第7話 我が道
レアは茫然と母について行った。
同じ場所を巡るかにも思える地下道で彼女はどこを何のために目指すかさえ、見失いかける。今は彼女の手を握る温もりも近々、奪われ、代わりに使い込まれた紙の感触が残るに違いない。その想像を繰り返し、拒絶の震えが内から湧き起こった。
やがて二重の隠し扉の奥へ潜り込むと、二人は荒い呼吸で退避室に座り込む。レアは殊更、密着して母の胸に顔を伏せた。
「喉が渇いたでしょう?」
アヌヘアの促す声にもレアは頭を振るばかり。幼子のように離れない娘の背に彼女は指先で拍を刻み、かすれがちな唄を口ずさむ。アヌヘアが子供達に歌うのはいつもハクメレの作った詩だ。
「ここにいたい」
ささやく程ながらも歌える環境に安らぎ、レアは無理を承知で駄々を捏ねる。母の胸から顔は上げない。しかし、彼女を困らせることも哀しませることも望んではいなかった。
「ケアヌのところへ行く?」
アヌヘアの問いにレアは弾けるように身を起こした。激しい抗議に瞳が燃える。母と一緒にいたい……彼女の訴えはそれだけだ。しかし、それはアヌヘアも判っているのだ。思慮深い瞳を見て悟りつつ、レアは膨れっ面をする。
「ケアヌは最後まで助けない、って言ったもん」
「彼の一族は助けと引き換えに、父様と母様の『秘密』を要求する。ケアヌはそれを知っているから、貴女を助けて、と誰にも言えないの。彼は自分一人でもできることをしてくれたのよ」
アヌヘアは娘の額にしっとりと張り付く黒髪を指先ですくい、火照る頬に触れた。その爪は数枚が剝がれ、手も顔も傷だらけだ。この数日の逃亡の険しさを物語っている。それと較べ、レアが痣や膨疹を作る程度で済んだのはケアヌの計画の力が大きいのだろう。
「本を守るのは『秘密』だから?」
レアは思案げに尋ねた。秘密。それは幼い兄妹にアヌヘアの役目を語る時、両親がよく用いた表現だ。
――母様は『秘密』を探すお仕事よ。
――母様の秘密は『秘密』。
――『秘密』は誰にも、貴方達にだって言えないの。
ハクメレの詩が筆記されているらしい珍しい本は、母との会話を振り返るなら寧ろアヌヘアと近しいものに感じられた。
彼女の掘り起こす『秘密』を手に入れるためならば大人はいろいろなことをする。一家に接近する人に両親が警戒していたことからレアも薄々と勘付いていた。ケアヌの家の助けを拒むことと本を持って逃げることには繋がりがありそうに彼女には思えるのだ。
その問いに母は答えなかった。表情を消し、目を伏せている少しの間、僅かに彼女の唇が開閉する。わすれて――その音に似た息の震えをレアは聞いた。
アヌヘアは抑制された真摯さを表情に湛え、娘を見つめる。
「父様も母様も忘れたことにできるなら。身一つでも貴女はハクメレの一人娘。縁坐の罰を免れさせたい人が助けてはくれるはず」
レアは執拗に首を横に振った。アヌヘアが真剣に迷っているのが窺える。しかし、娘の意思の強さに触れると、喜びも哀しみも混じり合う複雑な表情で目縁を狭めた。
「私、父様とは似てないのに」
「貴女達の生まれる少し前からマヒナでは異能の力が低下していてね。
それからアヌヘアはレアに多くの生きる術や知恵、そして彼女には伏せていた家族やケアヌ、その他の人々について教えて行った。未来の厳しさが迫り来るものの、それは母娘の濃密な時間でもある。
しかし、許される猶予は限られていた。
手の内を知られることを好まず、地下の捜索を快く受けないケアヌの家も多少の妥協、協力が必要となる頃だ。それが余りに迫れば、自ずと脱出を狙われることとなる。
アヌヘアは長いレアの髪にみすぼらしくなるよう刃を入れ、着替えた服にも破れと汚れを加えた。掛布は裂かれ、その一部を包帯としてレアの腕に腕輪の上から巻き付ける。万一、部屋が見つかった時、髪の一本もないよう袋に全て収めた。レアにはありったけの水と食料と本を持たせる。
彼等が目指したのは治安の悪い退廃区の一つだった。
子供のレアが紛れ込むには、路頭に暮らす子の大勢いる辺りでなければならない。娘をそこに送って潜り込ませ、顔の知られたアヌヘアは距離を取り、陰でレアを助けるのが彼女の計画だった。
しかし、持ち物を処分しながら、ペレの涙の響きと夜陰に紛れ、開発放棄地区を抜けようとした時である。水泥棒を見かけた合図の警戒音がけたたましく響き渡った。
アヌヘアはレアを連れ、巧妙に隠れては一晩、捜査隊から逃れ続けた。だが、辺りは白々と二人を追い詰める明るさを増して行く。
「こっちです! こっちにハクメレの娘がいました。間違いありません! 私はあの娘を知っています」
男の荒れた大声が闇を割り、隠れる二人の元へはっきりと届いた。レアは息を飲んで口を押さえ、アヌヘアは鋭い目線を周囲に走らせながら聞き耳を立てる。そうしながら彼女は娘をそっと抱きかかえ、短くなった髪の中へと指をすき入れた。
「公開処刑の鐘を聞いても態度が極めて不良でしたので、私が指導したのですが、自分がハクメレの娘だと親の権威を振りかざし、金の目で威圧的に睨みかかって来ました。えぇ、ですから、忘れようがありません! あの瞳はハクメレの娘です!」
事実を歪めた言葉に憤りながら、レアはあの時の迂闊な言動を後悔し、涙が浮かぶ。あの時、楽をしようとしなければ、この危険は訪れなかったかもしれないのだ。
その刹那、アヌヘアが彼女を抱き寄せ、キスを額に瞼に頬に授ける。それは何もかも判っている、と告げるような娘を信じる優しい口づけだった。彼女は柔らかな微笑みでレアを撫で、それから本に掌を添える。
「どうか守って。カイマナ水を探して生き伸びてね。少しでも少しでも幸せに」
アヌヘアは壊れた窪みにレアを隠すと、声の主の向かう方へと先回りで飛び出して行った。
これがレアの最後に見た母である。
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