第13話 ヴァイオリン

 「全部が高いな」

 玄関に着いた僕は上を見ながらそう呟く。玄関は僕が縦に二人以上入る高さがあって廊下はもっと高い。

 「ちなみに部屋ってどれくらいあるの?」

 「さあ?三十ぐらいじゃないかな?」

 「自分の家なのに分からないんだ」

 「しょうがないでしょ、広すぎるんだから」

 確かに廊下は先が見えない程長く横目に部屋を見ると僕の家の全ての部屋以上の広さがある。

 「え、あれって体育館?」

 「そうだよ、学校のと遜色ないサイズだね」

 「……まじですか」

 「映画館やプールもあるよ」

 本物のお金持ちの規模はとんでもないな。

 「それと今回の目的の音楽スタジオね」

 一つの扉の前で止まった橘はそう言って雰囲気のある部屋に入る。室内には大きさがバラバラな黒い箱とグランドピアノが置いてある。そしてトロフィーがずらりと並べてある。

 「これって全部橘が?」

 「だいたいそうだね。兄弟のもあるけどね」

 橘は興味なさそうにそう説明する。

 「さすがにブランクがあるから練習しとかないとね」

 橘はそう言ってピアノと向き合う。

 「何か弾いてほしい曲はある?」

 「うーん、音楽はほぼ聞かないからな」

 「それなら聞いたことがあるのを引くね」

 橘はそう言うと鍵盤を大きく使って柔らかい音を奏で始める。

 「あ、聞いたことがあるな、何だっけ?」

 そんなことを考えていると音が低くなって鍵盤を叩くスピードが速くなって重厚感のある曲調に変わる。

 「っ?」

 さっきまで表情は硬いが余裕そうに弾いていた橘の表情が曇ると音が外れていくと橘は引くのを止めて自分の両手を見る。

 「おかしい、こんなミスするわけない」

 「だ、大丈夫?」

 「う、うん。ごめんね格好悪いとこ見せちゃって」

 橘がそう言うと気まずい沈黙が流れる。

 「さっきの曲はなんて名前なの?」

 「くるみ割り人形の花のワルツって曲だね」

 「あ、聞いたことがあるよ」

 「簡単な曲なんだけどね……」

 橘はそう言うと肩を落とす。

 「誰にも失敗はあると思うよ」

 「そうだね、いちいち気にしてたらきりがないよね」

 橘は笑顔を向けてそう言う。でもこの失敗はブランクから生まれたものではなく指先に生じた痺れが原因だということに橘は気づいていた。


 「ダメだ、まずは片手からならそう」

 橘はそう言って黒い箱からヴァイオリンを取り出す。

 「ヴァイオリンも弾けるの?」

 「うん、メインはピアノだけどヴァイオリンとか他の楽器も弾けるよ」

 「す、すご」

 「とりあえずカノンを弾くね」

 橘はそう言うとゆっくりだが壮大な音を奏でる。橘の立ち姿と表情が普段と異なり大人びていてドキッとする。

 「ック!」

 橘をよく観察してみると弦を押さえる左手の動きが鈍い。

 「まさかカノンが弾けないとは……」

 演奏を止めた橘は信じられないといった様子で左手を見る。

 「ご、ごめんね。せっかく聞いてくれたのにダメダメな演奏聞かせちゃって」

 橘は震える声でそう言うと瞳から涙が流れ始める。

 「本当に私ってダメだ。せっかく神谷が聞いてくれてるのにこんなダメな演奏して」

 橘はそう言って溢れる涙を拭うが全然止まる気配がない。それだけショックなことだったのだろうが正直言って演奏の出来はどうでもいい。

 「そんなに落ち込まないでよ、それに僕が描きたいのは楽しそうにしてる橘だから」

 僕はそう言うと口を押さえる。

 「描きたいじゃなくて見たいだった……」

 「ふふ、神谷は絵のことばっかだね」

 橘は笑いながらそう言うともう一度ヴァイオリンを手に取る。

 「そうだね、神谷が絵を描いてる時のBGMだと思うことにするよ」

 「お言葉に甘えてそうしようかな」

 僕はそう言ってA4の画用紙と鉛筆を取り出す。

 「ふー、これは練習、これは練習」

 橘はそう言って胸に手を押し当てて息を吐く。

 「それじゃあ、我が祖国からモルダウを弾くね」

