EP17 『鬼王』
まるで、時間が止まってしまったようだった。スズカの叫びが、残響が、残っている。暁色の結晶に誰もが目を奪われている。驚愕、困惑、動揺――絶望。様々な感情が渦巻いて、暁色の結晶に注がれる。
呼吸音。
誰の――オニの。
「――ッ!」
最初に動いたのはスズカであった。再びジェノを穿とうとしたヌエの尾を、手にした片刃刀で受け止める。しかし、絶望と罪悪感で全身を縛られているのか、少年は動けない。自分が狙われている事にすら気付かず、ただただ暁色の結晶を見つめている。その空色の瞳に映る感情は、激しい自責だ。
「っ、チェシャ!」
「だぁっ! 吾輩はどうせいつもこんな役だ!」
名が呼ばれるのと、その名の持ち主が駆け出すのは同時。捨て台詞と共に駆け出したチェシャは脇目も振らずジェノの元へ。道中で暁色の結晶を拾いながら、彼は速度を緩める事無くまるでジェノを掻っ攫う様に抱え上げ、そのまま走り去る。
「撤退です! アカツキが抜けた今、アイツと戦い続けるのは得策じゃない! 特にガキ共は優先して撤退しなさい!」
それから、振り返りもせずに大声で叫んだ。指揮を執るだけであれば、スズカでも出来る。だが、あくまでもそれは指揮を執るだけの話。各員のバイタルデータの確認までは手が回らない。特に学生隊員が多い今、戦闘を続ける方が危険である。
一瞬のうちに撤退勧告の理由と現在置かれているを理解し、駆け出す事が出来たのはクラウディオのみ。それからしばらくして後に続くのは、兄と親友に名を呼ばれたカイルと、ミリアに「行って!」と叫ばれたバレッタだった。
「っ、シルヴィオ隊長……!」
完全に撤退を決める直前、彼女が振り返って呼んだのは自身の隊長の名。シルヴィオはこの場に残るつもりでいるのか、オニへ背を向ける事も無く銀炎を振るっている。名を呼ばれて、大丈夫と思いを込めてバレッタを見やって、それから、気が付いた。
バレッタの顔に浮かんでいる切実な心配が向けられているのは自分では無く、動く事さえも出来なくなってしまったジェノだった。今の彼には、きっと
「シルヴィオ殿! こちらはいいから貴方はジェノ君を!」
言葉の無い黎明隊のやり取り。それに気が付いたロイスは声を張り上げて、硬直してしまったシルヴィオの背を押した。剣呑な声と言葉に押され、シルヴィオは我に返る。
「っ、感謝致します……! どうか皆様、ご武運を……っ!」
そうして、シルヴィオは踵を返して走り出す。礼と祈りを口にして、走り出す。そう、彼とてジェノが心配でなかった訳では無い。恐らくきっと、この場の誰よりも家族同然の少年の心配をしていたのはシルヴィオだ。その証拠に、バレッタを伴った彼の背が遠ざかっていくのは早い。
不意に、ヌエが吼えた。びょうびょうとおぞましい鳴き声が森中に木霊する。ヌエとて、簡単に自身を傷付けた敵を逃すつもりはないようだ。動けなくなった少年を任せたのは逃げ足の速いチェシャであったが、それでも彼がいる位置はそこまで遠くない。このままオニが彼らを追えば、あっという間に追い付かれてしまう距離だ。
ならば、スズカがやるべき事は一つしかない。
「ロイス、マツバ、ミリア! 儂らで時間を――……」
「待った!」
当然呼ばれるのは三隊長の名前。しかし、指示するスズカに待ったをかける者がいた。ドラセナだ。
「残るなら親父殿より俺の方がいい! 親父殿は向こうの護衛に回ってくれ! カイルとクラウドを頼んだ!」
彼の顔に浮かんでいるのは、いつもの色男然とした気の抜ける笑みなどでは無い。真剣に真っ直ぐとスズカを見据えて、相性の悪いマツバを残すのは得策ではないと進言する。
「それもそうじゃ、あの子らは頼んだぞマツバ!」
「かかか、任せとけぃ! 抜かっんじゃなかぞ、倅!」
