二日目
第5話 デッサン
「さすがに起こしていいかな」
上手く聞こえないがそんな声が聞こえる。
「寝てから十四時間経ってるんだよ?」
僕は声から逃げるように枕で耳を塞ぐ。
「よし!」
何かを決心したような声が聞こえると足音が離れていく。
「カンカンカンカン!起きてー!朝ですよー!」
そんな声と金属通しを叩き付けるうるさい音が鳴り響くと目が覚める。
「……元気だね」
「一度やってみたかったの」
楽しそうにフライパンとお玉を持った橘が視界に映る。
「おはよう、よく眠れた?」
「おかげさまで」
橘に背中をさすってもらってからは悪夢を見ることはなかった。
「神谷も起きたことだし早速始めよう!」
「何を?」
僕がそう聞くと同時に腕を引っ張られてホテルの外に出される。
「ラジオ体操第一!」
橘は元気よくそう言うと自分でリズムを取り始める。
「てっててれてれ、伸び伸びと背伸びの運動!」
その声に合わせて僕達はラジオ体操を始める。寝起きでやる気も起きずに適当にやろうと思ったが橘の楽しそうに大きく腕を振る姿を見て真剣にやる。
「深呼吸!」
やっとのことで最後の体操になる頃には僕は息を切らしていた。
「はぁはぁ、ラジオ体操ってこんなに疲れるっけ?」
「神谷が運動不足なだけでしょ」
「ごもっともで」
ラジオ体操を終えた僕らは身体を洗って缶詰めを食べた。
「それじゃあ出発ー!」
「どこに行くの?」
僕がそう尋ねると考えてなかったのか橘は考える仕草をする。
「それじゃあ、神谷の学校に行こう」
「……そうだね、道具も欲しいし」
僕は言葉を詰まらせながらそう言う。
「私の学校に美術部あるけどそっちに行く?」
「そうしたい」
「了解です!」
橘は敬礼をしながらそう言うと申し訳なさそうな目を向ける。
「ご、ごめんねデリカシーなくて」
「こっちこそごめん。気を遣ってもらって」
お互いに謝ると気まずい沈黙が流れる。
「橘は今日何がしたい?」
僕は沈黙を破るようにそう尋ねる。
「そうだね……」
橘は深く考え込む仕草をした後思いついたのか指を鳴らす。
「デッサンしてみたいかな。リアルだと隣の人をデッサンをするなんてこと無いでしょ?」
「一般的にはそうだね」
「だからお互いにデッサンし合おうよ」
「それは楽しそうだ」
僕は頬を緩ませてそう言う。デッサンは最も得意な科目だ。
「決まりだね」
橘はそう言うとホテルの方に戻る。
「私の学校まで結構遠いし自転車を使おう」
「うん、体力を使わないで済むし」
「やっぱり歩こうか」
橘はニヤッと笑うとそう言う。
「僕は自転車を使うから橘は歩きなよ」
「それじゃ意味ないでしょ」
橘はそう言って笑うと自転車に乗る。
「足元は結構危ないから安全運転で」
「分かった」
僕達はゆっくりなスピードで橘の学校に向かった。
「……うわ、これやばいな」
学校に着いたのはいいが目の前に広がるのはかなり長い坂道だ。
「私も自転車で登りたくはないな」
そう言って自転車を降りて押しながら登っていく。
「はぁはぁ、着いた」
「満身創痍すぎない?」
橘は呆れた様子でそう言うが反論する気もおきないぐらい限界だ。
「……神谷はこの学校を見てどう思う?」
「どうって……育ちが良さそう?」
学校という建物なだけあってかなり原型を保っている。赤のレンガ模様の外壁の校舎が取り囲むように噴水がある。大学と言われても疑わないレベルだ。
「僕の高校も結構広くて綺麗だと思ってたけど遥かに上だね」
「やっぱりそうだよね」
橘はそう言うと表情を曇らせる。
「いわゆるお嬢様高校ってやつだね」
「初めて見たな、こんな高校があるんだ」
僕は周りを見渡しながらそう答える。
「大学の系列校だからエスカレーターなんだ」
「その分入るのが難しいんでしょ?」
「いや、お金さえあれば入れるよ」
「親が学校に募金をするってやつか」
「そういうことだね」
「凄い世界だな……」
僕の家庭も裕福な方ではあるがコネを使えるレベルではない。
「頑張ってる人が報われないんだよ」
「そう?」
その点に関しては疑問が残る。
「高校に入ったところで付いていけなければ意味ないんじゃない?」
「付いていく必要はないよ。適当に遊んで大学に入れば勝ちなんだから。大学の単位なんて過去問ゲーだし親の会社にでも就職したらいいんだから」
