第14話 気まずい
「私ね体操とかダンスもやってたからさ今度見てもらってもいい?」
一通りの準備を終えてホテルに戻ってくると橘はそう口にする。
「もちろん、むしろ見せてほしいよ」
「練習しとくね」
橘はそう言うとシャワーを浴びに行く。
「えへへ、頑張らないと」
ドアに背中を預けて座った橘は緩んだ両頬を持ち上げながらそう言葉を発する。
神谷に披露したい、見て欲しい、私を描いて欲しい。自分の中に深く根を張っていた欲求が開花するのを感じる。そして欲求の中に存在してこなかった感情が生まれたことを薄々察している。その感情は向けたことも向けられたこともない普通の人には備わっている感情だ。
「……死にたくないな」
橘は自分の身体に出来た黒の痕を見てそう口にする。今のところ生きてはいるがいつ終わりがくるか分かったものではない。この瞬間に終わりが来ない保証はないのだ。
「……怖い」
橘はシャワーヘッドの付いたペットボトルを手に持って思わずそう口にする。今まで平気だったシャワー室に一人という状況が急に落ち着かなくなって気持ち悪くなる。視野が狭まっていくのを感じる。
「早く!」
いつのまにか嬉しい気持ちから不安な気持ちなっていた橘はそう言って髪を乾かさずにリビングに出ると鉛筆を手に机と睨めっこする神谷がいる。
「次どうぞ」
「あ、うん」
神谷は返事をしながら隠すように紙を裏返してファイルにしまうとシャワーを浴びにいく。
「何を描いてたんだろう?」
神谷の動きは橘に見られたくないように感じだった。ヴァイオリンやピアノを演奏する前の橘だったらスルーしていたが今の橘は気になって落ち着かない。
「見たらダメかな?」
そう言いつつ橘はファイルを手に取る。見てはいけないと頭では分かっているが身体は理解しておらず中の紙を取り出す。
「あっ、あ」
紙に描かれていたのはペンを手にした馬乗りの女子の下書きだった。
「これって私だよね。というか私しかいないよね」
顔は描かれていないがこんな事を神谷にしたのは橘以外存在しないだろう。
「そっか、神谷にはこんな風に見えてた――」
「橘、洗面所にドライヤーが置いてあったよ」
「っ!?」
橘は後ろからした神谷の声に勢いよく振り返る。
「あ、えっと……」
橘はやましい事をしていた自覚があり硬直する。そして疑問そうにしている神谷の顔は次第に血の気が引いていく。
「……見た?」
「……ごめんなさい」
「そっか、見ちゃったか」
神谷はそう言うとフラフラな動きで後ろに後退すると頭を押さえて椅子に座り込む。
「ごめん、キモくて」
「か、勝手に見た私が悪いから」
「ごめん、本当に」
絶望の淵にいる神谷はそう言ってシャワーを浴びに戻る。
「ま、待って!」
橘はそう言って神谷の手を掴む。
「私さ、神谷に描かれるの嫌じゃないよ。むしろもっと描いて欲しいし」
「そ、そっか。じゃあ尚更さっきの絵は捨てないとだ」
「待って、捨てなくていいよ」
橘がそう言うとファイルに手を伸ばす神谷の動きが止まる。
「描きたいものを描くべきだよ」
「いや、でも……橘はそれでいいの?」
「うん。元々実際に私がしたことだし」
橘は焦りながら言葉を発する。勝手に見てしまった後悔が胸を締め付けている。
「その代わりに完成したら私にも見せてね」
「あ、え、うん?」
「約束ね!」
橘は勢いに任せて約束させると神谷をシャワー室に押し込む。
「……やらかした」
橘は地面にしゃがみ込むとそう口にする。今まで感じたことのないほどの後悔で指先の感覚が無くなっている。
「嫌だな」
神谷に嫌われたかもしれないという嫌な考えが脳を支配する。橘にとって嫌われたくないという感情は初めてのものだった。
「……はぁ」
シャワー室に入った僕は呆然とため息をつく。出来心で描き始めたはいいものを本人に見られてしまった。
「どんな顔で会えばいいんだ?」
橘はああ言ってくれたが僕の心はそれをよしとしない、罪悪感で今にも押しつぶされそうな僕はゆっくりと身体を洗う。今日までの三日間を思い出の中にはずっと笑顔の橘がいる。ちょこちょこ不安定な時もあれど原因に僕はない、さっきみたいに僕が困らせることはなかった。
「はぁ、僕は自分の欲求を満たす為に絵を描いてるわけじゃないだろ」
橘に会ってやっと取り戻しつつある感覚だ。嫉妬と承認欲求に狂った高校の時の絵とは違うだろ。橘を喜ばせるために僕に何ができるだろうか?
「そうだ、僕は誰かを喜ばしたり励ましたくて絵を描いている」
僕はそう言って顔を叩くと切り替えてリビングに向かう。もうこの世界に喜ばせる対象は橘ただ一人なんだから。
「髪乾かさないの?」
リビングに戻った僕は椅子に座って下を向く橘にそう声をかける。
「あ、うん、忘れてた」
橘はそう言うとドライヤーを手に持って乾かし始める。
「ねえ神谷、私のこと嫌いになった?」
「そんなことは絶対ないよ。というより橘が僕を嫌いになりそうだけどね」
僕がそう言うと橘は安心した様子を見せる。
「それじゃあ今夜はこれをやろう」
橘はそう言ってバウンス・オフと言われるピンポン玉を地面に置かれた6×6の的の中にピンポン玉を投げ入れて指定された形を作るボードゲームを取り出す。
「負けた方は勝った方の言う事をきくってことで」
「それなら、僕が勝ったら橘には絵を描くのを手伝ってもらおうかな」
「それって馬乗りしろってこと?」
「ち、違うよ!」
僕は慌てて否定した後咳ばらいをしてからシャワー室で思いついたことを口にする。
「僕の学校にやり残したことがあるんだよ」
「やり残したこと?」
「うん、僕は美術部に入ってたんだけど文化祭の横断幕を作ってたんだ」
「なるほど、重大な任務が残ってるね」
「本当はお母さんとお父さんや仲間達のお墓をたてたいところだけど僕にそこまでの勇気はないから横断幕を完成させたいんだ」
「それは絶対完成させないとだね」
「一人じゃ時間がかかり過ぎるから、僕が勝ったら手伝ってもらうね」
「気合い入れないとだね」
橘はそう言うとカードを引いてゲームがスタートする。結果はギリギリ僕の勝ちで明日の予定が決まった。
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