を呼び出させた。

 でも、大体相手が悪いのだ。

 威張り散らしたり、自慢したり、嫌味を言ってきたり、誰かを虐めたり。

 私は、そんな陰険な種類のことをしている人種が大嫌いだった。許せなかった。だから、歯向かった。

 虐められて泣いている子も叱りつけた。そんなんだからイジメられるんだよ、もっと強くなりなよ!と。

 そうしたら、その子の親に訴えられ、母と二人で謝りにいくこともあったりした。

 とにかく母は、私のためにペコペコペコペコ謝り続けていた。


 なにも悪いことをしていないのに、どうして謝らないといけないの?


 頭っから悪いことをしていないと信じていた私は、頑として謝らなかった。

 子ども心に、無実の罪に謝罪するほどバカげたことはないと思っていたのだ。

 そんなことをしたら、無罪が有罪になってしまう。

 せっかくの善行が悪行になってしまう。

 だって、見てよ。謝るうちのお母さんを見るあの目つき。あいつらのほうこそ悪人なんだ。

 私は、その差別的で侮辱的な絵面が大嫌いだった。

 謝らないで、と母に懇願したこともある。

 母は、困ったように笑って、そうはいかないわよ、と言った。


「誰がどのくらい傷付いたかなんて、本人じゃなきゃわからないでしょ。だから、謝るの。いくら正しいことだったとしても、正義は絶対じゃない。だから、謝るの。謝ることは、恥ずかしいことなんかじゃないのよ。むしろ、謝れない人は可哀相な人だと思うな」


 微笑む母の、底力を見た気がした。

 母の意見に影響された私は、その日から喧嘩をしなくなった。

 その代わりに、なにかあったら話し合いをする。お陰で、議論が得意になった。

 それでも、なかなか母のようにスムーズに謝ることができずにいた。

 話し合いは、謝罪を回避するために編み出した秘策だ。

 どこかで、謝りたくないと思っている自分がいた。

 それは、大人になってからも変わらずに存在し続け、夫にもだいぶ不憫な思いをさせているはずだ。

 強情な私によく付き合ってくれていると感謝しかない。

 そんな私の側で、母は口癖のように謝罪の言葉を口にする。


 まるで、私の代わりに謝っているみたいだ。

 じゃあ、お母さんは私のために謝罪して、謝罪して、謝罪して、それでも足りないから自分の体まで?


 思い詰めて、枕元で泣きじゃくる私の頭を撫でながら、ごめんねと謝り続ける母。

 お母さんは悪くない!

 悪かったのは、きっと、私だ・・私のせいだ・・


「君のせいじゃない」

 桜色の棺に横たわった母を呆然と見つめながら佇んでいると、夫が肩を叩いた。

「お母さん言ってたよ。君を悲しませてしまったことが、母親として一番罪深いことだってさ」

「お母さんは、私のことでいっつも謝ってたよ!私が不甲斐ないばっかりに。捻くれた娘だったから・・!」

「君のことを、誰より愛してたからでしょ。お母さんは、君が一番大切だったんだよ」

 当たり前のことを改めて口にされて、私の涙腺が緩んだ。

「だから、大切な君のために謝るなんてなんともなかった。僕が君に対してそうであるようにね。だから、大丈夫」

 夫に背中を擦られながら、ぼやけた景色に母を探した。

 天窓越しの母の顔は、照明の反射からなのか少し微笑んでいるように見えた。




 満開の桜の木に埋もれたような火葬場から一本突き出た煙突。

 そこから透明な青空に真っ直ぐ昇っていく白い煙を、私は膝を抱えて見送っていた。


 光に白く反射した桜が視界を塞ぐ。

 母が好きだった桜が、嫌いになってしまいそうだ。


 母は、きっとあの世で祖父母に会えるだろう。

 私が死んだら、母は迎えに来てくれる。そう考えると、死ぬことに対しての恐怖はなかった。

 怖いのは、当たり前にいた家族がいなくなる喪失感と、取り残されること。


 だって、一緒に、いたいのよ。

 会話して、笑い合って、手を繋いで、抱きしめて。

 相手の存在を確かめて、ずっと一緒にいたい。

 実体がなきゃ、そんなこと、叶わない。

 できっこないじゃない。


 ねぇお母さん・・

 お母さんは、あの白い煙に乗って、いったいどこに逝っちゃうの?


 入り口近くの桜の木から、夫がひょいと顔を出した。

「いたいた。お坊さんが、君を探してるよ。初七日のことで話があるんだって。喪主はお父さんなんだけど、落ち込んでて話をできる状態じゃないから、代わりに君と話したいらしい。どうする?」無理そうなら僕が話してくるけど、と夫は私の背を優しく何度か叩いた。

「ごめんなさい、大丈夫よ。話せるわ」

「謝ることなんて、なにもない。君は謝り過ぎだよ。お母さん譲りかな?」

 夫の言葉で、私の中でダラダラ漏水していた水道管が、完全に破裂した音が響き渡った。

 私は煙を見上げたまま、幼子のように大声で泣き出した。

 こんなに大泣きをする姿を見るのが初めてだった夫は、仰天してオロオロしていたが、すぐに私を抱きしめてくれた。


 春の芽吹きの香りを纏った風が、桜の梢を揺らし、私たちの髪を弄ぶ。

 けれど、母の煙は、どこまでも真っ直ぐに昇っていく。


 母の最後の言葉を、思い出す。

 痩せさらばえた母は、目を細めて私を見つめると、残っている力を振り絞って言葉を紡いだ。


『幸せな 愛を ありがとう』


 ・・お母さん 私のほうこそ、ありがとう

 いつも、愛情を注いでくれて、ありがとう

 お母さんの子どもになれて、幸せだった


 お母さん、私、がんばるよ

 がんばって、幸せに、生きていくから・・

 だから、

 見守って、いてね。


 夫の喪服の胸にべったりと付着した鼻水を伸ばしながら、私は上を向いて口角を上げた。

 涙で化粧が崩れまくり、真っ黒いパンダ目に真っ赤な鼻をした私の笑顔に、夫が思わず吹き出した。

「ごめんごめん。お坊さん、待たしておくから、化粧直しておいでよ」

 夫に促されて女子トイレに向かうと、隣の男子トイレからウサギみたいな目をした父が出てきた。

「すまんな。顔を洗ってきたから、もう平気だ」そう言って、何度か頬を叩くと、鼻の穴を膨らませた。

「お坊さんが探してるって。私も、すぐ行くから」

 私は、トイレの鏡に向かって、大急ぎで化粧をした。

 口紅だけ、少し考えて母のものを塗る。

 鏡の中には、母にそっくりな私がいた。

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