「そ、そうなんだ、僕には想像つかない世界だな」
世の中には大人な世界があるんだなと思う。
「そんな闇深い私の高校に案内するね」
橘は何だか怖い笑顔でそう言うと校舎の中に入っていった。
「この学校には地下一階から四階まであって体育館が二つと演劇場が一つあるの」
「……広すぎるな」
僕は思わずそう口にする。
「いろいろ見ながら美術室に行こうか」
僕は頷いて橘の後ろをついていく。椅子や机が散乱して黒い灰で包まれていたがどこか神聖さを感じる。
「……っと」
階段を上がったタイミングで見慣れ始めている苦しそうな遺体を目撃する。
「感覚麻痺してくるよね」
「……そうだね、慣れ始めてきているよ」
非現実的で目を背けたくなるものなのに見ることが出来ている。どう嚙み砕いていいか不明な感情を抱きながら美術室に入る。
「うわ!凄いな」
僕は目の前の光景に思わずそんな声をもらす。とにかく大きい室内に感動をおぼえる。
「道具が無事だといいんだけどね」
そう言って僕達は美術室を探索する。
「鉛筆の種類も豊富だし木炭もあるのか」
この二つがあればデッサンは可能だ。
「画用紙発見!」
橘はそう言うと嬉しそうに画用紙を見せる。
「カルトンも生きてるしデッサンは出来るね」
「これカルトンって言うんだ」
首からかけるタイプの画用紙を止める道具であるカルトンを一つ渡す。
「これだよ、これこれ。一気にデッサンする雰囲気が出てきたよ」
橘は楽しそうにそう言うと鉛筆に視線を送る。
「どれを使うのが普通なの?」
「うーん、5B~3Hまでを使うことが多いかな?」
そこら辺は個人差と画用紙にもよるので分からない。
「なるほど……まあ勢いで描いていくよ」
「そうだね。使いたい濃さを使えばいいよ」
鉛筆一本で描く人もいるし重要なのはしっかりと観察することだ。
「それじゃあ、デッサン開始!」
橘はそう言うとお互いに向き合って座る。とりあえず薄い鉛筆で画用紙の中心の点や半分に分ける十字線などのあたりを振っていく。
「ふっふっふ。どう?美術家っぽい?」
そんな声に顔を上げると鉛筆を僕に向かって立てる橘がいた。
「本格的だね。これは期待してもいいかな?」
僕がそう言うと橘は困ったような顔をする。
「これって比率を図るんでしょ?どうやって図るの?」
「親指の先端から芯の先の長さで図るんだよ」
「そうなんだ、始めて知った」
橘はそう言うと鉛筆を短く持って片目を閉じると覗き込むようにこっちを見る。
「うーん、やっぱり神谷は高三には見えないなー」
「何で幼く見えるんだろう?」
「目がパッチリしてるのが大きいかも」
「なるほどね……」
あたりを描き終えた僕も鉛筆を立てて比率を取っていく。
「……いや、ダメだな」
僕はそう呟いて顔のパーツのあたりを消す。
「ど、どうしたの難しい顔して?」
「バランスが上手くいかなくてさ」
肖像画は数え切れない程描いてきたが橘ぐらい顔が小さく首や肩幅が細い人なんて描いたことがない。普段通りの感覚でやると顔と首周りのバランスがおかしくなる。
「ダメだな。もっと観察しないと」
僕はそう言ってさらに細かく分けて観察する。顎の下から首周り、そこから肩幅と腕のラインを細かく区切っていく。そして顔と首から下への頭の中のギャップを消すために顔のパーツと行ったり来たりする。
「………………あう」
横のバランスが悪い理由は切れ長の美しい目と濃い二重線と長い眉毛で輪郭との距離感がおかしくなっていた。それに外国の血特有の高い鼻と鼻筋まっすぐになっている点だ。
「まだダメだな」
「ま、また消すの?」
「最初が肝心だからね」
縦の違和感の正体は潤いのある口と顎のラインが引き締まっていて首との境界がはっきりしていることが原因であることに気づいて凝視するとカルトンで口元を隠される。
「どうかした?」
「待ってね、すぐに元に戻るから」
橘は顔を隠しながらそう言うと何度か大きく息を吐く。
「よし、もう大丈夫」
橘はそう言うと普段通りのニコニコの顔を見せる。
「さて、真面目に描くよ」
それから心地よい沈黙の中でデッサンを続けた。
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