【断章】『早駆』Ⅰ 行ってきます、お母さん
『どうして助けてくれなかったの』
私の顔を覗き込む様にして、虚ろな目でその人は告げた。きっとその人は、顔も覚えていないお母さん。
壊滅したオアシスで拾われたという私には、その時の一切の記憶が無かった。物心ついた時から、養護院の記憶が全て。お姉ちゃんに優しくしてもらって、同じ環境の子達とも仲良くなって。それが、私の
「な、に……?」
だから、その人が言った言葉の意味が分からなかった。欠けてしまった記憶の破片が、とうに忘れ去ってしまった記憶の破片が、冷たく私に突き刺さる。
『どうして私を置いていったの』
そんな事、知らない。覚えていない。それは、私がお母さんを見捨てたと言う事なのだろうか。いつ、何処で、どうして。思い返そうとすれど、その為の記憶が無い。
「なに、を……」
失った記憶の中の自分自身が怖くて、身体が震える。喉が恐怖に張り付いて、上手く声が出せなかった。これ以上聞きたくない、知りたくない。そう思っても、目の前のお母さんの言葉は否応無しに耳に入ってくる。
『貴女は一人で逃げ出して、私を助けてくれなかった』
違う、私は、そんな事。
「わ、たし……」
していないと、断言したかった。けれど、覚えていないから、出来なかった。これ以上聞きたくない。私は本当にお母さんを置いて、一人逃げ出してしまったのだろうか。分からない。自分に自信が無くなった。
『助けて』
「ひっ」
虚ろな目で見つめられて、思わず悲鳴が零れた。抑揚の無い声でそう繰り返すお母さんは、私を逃がすまいと顔を両手で挟み込んで、顔を逸らす事を許してくれない。逃げたくても、逃げ出せない。
『バレッタ』
まるで罪を突き付ける様に、お母さんは私の名前を呼ぶ。全てを忘れた私が唯一覚えていた自分自身の名前が、重い重い枷になってしまったかの様に感じた。
「やめて……」
嫌だ。その名前は、私に意味を与えてくれるものなんだ。お姉ちゃんに呼ばれて、友達に呼ばれて、隊長と、先輩にも呼ばれて。その名前は、過去の無い私の過去を形作る、大切な大切な名前なんだ。
やめて、やめて、やめて!
そんな拒絶さえも、声に出来ない。喉に恐怖が張り付いて、口の中がカラカラになって、引き摺り込もうとするお母さんを拒む事が許されない。
『ねぇ、バレッタ』
お母さんの声は棘を持った蔓の様に絡み付く。罪を突き付ける様に、じわじわと心を削る様に。心を削られた痛みが恐怖となって、一つずつ目から零れ落ちていく。
嫌、嫌だ。この名前に、罪を与えないで。名前を呼ばないで。怖い、嫌だ、私は、私は貴女を――。
『バレッタ!』
瞬間、怖くて怖くて仕方が無くて、取り乱したまま涙を流す私を、とても強くて、とても優しい声が揺さぶった。それは記憶には無いけれど、ひどく懐かしくて、何故だか安心する。
「――――!」
目の前に、ノイズが走る。熱風が顔を撫でて、周りの景色が変わっている事に気が付いた。
気付けば、私を責め立てていたお母さんは何処にもいなかった。その代わり、目の前に居たのは先程とは打って変わって必死に叫ぶお母さんの姿が。
『お願い、貴女は先に逃げて……!』
私の肩をしっかり掴んで、泣きそうな顔をしたままお母さんは叫んでいた。肩の辺りで切り揃えられた、私と同じ色の髪が揺れている。
『嗚呼……お願い、愛しのバレッタ。貴女だけでも、生き延びて!』
嗚呼、そうだ。思い出した。
私はお母さんを置いていったんだ。
だけどそれは、お母さんに――。
◈◈◈◈
「おかーさんっ! ただいまぁ!」
「あら、おかえりなさいバレッタ。……まぁ、またそんなに泥だらけになって……今日は何をしてたの?」
暖かくて、優しい声。それと同じくらい暖かくて優しい手が、私の頭を撫でる。春の木漏れ日の様な、大好きな大好きなお母さん。
「かけっこだよ! あのね、ばれったね! またいちばんになったの!」
「あら! それは凄いわね! なら……今日のご飯はバレッタの好きなオムライスにしようかしら」
「ほんと!? やったーっ! ばれった、おかーさんのつくるおむらいすだーいすきっ!」
この家には私とお母さんの二人きり。だけど、幸せだった。ずっとずっと、幸せだった。ずっとずっと、一緒だと思っていた。
◈
暗転。街は、大好きだった街は、焔の海に包まれる。大きなサイレンが鳴り響いて、街中は恐怖に染まった。怖くて怖くて仕方なくて、隣に居たお母さんに縋り付く。
