第3話

下町へ行くために道中を歩いていると、イヌノフグリやら、キスミレが、そこらに咲いていた。綺麗ね、と話しながら歩いていると、次第に、母の声が小さくなる気がした。嫌な気がして後ろを振り返ると、やはり、母が体を木に預けていた。幸い、下町に近かったので、そこまで肩を貸してやって医者に行った。


「これは、確かに、膵臓癌だね。背中が痛くなって、病気が進行すると、いずれ目や皮膚が黄色くなるのさ。持っても、あと四週間か、三週間か。まあ、とにかく、残りは悔いのないように生きなさい。私も、たまに顔を出しますよ。」


なんですって?膵臓癌?あとひと月ほどしかいきることが出来ないの?

一人で沈思していると、隣にいた母が、「分かりました。お世話になりました。」と、まるで、お雛様のように表情一つ変えず、堂々と座っていた。お医者様からお薬を貰って、人力車を拾って家に帰った。人の話す声、人力車の砂利道を進む音、小鳥のさえずり。普段聞こえるはずの音が、まるで、水の中にいる時のような、くぐもった音をしていた。




 母もショックを受けていたのだろう。医者から帰ったその日の深夜に、私の隣で、声を殺すように泣いていた。そして、次の日からは、笑顔にはなったりするのだが、しかし、声に出して笑うことは、無くなってしまった。数日経つと、立ち上がることさえ出来なくなっていた。「悔いのないように」と言われたが、正直何をしたら良いのかわからない。何か励ませることができる物は、良いものはないかと、家の押し入れを探してみた。すると、一冊の、埃を被った、古臭い本が出てきた。表紙には、「一ノ瀬家」と書かれていた。「一ノ瀬」とは、母の結婚する前の、姓の名である。きっと、母が幼子おさなごの時のものだろう。表紙を捲ってからもう一ページを捲ってみると、一行目には日付が書かれていた。

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