第8話

 数日経った日、朝目が覚めてはるさんを見ると、桜が七分ほど咲いていた。一見しても、病が進行しているように見えない。母も、立ち上がれないままであった。黄昏時、母の様子を伺うために寝室の襖を開けると、外を見つめる母に、斜陽が刺していた。蜜柑みかん色に輝く母はとても美しく、むなしく見えた。だいだい色に染まったビー玉のような目が、こちらを振り返る。「具合はどうですか。」と聞くと、「相変わらずよ。」と、いつもと変わらぬ返事をした。そして、また外を見た。しばらくすると、母が弱々しく口を開いた。


「ごめんね、ごめんね。こんな母親でごめんね、翠。健一郎さんがいなくてとても辛い生活なのに、私まで、ごめんね。翠は、これからとても大事な時期なのにねぇ。旦那様、見てみたかったのよ。孫も、見てみたかったわ。翠には、いつも世話ばかり焼かせていて、母親、失格よね。ごめんね、ごめんね。」


私は、母がこんなにも泣いたのを見たのが、初めてかもしれない。いつもは決して泣かなかった母。今、この間際に立って、漸く母の弱音が聞けたようだった。それが大層もの悲しくて、切なくて、一緒になって泣いてしまった。


「お母様、どうして、そんなに謝るのよ。私はお母様の子に生まれて、この世で一番幸せなのに。こんな贅沢ってないわ。どんな時も、不幸だなんて思ったことはないのよ。浴衣がボロボロだって、作物が育たなくたって、それが私の生きる道だもの。でも、お母様がいなくなるのはだめなのよ。私にはお母様しかいないのだもの。大好きよ、お母様。まだ、私の前から、いなくならないで。一人にしないで、」


泣き叫びながら訴える私を、母は、「ありがとうね、翠。貴方を決して一人にはしないわ。」と、優しく抱きしめてくれた。そんな温もりが、優しくて、気持ちが良くて、そのまま目を閉じた。


――「愛しているわ。大好きよ、翠。」


眠りにつく前に、そう聞こえた気がした。

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