【断章】『冥王』Ⅱ 愛してる
『どうして、わたくしを助けて下さらなかったの?』
ハッキリと、レティの声がボクの耳を刺した。いつもと同じ優しい笑みを浮かべて、手を差し伸べて、どうして助けてくれなかったのかと問う。
それは、何度も何度も襲いかかってきたはずの自責の言葉と同じで。それを認識した途端、足に力が入らなくなって、その場に崩れ落ちる。
どうしてなのか。それはとっくに分かりきっている事だった。ボクが弱かったから、レティを助ける為の力を持っていなかったから。だから、彼女は死んだ。きっと、それを恨んだ亡霊が、こうして今姿を見せたのだろう。
「――ごめん、なさい」
無意識の内に謝罪が零れ落ちていた。許されるはずも無いのに、何故かその六文字は繰り返し絞り出される。それは何度も何度も、彼女の墓の前で繰り返した言葉だ。
『――ルネ、どうして俺達を置いて行った?』
頭を抱えて、何度も謝罪を繰り返している内に、聞こえてくる声が増えた。それは、オニの巣窟となったニホンに置き去りにしてしまった恩人の声。
「ぐ、らす……さん」
ハッとして顔を上げたボクの目に映った人影は二つ。
『アタシらは、アンタを信じてたのに』
それは、まるで我が子の様にボクを可愛がってくれた傭兵の夫婦の姿で。最期に見た姿と同じ姿で、同じ声で、ボクにどうしてと問うてくる。
トリシャさんが放った言葉が深く深く突き刺さった。違う、違うんだ。ボクだって二人を助けたかった。けれど、けれど。意味を成さない言い訳ばかりが頭を巡って、恐怖が涙となって溢れていった。
『――嬢ちゃんは全部視えてたんだろ? 何で助けてくれなかったんだ?』
「ひっ……」
恐怖に喘ぐボクを責め立てる声は次第に増えていく。嗚呼、忘れもしない。これは、おじ様の声。目の前で、視えた未来と同じ様に命を散らしていった、ナポレオン小隊の隊長の声だ。
そう、ボクは全部視えていた。視えていて尚、何も出来なかったのだ。皆から貰った大切な鎌を握り締めながら、ただ大好きな皆が散っていく様を震えながら見ている事しか出来なかった。
「ごめ……ごめん、なさい……ボクが、ボクだけが、生き残って……」
耳を塞ぎたくなる。耳を塞いで俯いて、何も聞こえないフリをしたい。どうにかなってしまいそうだ。
怖くて怖くて、胸が痛くて気持ち悪くて、嗚咽と涙が止まらない。何度も謝罪の言葉が口から零れて、溢れて、終わりが見えない。
『ルネ』
自身の名を呼ばれる事が怖くて、恐ろしくて、何度も何度も謝った。それで許されるはずが無いのに、ボクは謝る事に縋った。そうする事しか、出来なかった。
「――ルネ」
そうやって、何度も何度も謝り続けるボクに向かって。
「ごめんなさ――……」
「いきて」
レティの声が、そう告げた。
◈
思わず顔を上げる。すれば、そこはレティが最期を迎えた場所で。いつの間にか膝を着いて崩れ落ちたレティがボクに縋っていて。彼女は息も絶え絶えに、最期の言葉を告げる。
「……ぁなた、は……いきて、かえって……。わたくしの、かわりに……どうか……ぃくとーるの、こと、……おねがい」
透明な雫を零しながら、レティは言った。どうから生きて欲しいと。自分の代わりに、弟を頼むと。ボクを心配させない様に、微笑んで。
「あい、してる……」
レティの姿は光となって、突風と変わって消えた。
「じゃあな、ルネ。――俺達の代わりに未来を頼んだぜ」
再び声が聞こえて、思わず瞑った目を開ける。すれば、小さな窓越し、笑うグラスさんの姿が。くぐもって聞こえる声が、未来を守れと告げる。
「アタシ達の代わりに、精一杯生きるんだよ」
何処か泣きそうな顔で笑ったトリシャさんが、生きろと言う。今生の別れだと察していた彼女の手が、窓越しのボクの手に重なる。
潜水艦は離れていく。最期に、二人の口元が動いた。
「愛してる」
それは、そう言っている様に聞こえた。
「……ぉお、ぶじ……だった、か」
窓に触れていた手は、いつの間にかおじ様の血塗れた身体に触れていた。おじ様は、絶望に震えたボクの手を優しく握って、無事で良かったと笑う。
「あぁ、よかった……じょうちゃんを、まも……れて……、おまえの、みらいを……まもれて……」