ドラセナの進言にスズカが下した判断は是。そこに一切の迷いは無い。一秒ともかからず下された命令に、マツバは豪快に笑って駆け出した。去り際に残された激励に、ドラセナは「わーってるっての!」と片笑みを浮かべる。
「お主の相手はこちらじゃ阿呆!」
それからスズカは手にした片刃刀で虎柄の表皮を斬り付け、撤退する者達に目を向けているヌエの気を引く。無機質な隻眼がスズカを貫いた。だが、彼女が怯む事は無い。
「儂の力、とくと見よ!」
スズカはそう叫ぶと腕を振るった。同時に投擲したのは、燃え盛る紅蓮の様な呪力結晶。不意に結晶はその形を揺らし、眩い光に包まれる。光はやがて、何倍もの大きさに膨れ上がり、それは一つの姿を形作った。質量を持った幻と、地面に落ちた影が触れ合う。
『ジャァ――――――――――ッ!』
空気を焼き焦がす様な咆哮。結晶が形作ったのはカシャだ。しかしそれは敵に非ず。巨躯を屈め、大猫が睥睨しているのはヌエ。まるでスズカを守るかの様に立ちはだかる。
結晶となって眠るオニを揺さぶり起こし、再び力を与えて共に戦う。それこそが、スズカが『鬼王』たる所以であった。彼女には、全てのオニを従わせうる力がある。
「ゆけ、カシャ! 彼奴を燃やし尽くせ!」
スズカの言葉に応える様に猫が鳴く。焔を纏わせた四肢を動かして、ヌエへと繰り出す突進。燃え盛る爪がヌエの眼前に迫った。振り下ろしたそれは寸前で回避される。カシャはそのままの勢いで宙返りでもする様に縦回転。焔を纏った尾が振るわれ、生み出された火球がヌエへと降り注ぐ。
立ち上がる爆炎。瞬間、凄まじい殺気。カシャが気が付いた時にはもう遅い。土煙ごと穿つ様に、鋭い尾が伸びてくる。巨躯を捻って回避を試みるも、槍の様な尾はカシャの片腕を粉砕した。大猫は短い悲鳴をあげて地へ落ちる。着地すらもままならない。
そんな格好の獲物を、ヌエが逃すはずが無い。煙の中から姿を現した化物は、倒れ伏したカシャへと飛びかかる。ヌエが狙っているのは首筋。しかし、カシャにそれを防ぐ術は無い。
為す術なく牙を首に受けたカシャは、最後の力を振り絞って全身を発火させる。焔は簡単にヌエへと燃え移った。それが嘶く様に後退すると同時に、カシャの全身へとヒビが入り、鏡が割れるが如くその身を光に変えて霧散した。
「くっ、テングの結晶でも持ってくるべきじゃったのぅ……!」
ダイヤモンドダストの様な光を浴びながら、スズカは歯噛みする。手元に残っているのは小型の呪力結晶のみだ。数刻前に発生した百鬼夜行を切り抜ける際に、所持していた結晶は全て使い切ってしまったのである。唯一チェシャから預かっていたカシャの結晶も、あの様子ではしばらく使えないだろう。
不意に、焔を振り払ったヌエが低く唸ってこちらを睥睨した。どうやら完全に怒らせてしまったらしい。それは怒りを表す様に高く高く吼えた。同時に、空気を裂く音と共に
「っ、勘弁して……!」
ちょうど雷の着地点にいたミリアは慌てて飛びずさる。だが、落ちる電撃は一度のみに留まらない。このままではいずれ直撃すると踏んだ少女は、仕方なく高速空間へと突入する。
高速空間にいれば、攻撃を回避する事は出来る。ただ、実を言えばミリアはこの空間が苦手であった。バレッタの様に足が速い訳でも、ルネの様に未来が見える訳でも無い。ましてや、ミリアは二人の様に天才的な戦闘センスを持ち合わせている訳でも無い。
バレッタは、直感で攻撃が当たらない所に逃げ遂せる事が出来る。ルネは、先を視て攻撃の当たらない死角に出る事が出来る。
けれど、ミリアは違う。幻で惑わせて死角を作り出す事は出来ても、無差別の攻撃を避け切る術は持たないのだ。
(本当……っ、やんなる……!)
