EP10 奏でるピアノと恋慕の情

「え、えぇっ!? 何でこんな所にピアノが!? も、もしかして……ヴィクトールさん、ピアノ弾けるんですか!?」


 バレッタはピアノへと駆け寄り、目を輝かせながら問いかける。この荒廃した世界には楽器という存在こそあれど、それと触れ合う機会は少ないのだ。それが弾ける人物ともなると、相当珍しい部類である。


「おうよ。前までは寮のエントランスまで弾きに行ってたんだけど、見かねたルネが俺用に置いてくれたんだよな」


 ニヤリと口の端を吊り上げたヴィクトールは何処か嬉しそうであった。彼はサラッととんでもない事実を口にしたが、興奮しているバレッタは気が付かない。


「えぇーっ!? 凄いです! 楽器弾ける人なんてもう全然居ないと思ってました……! え、あの、あの! 何か弾いてくれませんか!? お願いします!」


 頬を紅潮させ、バレッタはヴィクトールを期待に満ちた表情で見上げた。

 だが、意外だ。ヴィクトールは筋骨隆々、まさに戦士と呼ぶに相応しい風体をしているのである。故に、彼が繊細さを必要とするピアノの演奏をしている様が全くもって思い浮かばなかった。


「ははは! めっちゃ食いつくじゃんか。いいぜ、俺の十八番おはこ弾いてやるよ」


 期待に煌めく瞳を向けられたヴィクトールは愉快そうに笑う。バレッタは飛び上がって喜んだ。傍から見れば二人の様子は兄妹そのものである。


「あー、その椅子に積んである本退けて好きに座ってくれ」


 と、ヴィクトールは自身が座る為のピアノの椅子を引きながら言った。彼が指さす方向を見れば、そこには何冊かの本が積まれたロッキングチェアがあった。

 言われた通りに本を横に退ける。文庫本の表紙には「セロ弾きのゴーシュ」とあった。恐らくルネがこの場で読んでいたのだろう。


「……じゃ、静かに聞き惚れてろよ」


 白と黒の鍵盤の上をヴィクトールの指が踊り出した。流水の様な低音、直に儚げなメロディーが流れ出す。まるで初夏の木陰を思わせる様な美しい旋律が書斎の中に響いていた。

 高い音と低い音が重なり合う音が心地よい。不意に曲調が変わる。際限なく美しいはずの旋律なのに、何処か僅かにでも気を逸らしたら、全てが消えてしまいそうな印象を与えられた。

 それは泡沫うたかた。それは藤花とうか。淡く淡く、美しさと儚さが共にある旋律。


「……綺麗」


 思わず言葉が零れた。まさにバレッタの心を掴んで離さない音粒が、書斎の中をワルツでも舞うかの様に巡っていた。


「だろ? 俺が一番好きな曲なんだよ」


 誇る様なヴィクトールの声も優しい。演者諸共、この美しい世界の中に入り込んでしまった様に感じた。


「そうなんですねっ! なんて言う曲ですか? 私もとっても好きになっちゃいました~っ!」


Sicilienneシシリエンヌ。……綺麗な癖に、どっか危なっかしくて……なんか、ルネみたいな曲だろ?」


 ヴィクトールは何処かうっとりとしたまま語る。確かに、何処かおどける様な揶揄う様な調べも、言われてみればルネに似通っている気がした。


「あはは、言われてみれば確かに……あれ? それって……」


 全くその通りだとバレッタも小さく笑い声を漏らしたが、何故かヴィクトールの言葉が引っかかって首を傾げた。

 先程、彼はこの曲が一番好きな曲だと言っていた。それはまるで、ルネの様な曲であると、自らそう口にして。


「もしかして……ヴィクトールさん、お姉ちゃんの事好き……なんですか!?」


 バレッタが一つの答えに辿り着いて、それを口にした瞬間。突然不協和音が響いて、今まで流れていた美しい音楽が止む。ヴィクトールは引き攣った笑みを浮かべたまま、まるで長年油を差していない機械の様に首を動かした。その顔色は徐々に赤くなっていく。


「あーっ!? いやっ、違う! その、違う! 違った! 間違えた! 一番好きなのはこれじゃねぇ! これ、これだから!」


 そのまま彼が大きな声と共に演奏を始めたのは、先程は印象が真逆の跳ねる様な曲。異常なまでの速さだ。焦っているのか、些か手元が狂っている様にも見える。


「と、とと、とら、トランペット吹きの休日っ! こ、これが、これが一番好きだから! お、おお、おう、これが一番だ!」


 彼は聞かれてもいないのに曲名を答え、裏返った声で何かの訂正をしている。

 バレッタは思わず吹き出した。何せ今流れているのは、まさに彼の心境を表しているかの様な騒がしく忙しない曲なのだ。何とも誤魔化すのが下手な人なのだろう。


「な、ななな、何笑ってんだよぉっ!? べべべべ別にシシリエンヌなんか、あ、いや、違ぇ、ルネなんか、す、好きなんかじゃねぇからなぁっ!?」


 叫ぶヴィクトールの声は完全に裏返ってしまっている。加えて、いかにもそうですと言っている様にしか思えない程に動揺していた。これは完全に黒である。バレッタは溢れ出す笑いを抑えられる事が出来なかった。


