第6話 バク転

 「デッサンって疲れるね」

 「そうだね、集中しないとだからね」

 デッサンを始めて一時間が経とうとしていた。

 「橘の完成度はどれぐらい?」

 正直言って橘がこんなに時間をかけてデッサンをするとは思っていなかったのでそう尋ねる。

 「70パーセントぐらいかな?こだわろうと思ったらいくらでもこだわれてさ」

 「そうだね、質感なんて時間をかければかけただけリアルになるからね」

 「ちなみに神谷の完成度はどれぐらい?」

 「ちょうど50パーセントぐらいかな?」

 輪郭は描き終えたのでこれからは描きこむ作業だ。

 「私って今まで手を抜いてきたんだなー」

 橘は自分の絵を俯瞰しながらそう口にする。

 「一つ一つのことに全力になれたら私の人生は変わってたのかな?」

 そんな重い言葉に顔を上げると名残惜しそうな橘の顔を捉える。

 「ご、ごめんね変なこと言って。集中してたのにさ」

 「大丈夫。休憩してたところだし」

 「……神谷は優しいね」

 「あ、ありが――」

 僕は言いかけて言葉を止める。僕は全然優しくなんかなかった。

 「ねえ神谷。少しだけ聞いてくれない?」

 「うん、もちろん」

 僕がそう答えると橘は話し始める。

 「私のお父さんさ有名な政治家なの」

 「あぁ、なるほど」

 僕の中で疑問が繋がっていくのを感じる。縛られていたというのは親のことらしい。

 「小さい頃から習い事と塾まみれの生活で友達と遊んだことはないし、ここの中等部に入ってからは金持ちの子供の中でも私の父親の権力は絶大で私の扱いは神みたいだったの」

 「それが嫌だったと」

 「そういうことだね」

 同い年の人間に気を遣われるのは居心地が悪いどころの話ではない。

 「親が用意したレールに従う人生ってつまらなくてさ」

 こんな世界で楽しそうにしている理由がなんとなく分かった。

 「世界が終わらないと自由になれないなんてね」

 「今は楽しい?」

 僕がそう聞くと橘は一瞬驚いた顔をした後笑顔になる。

 「楽しいよ。本当に」

 「僕も楽しいよ」

 僕がそう伝えると橘は啞然とした後凄く嬉しそうな顔をする。

 「それはよかったよ」

 橘の眩しい表情を見て僕も自然と笑顔になった。


 「よしよし、完璧!」

 橘は定期的にそう言って自分の絵を俯瞰して楽しそうに笑う。僕はその度にペンの動きを止めてその顔を見つめる。どんどんとその表情に惹かれていくのを感じると同時に胸が冷たくなるのを感じる。

 「私って天才かもー」

 「僕もいつか話せるといいな」

 僕を縛り付けるどす黒い嫉妬心を橘に吐き出すことが出来たらと心の底から思う。そんな闇から裏打ちされた技術を以って僕はデッサンの手を加速させる。橘の眩しい笑顔を表現するために全神経をかける。周りの音を消し去り静かな世界で没頭する。そしてどれだけの時間が経ったが分からないが完成する。

