第8話 涙を拭えば
「おっ、リコも使えるようになったな」
凸凹した路面に膝をつき、結晶の雨に打たれながら積もるペレの涙をかき集めていると、人を茶化す幼い声がレアの背中に降り注いだ。彼女は振り仰ぐのを堪え、しかめ面で手を動かす。
その間近に年下だろう小柄な少女が屈んだ。彼女はあどけない顔を路面との隙間に覗き込ませ、真っ黒な瞳でレアに笑いかける。
「はいはい。リポさんのお陰ですよ」
素っ気なく返事するレアに彼女はおどけた仕草を見せながら、
「こっち向かってる奴がヤな感じなんだ」
見た目の子供らしさからは想像し難い、油断ない声で耳打ちする。レアが顔を強張らせた瞬間、リポは明るく彼女の肩に短い腕を回した。
「よし、良いこと、教えてやる。来い!」
リポの小さな体に
彼等の消えた影には程なく足音が寄って来る。
「
リポは瓦礫を越えて廃道へ抜け、退廃区の住人以外は辿り着くのも難しい袋地と袋地を渡り歩いては危険を遠ざけていた。彼女は追手の体格を意識し、子供だから通れる場所を逃れる経路として時に組み込む。
ならば、自分だけ抜けられる逃げ道を使うこともできるはずだが、付き合いの浅いレアを利用して逃れる非情さは持たないらしい。
レアが一人、退廃区に来て最初に口をきいた相手が彼女だった。
――身包み剥いで良い?
そう話しかけて来たリポだが、力で望みを叶えることが罷り通る退廃区で弱い子供同士、手を組むのは必然だったかもしれない。暫く言葉を交わすと、リポはマヒナで決してなくならない仕事、ペレの涙の掃除を手分けする提案を彼女に持ちかけた。
神殿は女神ペレが涙を踏まれて怒るのを恐れ、道の結晶を片付けて持ち込む者に撤下品を下げる。レアを訳アリと見たリポは、這うように行う清掃をレア、結晶を仕分けて運ぶのは自分で撤下品の山分けが成立する、と読んだ。
幸い顔を見られ難く、争いも生じ難い生活の術をレアは手に入れたが、それでもこうして警戒し、逃げる事態はしばしばある。
退廃区の複雑な地形を利用しながら、二人は既にかなりの距離を走った。リポは危険な奥へ入り過ぎずに出し抜こうとしたものの、相手が上手か、人数が多く、まだかわせていない。このままでは危険過ぎる領域に踏み込んだ上、追いつかれかねなかった。
レアはリポについて走りながら、母と逃げ惑った日々を思い出す。眉間に深いシワを作った後、彼女は心を決めた。
「リポ、二手に分かれよう」
「は!? 死にたいの?」
リポは反射的にレアの提案を拒んだ。既に少女二人では安全とは言えない辺りである。一人になれば強盗や誘拐の餌食は勿論、理由なく殺されてもおかしくない。
「二人で一緒に捕まっても良いことはないよ。もしあれが私を追ってる人達なら分かれたリポをどうこうはしない。そこからはリポの手腕で頑張って」
「あんたの追手じゃなかったら終わりじゃん。ここらはギャングが小金狙って襲って来るって判ってる?」
機嫌悪そうにリポは応えながら、少し進みを遅らせ、レアと並んだ。彼女の息はかなり上がっている。素早さは際立つリポだが、やはり体力は子供のものだ。彼女は悔しそうにレアを睨む。
「前、神殿跡に抜けた道、判る?」
「大体なら」
「大体じゃ、意味ないって。ここ、その廃神殿、使うのに向く辺りなんだよ。あんたはどうせ他を目指せないでしょ。僕は別で撒くから、そこの家に入りなよ。三階で隣りの家に移って、後は記憶を辿れ」
リポは前方斜めの廃屋を控えめに顎で指す。レアは頷くと走る速度を上げ、壊れた扉から飛び込んだ。いつ崩れてもおかしくない階段に彼女は躊躇なく足をかける。
上階で隣りの窓へ飛び移ると、着地した壁が僅かに崩れた。慌ててその場を離れ、罅を避けて部屋を出る。不思議と走りながら次、どこへ行くべきかは体が思い出した。かつての庭を通り抜け、壁や柱を登りもした。目撃者を騙すため、途中、土の上を全身で転がり、顔や服を汚れで印象を変えもする。
しかし、人の気配は一度、消えても、やがてまた現れてレアについて来た。
(私を追いかけてる)
壊れた家々の多い一画でレアは槽の廃棄物の中に潜み、息を整える。
その時、遠く東西南北の鐘が不揃いに鳴り始めた。水泥棒の処刑を知らせる鐘の音だ。それが日常に溶け込んでいることを、ここに来てレアは知った。珍しくもない程の頻度で、その鐘は響き、路頭で生きる子供達はそれを「稼ぎ時」と広場へ近付く。彼等の気配に追手の気配が紛れて判らなくなった。彼女は慎重に深く息をつく。
途端に疲労感が吹き出し、レアを眩暈が襲った。遠くなる意識を必死で繋ぎ留めていると再度、足音が幾つか近くを走っては止まる。
近過ぎるその距離に彼女は息を潜め、暫くそこで彼等が遠ざかるのを待った。雑多な音と臭いと疲れが感覚を鈍麻させ、人の気配を区別することも難しくする。
やがて日が落ち、レアは槽から抜け出した。ふらふらと裏道を行き、身の置き所を探すが、暫くすると人の気配が彼女について来る。最早、追跡者は存在を隠そうとしていなかった。彼女の移動に合わせ、つかず離れず、ついて来る。
それ故、彼女は普段、寝床にしている辺りを避け、歩くしかなかった。真っ暗な道に居合わせた者達は億劫そうに胡乱な闖入者を見る。レアは迂闊に立ち止まれず、人を避ける内にやがて袋小路へと踏み入った。
もう逃げられない、と思った瞬間、疲れと脱水でレアは路面に倒れ込む。
彼女が動けないことを十分に確認する時間は過ぎ、一人分の足音がゆっくりと近付くのを朦朧としながらレアも知覚する。
「酷い有様だな」
冷ややかな声にレアは動揺し、意思の届かない瞼や手足に力をこめた。こと切れる前の虫のようにもがき、一瞬、そこに佇む人物が目に映る。
兄がレアを見下ろしていた。
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