「っ、あっははは! いや、それもうほとんど肯定ですよ!」


「あぁあっ!? うるせぇうるせぇ! 聞こえねぇぇえ!」


 ヴィクトールの声と共に、どんどんピアノの音が大きくなっていく。彼が足元で踏んでいるペダルがギシギシと鳴っていた。奇妙な叫び声を上げる彼はもう耳まで真っ赤だ。


「……っ、ああもう最悪だ!」


 いつまで経っても笑い止まないバレッタに観念したのか、ヴィクトールは様々な感情を孕んだ声と共に演奏を止めた。そのまま天井を仰ぎ、顔を覆ってくぐもった叫び声を上げている。


「あはははは! ひぃ、お腹痛い! ヴィクトールさんって面白いですね!」


「何も面白くねぇよコッチは!」


「大丈夫ですよ! ちゃんと協力してあげますから!」


「何をだよ!? 要らねぇその気遣い! ……はっ!? ルネには何も言うなよ!?」


 目元の涙を拭うバレッタと、赤面したまま騒ぎ立てるヴィクトール。先程とは立場が逆転していた。そう世にも下らない言い合いを続けていれば、不意に扉の開く音が聞こえる。


「ボクがなんだって?」


「あぁーっっ!?」


 それと同時に声が一つ。それはこの場に居ない者の声のはずで、すっかり油断していたヴィクトールは腹の底から叫び声を上げて飛び上がった。


「……っ!? び、ビックリした……。何騒いでるんだいベク……ぅ、ゲホッ。あぁもう……じゃなくて、バレッタが来たら起こしてくれって言ったじゃないか!」


 扉を開けたのは勿論ルネ。彼女は最初こそヴィクトールの大声に目を瞬かせ、驚きのあまり咳き込んでいたが、すぐ様この部屋で来た目的を思い出した様にヴィクトールへと詰め寄った。


「えっ、へっ!? いや、その…………は!? おい待て、そんな事一ッ言も言われてねぇぞ!?」


 先程までその類の話をしていたせいでヴィクトールは意識したのか、彼女の近さに一瞬たじろぐ。だが、言葉の内容を理解すると即座に反撃に応じた。


「あれ、そうだったっけ? ……いや、でも、客人が来たら普通は起こすだろう?」


 対するルネは何処吹く風、まるで自分は悪くないと言う様に論点のすり替えを図った。


「この前人来た時に起こしたら不機嫌になったじゃねぇか! どの口が言ってんだよ!?」


 吠えるヴィクトールも負けていない。彼女が論点をすり替えたとて反撃の手は持っているのだ。気が付いた時にはもう先程の恋慕の露呈も忘れ、いつもの様にルネの言葉に噛み付いていた。


「その他の人間とバレッタは別だ」


「横暴!」


 と、そこまでテンポよく言葉のやり取りが交わされた時に、バレッタが堪えきれないと言った様子で吹き出した。まるでルネとヴィクトールの会話はコントなのだ。仕方が無い。


「あぁ……すまないねバレッタ。置き去りにしてしまった、ベクトのせいだ」


「お前だよバーカ! でも、わりぃな……まぁ、ルネも起きた事だし、とりあえず荷物置かせてもらえよ」


 尚の事二人は漫才の様な応酬を続ける。どちらとも口では謝っているが、お互いに悪いのはお互いだと考えているようであった。


「あ、はい! 分かりました! じゃあお姉ちゃんっ! 私荷物持ってくるね!」


「ボクの部屋は反対側だよ、一緒に行こう」


 ルネの提案にバレッタは元気よく頷いた。それを見届けたルネも嬉しそうに微笑み、先に書斎を後にする。


「じゃ、任せて下さいね!」


「っ!? あ、おい……!」


 後に続くバレッタは、部屋を出る前に一度ヴィクトールを振り返って、ウインクを一つ。ヴィクトールがその意味を問う前に彼女はサッサと書斎から出て行った。


「…………はぁぁぁ、最悪、だ……」


 最後に一人残されたヴィクトールはその場にしゃがみ込み、項垂れる。気まずそうに何処かを見つめる顔は、しっかり羞恥に染まっているのであった。

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