 「よし、完成!」

 僕は額の汗を拭ってそう言う。今までの中でも最高の出来になった自信がある。

 「お、待ち侘びたよ」

 顔を上げると造花を手にする橘が視界に映る。時計に視線を移すと描き始めから三時間が経過していた。

 「暇だったから薔薇を描いてたの」

 「薔薇って人を描くより難しい気がするけどね」 

 「確かに思ってた以上に複雑だったよ」 

 橘はそう言うと僕の横に座る。

 「じゃあ、早速見せ合おうか」

 橘はそう言って自分の絵を見せる。そこには集中している僕の姿と薔薇の花が描かれていた。

 「あ、全然上手い」

 僕が最初に口にした感想はそれだった。しっかりとパーツごとの比率も出来ていて目尻や眉の下などの奥行きが出来ている。

 「ふふん、でしょ?」

 橘は誇らしげな表現をする。舐めていたわけではないが線だけの表現ではなく、ぼかして質感がある。

 「次は神谷のを見せて」

 覗き込むようにさらに距離を詰めてきた橘に動揺しながら絵を見せる。

 「うわ、うま!プロじゃん!」

 橘はそう言って驚いた目を向ける。

 「何で神谷のは立体的に見えるんだろう?私のはのっぺりしてるし」

 橘はそう言って自分の絵と見比べる。

 「それは鼻の描き込みの差かな?」

 「あー確かに。私の鼻は立体感がないや」

 鼻は顔の全体の奥行きを生み出す一番重要なパーツだ。

 「口ってそう描くんだ。白をそんなに綺麗に使えないや」

 下唇は白を使うことで潤いを生み出すことが出来る。

 「これらは経験というか知識みたいなものだからね。橘の絵からはしっかり観察して正確に書こうとしているのがよく伝わってくるいい絵だよ」

 「あ、ありがとう」

 僕がありのままで伝えると橘は下を向いて恥ずかしそうにする。

 「それにしても私ってこんな顔してる?」

 「う、うん。出来るだけリアルに描いたつもりだけど」

 「そっか」

 肖像画になると顔が変に見えたりするものだからてっきりそうかと思ったが橘の表情は柔らかかった。

 「自分で言うのもなんだけといい笑顔じゃない?」

 「うん、描いてて楽しかったよ」

 僕がそう言うと橘は慌てて顔を背ける。

 「デ、デッサンはお終い!」

 橘はそう言って勢いよく立ち上がると僕の腕を引っ張って立たせる。

 「次は体育館に行くよ!」

 僕は楽しそうな橘の背中を追って体育館に向かった。


 「男のロマンって何だと思う?」

 体育館についた橘は真剣な顔でそう聞く。

 「マイホームとか?」

 「違います」

 やれやれと言った仕草でそう言うと答えを口にする。

 「男のロマンと言ったらバク転でしょ!」

 「無理だよ?」

 「挑戦したこともないのに何言ってるの!?」

 橘はそう言うとマットを運ぶように指示をする。

 「私はバレエはやってたけど体操はやってこなかったからさ」

 「僕は是非とも橘のバレエが見たいけどね」

 「考えておくよ」

 見事にスルーされた僕はおとなしくマットの上で柔軟をする。

 「さすがだな」

 橘は脚がまっすぐに伸びた状態で前に腕を伸ばす。対照的に僕の脚は引っ張られているのかと思うぐらい開かない。

 「少しは真面目にやって欲しいんだけど?」

 「これが僕の精一杯だ」

 僕は股関節をプルプル振るわせてそう答える。

 「もっと身体を倒しなさい」

 僕の後ろに来た橘はそう言って背中を押す。

 「あー!ギブギブ!」

 「まだいける!」

 「限界限界!」

 僕が絶叫に似た声を出すと橘は僕を解放する。

 「これは硬すぎよ。ほぐさないと怪我するね」

 橘は呆れた様子でそう言うと僕の後ろに立つ。

 「柔軟は柔軟にね」

 橘は耳元でそう言うと僕に拷問をし始めた。


 「酷い目に遭った」

 僕は全身に広がるヅキヅキした頭にそう口にする。

 「さてと、準備体操も終わったことだし始めようか」

 「本当にやるの?」

 「愚問だね。ロマンを突き詰めないと」

 どうやら止まる気は一切無いようでグットサインを向ける。

 「まずは手始めに側転からやるよ」

 橘はそう言って脚が伸びた綺麗な側転をするが僕は足が曲がったデコボコの側転をする。

 「次はブリッジね」

 「あ、これキツイ」

 腹筋が伸びて力が入ってしまいプルプルしだす。

 「あはは、力入りすぎたよ」

 「何でそんなに余裕なの?」

 「身体の構造が違うのだよ」

 橘はそう言うとマットを蹴ると同時に手で身体を押し上げて着地する。

 「今のがバク転の一連の動きだからね」

 「な、なるほど」

 僕は橘の動きに倣うよにマットを蹴るが真後ろに跳ねただけでマットに全身を打ちつける。

 「ゴホッゴホッ」

 「ちょっと大丈夫?」

 心配そうな橘が慌てて駆け寄ってくると自分が情けなく感じる。

 「非常に帰りたいです」

 「萎えないの」

 橘はそう言うと丸まったマットに寝転ぶ。

 「まずはこれからね」

 橘は寝転びながらそう言って地面のマットに手をつくと回転して着地する。

 「これならまだ出来そう」

 それから時間をかけて練習をしていく。立った状態からのブリッジやブリッジから立ち上がる練習、柔らかいマットで後ろに跳ぶ練習をした。

 「そろそろ準備出来たね」

 「……自信はないけどね」

 「まずは私からしよう」

 橘はそう言って腕を前に伸ばして息を吐く。

 「危なかったら補助してね」

 「全力でやるよ」

 僕はそう言って膝をついて構える。勢いが足りなければ押して勢いをつければいい。

 「いくよー、せーのっ!」

 橘はそう言って勢いよく後ろに跳ぶと両足がきちんと揃った勢いのよいバク転で補助する必要はなかった。

 「……本当に体操してなかった?」

 「んー?してなかったよ」

 橘はニヤニヤ笑いながらそう言うと補助の姿勢をとる。

 「次は神谷の番だよ」

 「う、うん」

 僕は緊張しながら手を前に伸ばして息を吐く。

 「いくよ」

 僕はそう言ってひっくり返るように後ろに跳ぶとマットに手がつく。そしてマットを押して勢いをつけようとするが上手くいかずに落下しそうになる。

 「っぶな」

 橘が思いっきり回すように僕の背中を押して勢いをつけてくれたおかげで吹っ飛びがらも無事に生還出来た。

 「はぁはぁ、怖かった」

 「惜しかったよ神谷!しっかりと後ろに跳べてたよ!」

 橘は自分のことのように喜びながらそう言ってくれる。

 「そ、そう?」

 「うんうん、絶対出来るよ!」

 バク転なんて死ぬほど怖いはずなのにどこか高揚しているのを感じる。

 「もう一回やってみてもいい?」

 「うん!もちろん!」

 それから何度も挑戦して十三回目で少しの補助があったが両足で着地することが出来た。

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