 橘はそう言うとゆっくりと弓全体を使って力強い音を奏でる。そこに硬さは無く全身を使って妖艶に演奏をする。左手もスムーズに動いていて音がしっかりと伸び伸びしている。

 所々で指がもつれることはあれど演奏を止めることなく弾き続ける。

 「やっぱり、楽しそうな姿が一番いいな」

 僕はそう呟いて鉛筆を動かしていく。それから会話はなく橘が奏でる様々な曲を聞きながら僕はヴァイオリンを弾く橘を描ききる。

 「はぁはぁ、二時間もぶっ通しで弾いたらさすがにキツイや」

 橘は息を切らしながらそう言うと僕の方にくる。

 「絵の方はどんな感じ?」

 「一応完成でもいいぐらいには描けたかな」

 「おお!今度は漫画みたいなタッチだ!」

 橘は目を輝かせて大きな声でそう言う。今回は影を線で描くことで躍動感を出した。

 「橘はどんな背景がいいとかある?」

 「うーん、そうだなぁ」

 橘は少し考えた後指を鳴らす。

 「それじゃあ線路の上にしよう」

 「いいね」

 こんな世界じゃなかったら絶対に出来ないことにワクワクしてくる。

 「それじゃあ、出発ね」

 僕達は二キロはある敷地内を通って近くの線路に向かう。

 「……どうしたの神谷?」

 「いや、線路の中に入るのに抵抗があって」

 「もう電車だって乗る人だっていないんだから平気だよ」

 橘はそう言って楽しそうに線路の上を歩いていく。僕も後を追って線路に入るといけないことをしている雰囲気にワクワクしてくる。

 「いけない事してるね私達」

 「誰も見てないさ」

 「ふふ、それもそうだね」

 それから僕らは会話をすることはなくゆっくりと線路を歩いた。そして駅のホームに出ると足を止めて準備を始める。

 駅の状態はかなり悲惨で看板が落ちているし落石まみれだ。

 「それじゃあ、始めるね」

 橘はそう言うとヴァイオリンを弾き始める。線路の上でヴァイオリンを弾く橘の姿は非日常そのもので心を惹かれるが結局僕の目は橘の姿に奪われる。

 吹っ切れた橘は本当に楽しそうにヴァイオリンを弾いている。僕の目には橘の周りに眩しい光が見える。

 「……難しいな背景」

 目の前の線路を描くのは描くのは簡単だがそれだと絵の中心である橘が霞む。それは僕が描きたい絵ではない。

 「引き算が大事だ」

 僕は情報を制限していく。線路は橘の地点で切って折れた看板と割れた信号機を遠くに描いて石を手前に敷き詰めて最小限の情報を描く。さらに本来は存在しないであろう光源を描いて橘を彩っていく。

 「どうかな私の演奏?」

 「すごく上手で優雅だよ」

 「それならよかった。ずっと難しい顔してたから不安で」

 橘が胸を押さえてそう言って再びヴァイオリンを弾き始めると眩い光を纏っていく。その光を見逃さないように僕はペンを止めて観察すると光の中を様々な音符が流れていく。

 「ごめんね、ずっと見ててほしいわけじゃなかったんだけど……」

 「いや、大丈夫だから続けて」

 「そ、そう」

 橘は疑問の残る表情だが演奏を再開すると再び光と音符を纏っていく。しばらく見続けて心の中に刻んだ僕はペンを動かして描き始める。

 それからは時が止まったような感覚の中で橘が奏でる一音から一挙手一投足まで見逃さない。一つの情景しか描けないのがもどかしいくて動画を撮りたくなる。

 「うん、上出来だ!」

 一時間をかけて僕は光と音符を描き終えると僕は汗を拭ってそう口にする。

 「完成したの?見せて見せて」

 僕はかなりの汗を流す橘に絵を見せる。

 「わぁ!カッコイイ!」

 橘はそう言うと子供のような無邪気な顔で絵をジッと見る。

 「神谷にはこう見えてたの?」

 「う、うん。変かな?」

 音符や光といった存在しないものを描いたのは良くなかっただろうか?

 「そっか、私こんなに楽しそうにしてるのか」

 橘は嬉しそうにそう言うとヴァイオリンを手に取る。

 「無駄じゃなかったんだね」

 橘はヴァイオリンに向かってそう口にした。

 

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