第四話 誠の憂鬱 

 誠は、考えていた。


 学校からの帰り、相も変わらずスイミングスクールの事だ。

 ただ今日はいつもと違う。家に帰り着くまでに決めたことがひとつあった。


 きっとまだ帰っていないその隙に、母に内緒で風邪気味なので二、三日休むとスクールに連絡を入れること。

 その後のことは何も決めていない。

 決めてはいないが頭の中は、とりあえず休もうとにかく休むんだとそればかりだった。考えるのがもういい加減嫌になっていたし、今の気持ちを母やコーチに説明するのも億劫だった。


 エレベーターの9階のボタンを押す。

 誠は母とふたり暮らしだった。築20年の少々くたびれた10階建てのマンションの9階の角部屋が誠の自宅だ。

 

 そして駅前の12階建てのM銀行本店ビル7階、本部事務管理部が母の職場だ。バルコニーからは北に学校が、南に母の職場と駅が見える。スイミングスクールは駅の向こう。誠の世界のすべてがここから見渡せる。


「た、だい、まぁ・・・」

 恐る恐る玄関ドアを開けて部屋に入る。思った通り母はまだ帰っていなかった。

 ただ今日はノー残業デーだからいつものように駅地下に寄って買い物して、あと30分もすれば帰ってくるだろう。


「そうですか、お大事にね。担当者にその旨お伝えします」

 スクールの受付の女性は事務的にそういって電話を切った。大勢の中のひとりなのだから当然の対応だ。ことさら心配そうな声をかけられても困る。探るような声はなおさら困る。さらりと聞き流してもらうに限るのだ。

 

 悩みの種の「選手コース」はコーチから勧められたとはいえその気になって自分から母に頼んだ。まだ一年と経っていないのにこのていたらくだ、休むだけといっても叱られるに決まっている。


 そのまま辞めてしまうのか、ちょっと休んで気分を変えて奮起するのか、自分のことなのにちっとも気持ちを決められない。

「あんたって、優柔不断だからね」と母から度々いわれる。それはそうだと思う。なかなか自分のことが決められない。あちこちへ考えや気持ちが飛んでしまうのだ。

 

 母が父と別れて4年になる。原因はよくわからない。父からは母とも母方の祖父母ともうまくいかなくなったからとしか聞かされていない。大怪我からようやく回復したところだった小学年の誠にはまた大きな衝撃だった。

 

 本当に原因はわからないが誠はどこかで自分の怪我のことが関わっているのだと思っていた。どんなに幼くても家族のそれも父や母の精神状態は手に取るようにわかるものだ。それをうまく言葉にできるかできないかは別だが。


 母は笑えてくるくらい強い人だった。

 一見、腰が低く人当たりがいい。長年の銀行窓口で磨かれた技だろう。だが本部の事務管理部に部署替えになり課長職を得たあたりから、そこに押しの強さが加わった。決して自分の感情を表に出さない。時に微笑みながら相手の批判をかわし最後に有無をいわせず話し合いを終らせる。


 何を話し合っていたのかは分からないが、おそらく誠の親権と養育費の事だろう。父と父方の祖父母たちと相対する席で目にした母に、誠は自分の母親ながら恐ろしさを感じたものだ。あっけにとられて絶句していた三人。顔は笑っているのに目には冷たい光を湛えている母。

 でもその母の強さに将来の不安な気持ちが消え去るのも誠は感じていた。


「ピンポーン」玄関ベルが鳴った。帰って来た。


「一週間、休むよ。ちょっと微熱が続いてるから」と誠は母の目を避けるようにして告げた。「どれどれ」額に手を当てて「ふーん」といったっきり母は何もいわなかったが、横目にピリリと感じるものがあった。痛いくらいに。


 とろこが次の日、スイミングスクールでは大変なことが起こっていた。


 通っていた幼稚園児の男の子が溺れたのだ。幸いすぐに気付いたコーチらが助け出し救急搬送され命に別条なかったが、予防策、安全対策は十分だったはずなのに起きた事故だった。警察の検証を受けたあと一週間ほど建物を封鎖しあらゆるものを総点検することになった。


 連絡は母が受けた。

「ふーん、そうなんだ」プールに入る日が伸びたというわけだ。自分では残念そうな顔をしたつもりだったが気が抜けてホッとしたのだろう。母はまた冷たい目を誠に向けた。

「ふうん」「えっ、なに?」「なあーんでもない」見透かされているのだ。

 取りあえず一週間の猶予ができただけ。問題を先送りしているだけで誠には何の解決策も覚悟もないのだ。

 

 

 その次の日、放課後の図書室で。

 誠は、今度は華とともに戸惑っていた。

 

 今日から図書委員として参加することになったという高畑俊介が大崎の後から入って来たのだ。

「ええっ、うそっ、」「へえーっ」ふたり顔を見合わせた。

 高畑は福祉委員だったはずなのになぜだ。ふたりの顔にその疑問が浮かんだ。


「作業の手順なんかを、木下君教えてあげてね」と大崎にいわれ、誠が僕なんかより熱心に活動している華の方がいいんじゃないかと思っていたら、


「いいじゃん、この頃なんか仲いいみたいだし」華が面白がって耳打ちした。

 そうこの前からなぜか高畑が誠に話しかける場面をみんなが教室で見ているのだ。


 部活のこととか、委員会の話しもそういえば訊いていた。

 人嫌いで通っていた俊介が自分から誰かに話しかけていることにみんなが驚き、特に気にするでもなく普通に応じている誠にも奇異な目が向けられた。木下誠にも変人的要素があるのかもしれないと。

 

 誠に変人的要素の自覚はないが、俊介には特にこれといって何の感情もなかった。

 元々誠もクラスメイトに対して一歩引いているところがあった。噂話に便乗することもないし、楽しそうにはしゃいでいる輪に入ることもない。いつも笑顔で見ているだけの誠だった。

 

 ふたりには共通するものがあったのだ。

 まだお互いの事情は知らないままだが、それが知らぬ間に引き合って気持ちが通い始めていたのだ。



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