そんな事を考えていたから、だろうか。
「――っ!?」
何かに、足を取られた。
突然集中が乱されて、ミリアは転がる様に高速空間から追い出されてしまう。突然の事に理解が追いつかない。回り続ける加速した世界に置いてけぼりにされる。手をついた際に捻ったのか擦ったのか、左の手首がじくじくと痛んだ。そんな事しか、分からない。
「っ、ミリア!?」
ドラセナは目を見張った。高速の世界に居たのだろうか、突然従姉妹の少女が目の前に転がり出てきたからだ。予期せぬ転倒であったのか、彼女は小さく呻いたまま起き上がれずにいる。無差別に放電が続けられている、今も。
「――っ!」
閃光。雷鳴が轟いた。
焦りと共に大剣を構えて、雷からミリアを庇おうとする。
「ぁ、ぐ……っ」
またもや、失敗。先程のダメージがまだ残っていたらしく、今度は堪える事さえもままならない。反動が大きかった。手の感覚が無くなって、大剣を取り落とす。激痛に侵食された身体が悲鳴をあげて、膝から崩れ落ちた。
「セナにぃ!」
「っ……はは、その呼び方、久しぶりに……聞いた、な……」
耳を刺したのは悲痛な呼び声。今はすっかり呼ばれなくなったあだ名であった。それに答える様に、ドラセナは朦朧としたまま夢中で口を動かした。可愛い妹分に心配をさせる訳にはいかないのだ。やはり、自分では荷が重かったのだろうか。嗚呼、何とも情けない。
「っ、こうなれば致し方無い……!」
負傷したドラセナ、呆然とするミリア、駆け寄るロイスを確認したスズカは、再び歯噛みして駆け出す。狙いはヌエだ。
電撃を避けて疾走。全力を込めて地を蹴って、その顔面を踏みつける。それから一切の躊躇も無く、発現した発雷器官へと牙を立てた。オニを食むなど久方振りだ。顎がおかしくなりそうなくらい、力いっぱいに根元から噛み砕く。
『ッ――――――――――!?』
雷鳴よりも大きな絶叫。ヌエは半狂乱になってスズカを振り落とすと、身を翻して走り去って行く。未だ電流を纏っている角を咥えながら、スズカは器用に着地した。噛み砕いた際に生まれた破片は飲み込んだが、どうにもこれ以上食べ進める気にならない。
「逃げた……」
後でチェシャにでも押し付けようかと考えていれば、ミリアの何処か上の空な呟きが聞こえてきて、スズカははっと我に返る。
「ロイス、セナ
オニが走り去って行った方向を見るのを止め、ドラセナの傍に屈んだロイスへ声を掛ける。既に処置は終わっているらしく、青白い顔をしたドラセナはスズカの姿を目にして力が抜けた様な笑みを見せた。
「へへ……平気ッスよ〜」
「この通りです。いつもの事ですから、治療もつつがなく終了しました」
ドラセナが誰かを庇って負傷する。それはいつもの事なのだ。毎度治療をする羽目になっているロイスは、何処か案ずるような視線を彼に向けつつもスズカの問いに答えた。
「そうか……無事なら良かった。ひとまず撤退するぞ、はぐれぬようにの!」
そうしてドラセナがロイスの手を借りて立ち上がったのを見たスズカは、柔らかく笑って歩き始めるのであった。
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