第2話 水への不敬

 カイマナ水石交じりの水の入っていた業務缶が床で暴力的な音をたて、生徒達は身をすくめる。

 缶の中身は少年の赤毛から糸を引いてれ、床を広がった。沢山たくさんカイマナよどで素朴な光を散らす。一瞬、呆気に取られた子等は次の刹那には声を上げ、幾人もがその水溜まりに集まった。水をすくう子、布に含ませ肌をぬぐう子が現れる。

 その陰で水の縁がアヒの眼前に届き、彼女はそこへ唇を寄せた。


「不適切だぞ、ウリ!」


 すかさずロカヒが声を荒らげ、不敬な水の扱いをとがめる。最終学年の彼が熱を帯びた金瞳を向ければ、五歳離れた下級生を威圧するには充分だ。

 しかし、ウリの碧い目はどこか見下すようにその顔を映し出す。


「この暑さだぜ? 水浴びて何が悪いんだよ」

清水せいすいを浴びる自体、水に不敬な行為だ。しかも、お前の軽率さで勝手に使われているんだぞ」


 気色ばむロカヒはそれでもつとめて抑制的に声をつむぐ。


「俺の好きにしていい水を好きに使ってるだけだ。汚水を貧乏人がどうするかまで知るかよ」


 ウリは薄く笑ってみせると、彼の家の商会マークが入る缶を蹴り、煩い金属音を再び響かせて席を立つ。それを見送りながらロカヒは不快感を隠さず、眉根を寄せた。


「これだから不道徳な名を恥じない星は……」


 ロカヒの呟きに怪訝けげんそうな表情を浮かべる妹を見て、彼は少し冷静さを取り戻す。声をひそめながらロカヒはレアを自分の陰へと導いた。


「ウリは本名じゃない。ハウケア星は水の言葉を誰の名にも使うんだ。そういう名のハウケア人はマヒナでは通名とおりなを使う。あいつには近寄るなよ」


 言霊オリで異能をあやつるマヒナでは、貴重な水にまつわる語を名付けにおいて避ける。レアは異星の習慣を初めて聞き、目を見開いた。

 しかし、今の彼女にとって友達はウリのお陰で助かったようなもの。兄と同じ彼女の金の双眸は寧ろ興味に明々あかあかと照っていた。苦い表情を浮かべるロカヒの傍ら、一歩引いていた少年が目元を和らがせる。


「もうそれ位でいいだろう?」

「ケアヌ。すまない、放っておいて。こちらが頼んだのに」


 ロカヒが微苦笑すると、ケアヌは匂やかな面差しを緩め、レアに少し身を屈める。


「ロカヒが総督府で研修の間、君のことは僕が家まで送るよ」


 窓際の令嬢達から羨望の溜息が漏れた。

 ロカヒとケアヌはこの学校では少数派の異能持ちである。異能者カフナ育成機関に選ばれない力とはいえ、学業成績と親を考慮すれば二人共、前途は有望。今年、十六のケアヌも近々、総督府で研修の声がかかるだろう。彼もまた学校では憧れの対象だった。

 しかし、レアにとっては不確かな未来より、彼の今の優しさが魅力だ。幼い時からレアは小言ばかりの兄より、淡褐色の眼を細めて話を聞いてくれるケアヌが好きだった。


「ケアヌは異能があって、いいなぁ」


 ペレの涙が二人の周囲で跳ね、宙を踊って落ち行く。灰色がちな雨の中、時折、目立つ緑の光輝を目で追い、くるりと円を足踏みながらレアは破顔した。その明るい瞳を見下ろし、ケアヌは少し困ったように笑む。


「僕のは使い道も判らないような異能だから。レアのお父上みたいな能力じゃないよ」

「雨の中、どこにでも行けるでしょ? それが羨ましいの!」


 異能の持ち主は大抵、強弱の差はあれ物理的な力に防御壁を張れる。微弱な異能らしいケアヌでも雨に傘さす位は問題なかった。

 それだけに異能持ちがそれをできる、と普通は喜ばれない。それしかできない、と嘆かれる。突出した異能者カフナの娘がケアヌを羨ましがるのが異端だった。


「レアの行きたいところには僕が一緒に行くから。大丈夫」


 ケアヌはレアの黒髪をそっと撫でる。涼やかな眼差しを注がれ、レアは顔が、胸が急に熱を持つのを感じた。


(そうじゃない。私は自分で行きたいの。いつでも望んだら一人で行けるのが良いの)


 そう思いながら、どこか心踊る自分がいるのが面映ゆい。


 その時、東西南北の鐘が不揃いに響き渡った。

 四つの鐘が一斉に鳴らされるのは総督府からの告知、音が不和を成すのは不吉を意味する。鐘は耳障りで、教室で鳴った業務缶より凄まじい。レアは思わず耳を塞ごうとして、寸でのところで動きを止めた。


「処刑?」

「……うん」

「水泥棒?」


 レアの脳裏にアヒとその父親が浮かぶ。ケアヌはレアの手を握ると、道を逸れ気味に歩き出した。公開処刑の鐘を聞いたら広場へ行くのがマヒナ人の責任だ。咄嗟に見上げるとケアヌは見たことのない顔をしている。


「おい! 何故、広場へ行かない?」


 人を誘導する監視員が二人に目を付けた。レアが身を震わせると、ケアヌの手が肩に乗る。伝わる熱が心地良い。


「力が切れる前にマウカの家へ急いでいました」

「マウカ……」


 監視員が口ごもった。マウカ地区に家を持つ殆どの人間が総督府で政に携わる。ケアヌが令息と呼ばれる子である可能性が彼の頭を掠めているのだろう。


「彼女をヒヴィまで送る約束ですが、家で回復してから回るには時間が必要で。遅くに僕達だけで出歩くのは不適切ですから」

詩人ハクメレの娘レアと申します」


 異能者カフナの多いヒヴィの名に瞠目した男を見逃さず、レアは自ら父の権威を口にのぼらせ挨拶する。案の定、彼は二人が立ち去ることを許し、ケアヌは彼女の手を引いて歩いた。

 背後で雑踏は騒がしくなり続け、ペレの涙が辺りを絶え間なく打つ。




 それからまだ二か月しか経っていない。

 レアは退廃区を彷徨さまよっていた。汚れた顔を流れる汗。それを拭わないよう注意し、辺りの気配に意識を凝らす。彼女に胡乱な目を向ける人がいれば身を隠す場を探し、更に自分を汚すものを探す。

 壊れかけた家々の間に潜んでいると不意に鐘が遠く鳴り出した。不揃いに四つの音色が響く。それが水泥棒の処刑を知らせていることをレアは聞き取れるようになっていた。

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