掠れた声で、ボクの無事を喜んで。ボクがまだ生きていける事を喜んで。ボクを守れて良かったと、安堵した様に微かな息を吐いて。
「しぬな……よ、ルネ……おれたち、は……おまえを、あいしてる……」
片方だけになった手で、おじ様はボクの頭を撫でて逝った。
再演された最期。皆、同じ言葉を告げていた。たった五文字、陳腐な、されど確かな温もりを持った言葉。
「――ルネ……あいしてる」
その言葉に記憶が揺さぶられて、お母様の最期の声が、最期に顔へ触れられた手の温もりが、蘇る。それは、お母様が事切れる前にたった一言遺された言葉。
ようやく、ボクは理解した。思い出した。
ボクは、きっとボクは、死に嫌われていたから死ねなかったんじゃない。
皆に愛されていたから。どうか生きていて欲しいと願われたから。皆がボクを死なせなかったから。
ボクは今も、生きているんだ。
◈
『――聞いていますの? ルネ』
偽物の声がボクを呼んで、現実へと呼び覚ます。否、こんなものは現実なんかでは無い。ただの、タチの悪い幻覚だ。虚ろな瞳と目が合った。
嗚呼、なんて下らない茶番なんだろう。
レティは、おじ様は、グラスさんは、トリシャさんは――ボクを愛している。
「……さらばだ、紛い物の亡霊よ」
別れを口にしながら立ち上がって、手にした愛機で偽物の身体を切り裂いた。長い長い走馬燈を映していた視界が、まるで霧が晴れる様に覚めていく。もう、悪い夢は終わりだ。
◈
「――っ!」
開けていく世界。眼前に迫っていたのは、文字通り骨の、大きな手。突然の事に、この場所に根付いてしまったかの様な身体は動かない。
「――ルネッ!」
「べ、くと……」
呆然としていたボクを庇ったのは、すっかり見慣れた背中。彼はグッと堪えて、大きな手に潰されまいと踏ん張っている。
「馬鹿! この馬鹿! 大バカ野郎!」
すっかり聞き慣れた罵声が、泣きそうな声が、ボクの耳を刺す。
「何でもかんでも一人で抱え込んでんじゃねぇよッ! お前の事だったら、俺が何だって一緒に抱えてやる! 俺は、お前が望む限り絶対に死なねぇから!」
彼の目に、ボクがどう映っていたのかは定かでは無い。けれど、彼はボクに縋る様に叫び声を上げた。まるで我儘を言う子供の様に、泣き叫んでいた。
「俺は……俺はお前を愛してんだよ! だから……だからッ! 死ぬんじゃねぇ馬鹿野郎――――――ッ!」
「――――っ!」
たった五文字のその言葉を、大好きな人達が笑って遺したその言葉を、目の前でベクトは叫んだ。
愛してる、だから死ぬなと、全身全霊で叫んだ。
涙が堰を切った様に溢れていく。抑え込んでいた感情が、とめどなく流れていく。
分かってた。気付いてた。けれど、知らないフリをしていた。だって、それに気付いてしまったら、触れてしまったら、また失ってしまった時にもう二度と立ち上がれないと思ったから。
だけど、違う。そうじゃない。
もっと、信じていいんだ。
ベクトの事も、自分自身の事も。
ボクだって、もう誰かを愛したって構わないのだ。
「……うん、……ボクも……ボクも、そうだよ」
恐らく、この小さな呟きは彼には聞こえていない。
呟いてから、このまま死ぬ訳にはいかないと思った。大好きな人達に、生きろと言われたから。
今も尚、最愛の人に生きろと願われているから。
その強く暖かな願いを、無下にする訳にはいかないのだ。
「……ッ、クソ! このままじゃ……!」
不意に焦った様にベクトが呻いた。よく見れば、その足元は踏ん張った影響で抉れている。どうやら、彼が弾かれるのも時間の問題の様だ。
「――っ! 右手……!」
それだけでは無い。どうやら痺れを切らしたらしい大きな手の持ち主は、もう片方の手を用いてボク達を潰そうとしていた。
生きると決めたのに、一度腰が抜けてしまった身体はすぐに動いてくれない。
嗚呼、嫌だ、失いたくない。
こんな所で、終わる訳には行かないのに。
「――お姉ちゃんに、触るなぁぁぁぁああああああっ!」
そんなボクの耳に届いたのは、強い想いの籠った金切り声だった。目の前を、まるで青空の様な大きな刃が横断して、大きな大きな骨の右手は切り飛ばされた。
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