「……大丈夫、何があってもお母さんがバレッタを守るわ」
そう言って、私を安心させる様に笑うお母さんは、少し前まで
それからお母さんに連れられて、私は走った。時々怖いものが飛び出してきたけれど、その度にお母さんが魔法の様に出した刃で切り裂いてくれた。
怖くて怖くて仕方が無かったけれど、お母さんが大丈夫だと笑うから、涙を堪えて共に走った。
「――っ、こんなにオニが……」
お母さんの言う通り、街は大小様々な化け物――オニで埋め尽くされていた。ここを抜けるのは危険だと、何も知らない当時の私も理解していた。
「……いい? バレッタ、私が合図したら森の祠まで走りなさい」
不意に、お母さんは真剣な顔になって私の肩を掴むと、真っ直ぐ私の目を見つめてそう言った。その言葉の意味を理解した私は、咄嗟にお母さんの服の袖を掴んで抵抗する。
「っ、や、やだ……! おかあさんもいっしょにいこ……!」
「お母さんはダメなの。ここでオニを食い止めないと……。お願い、貴女は先に逃げて……!」
そんなささやかな抵抗に、お母さんは困った様に微笑むと、街中で蠢くオニへと目をやった。そんな事、分かっている。
けれど、私は首を縦に振る事が出来なかった。お母さんはもう、戦う必要は無い。そう、言っていたのに。
「嗚呼……お願い、愛しのバレッタ。貴女だけでも、生き延びて!」
力強い声が、私を揺さぶった。
「……っ!」
お母さんが、泣いている。泣き叫んで、私に生きてと言っている。きっと、お母さんだって離れたくないはずなのに、私を生かす為にこの場に残ろうとしている。
だから、だからもう、嫌で嫌で仕方なくても、頷くしかなくて。一人で逃げる選択をするしかなくて。
「――ごめんね、バレッタ。愛してる」
やっとの思いで頷けば、最後にぎゅっと抱き締められた。
離れていく温度。泣きそうな程優しい声。名残惜しそうに伸ばされていた手。それら全てを後ろに残して、私は走り出した。
これが今生の別れになる事は、幼いながらに理解していた。
だけど、振り返らない。
私だって、お母さんが大好き。ずっと、ずっと一緒に居たかった。けれど、今振り返ってしまったらお母さんの覚悟が台無しになってしまうと思ったから、私は振り返らずに走った。
私は確かに、お母さんを置いて逃げた。でもそれは、お母さんが覚悟を持って私を逃がしてくれたから。
お母さんが、私を生かしてくれたから。
それを、ようやく思い出せた。
◈
『――バレッタ』
目の前のお母さんが、私を呼んだ。私に向かって手を伸ばして、虚ろな目でこちらを覗いて。きっと、これは本物のお母さんでは無い。
「……大丈夫だよ、お母さん。私は……今も生きてる」
だけど、そうやってお母さんを抱き締めれば、まるで夢の様にゆらゆらと揺れて、お母さんの姿が薄れていく。
きっと、ようやく本当にお別れなんだ。
でもね、もう大丈夫。私は、お母さんの事を思い出したから。
だから――……。
「――行ってきます、お母さん」
◈
目を開ける。光と共に広がった景色は、さっきまで見ていた焔の海に染まる街と同じだった。
ここはきっと、私の故郷。お母さんと暮らした街。
目に映る異物。それは、大きな大きな骸骨だった。それが手を伸ばす先に居るのは、お姉ちゃんとヴィクトールさん。ヴィクトールさんは迫る片手からお姉ちゃんを庇って、何かを叫んでいた。
そんな中、大きな骸骨はもう片方の手を伸ばして、お姉ちゃん達を潰そうとする。
「――っ!」
嗚呼、駄目だ。きっと今から走っても間に合わない。間に合ったとしても、私には何も出来ない。
でも、でも、そんなのは、嫌だ。
考えろ。考えろ、考えろ!
何が出来る? 私には何がある?
走っても間に合わないなら、一体私に何が出来る?
「――――ぁ」
無意識の内に生成してしまった光の刃を握って、ふと気付く。
間に合わないなら、ここから攻撃を届かせてしまえばいい。この刃を、もっともっと研ぎ澄まして。
両手じゃ足りない。腕だ、腕を使えばいい。両腕をクロスさせて、その間に刃を生成する。
まだまだ足りない。もっと、もっと呪力を込めて。何でも切り裂ける様に、それは、そう、例えば空間でさえも。
私は、もう逃げたくない!
もっと、もっと、もっともっともっと!
全部の力を込めて、届け!
「――お姉ちゃんに、触るなぁぁぁぁああああああっ!」
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