【断章】『銀嶺』Ⅱ 刻まれた痛み

(――やっと、見つけた)


 もっと、疾く、前へ。

 歯を食いしばって、力強く鎌の柄を握り締めて、風を切るように駆けていく。

 やっと、やっとなのだ。あの時から、どれだけ奴が現れるのを待ち侘びただろう。


「――ッ、はあぁあぁあッッ!」


 怒りに任せて大地を蹴って、邪魔をしてくる小型を蹴散らして、腹の底から殺意に満ちた雄叫びを上げる。心に焼き付いて消えない憎悪が、今この足を動かしている原動力であった。


(もう少しだけ、待っていて下さい)


 目を閉じて、最愛の人の姿を思い描く。


『こっちよ、シルバー!』


 こちらを振り返りながら満面の笑みを浮かべ、私を呼ぶ優しい声音が蘇った。

 夕日を浴びてキラキラと輝く金色の髪、いつでも喜びに満ちたガーネットの瞳、鈴の音の様な美しい笑い声。


「――レイラ……っ!」


 硝子の様に砕け散った記憶を抱えながら私は一人、愛しきあの人の名を叫んだ。



「――なぁに? どうしたのシルバー、そんなに怖い顔して……」


 私の焦った声に名を呼ばれた彼女は、ゆっくりとした動作で振り返った。ここは自分達が住む街を一望出来る高台。彼女のお気に入りの場所であった。


「また貴女はこんな所に……あまり遅くまで外に居たら風邪を引きますよ。さぁ、家へ帰りましょう」


「あぁ待って! お願い、もう少しだけ」


 私が「帰りましょう」と手を差し出せば、彼女は逆にその手を引いて「もう少し」と首を横に振る。肌寒くなってきたこの季節、私の手を引く華奢な手はとうに冷え切っていた。


「もう少しって、一体何故……」


 彼女が頑固である事を知っている私は、すっかり困ってしまって思わず呟いた。一度こうなってしまえば、彼女は気が済むまでテコでも動かないのを私は知っている。


「……あ、ほら見てシルバー! 始まったわ!」


 さてどうしたものかと考え込んだ矢先、興奮した様な彼女の声がそれを遮る。慌てて、彼女が空いている手で指し示す方向へと顔を向ければ、そこには幻想が広がっていた。


「――――!」


 沈みゆく美しい黄金の夕日。その一瞬、街が金色こんじきに染まっていく。それはまるで、いつか彼女に「愛している」と告げられた時の花畑の様で――。


「ね! 綺麗でしょう?」


 隣に立つ彼女は楽しそうに笑った。彼女の金の髪は、夕日を反射してより一層美しく輝いている。夕日に染まる彼女は、まさに何よりも価値がある一枚の絵の様であった。


「……えぇ、とても綺麗です。――この景色も、貴女も」


 感極まったままそう返せば、ガーネットの瞳が見開かれた。彼女はぱちくりと瞬きを繰り返した後、こそばゆそうに笑い始めた。


「うふふっ! もう、シルバーったら!」


 彼女の鈴の様な可愛らしい笑い声が、高台中に響いていく。私はそんな彼女の、心の底から楽しんでいる様な笑い声が好きだった。


「……ねぇシルバー? 私、やっぱりこの街が大好きだわ。愛しているの。――それ以上に、貴方の事が大好き」


 彼女は不意に嬉しそうに目を細め、街へ視線をやると、柔らかな声音でそう呟いた。そうして、最後はしっかりと私を見つめて微笑む。


「……えぇ。私も愛していますよ。レイラ」


 お互いに見つめ合った私と彼女の間の距離は消え、しばらくしてからまた生まれる。それからどちらからとでもなく笑って、二人一緒に沈みゆく夕日へと手を伸ばした。



 熱さから逃れる為に、伸ばした腕を翳す。また近くで燃える炎の勢いが強くなった。あちこちで立ち昇る黒い煙、逃げ惑う人々の悲鳴や怒号。思い切り煙を吸ってしまった肺の痛みが、それらが現実である事を告げている。


「――っげほ、れい、ら……レイラ……っ!」


 どれだけ大きな声で呼んでも返事は無い。彼女は警報を聞いた途端、疾風の如く飛び出して、何処かへ行ってしまった。だがしかし、彼女が向かった先は何となく分かる気がした。

 恐らく、彼女がいるのは高台だろう。私は逃げ惑う人々の波に逆らいながら、必死に足を動かし続けた。


「――レイラっ!」


 予想通り、レイラは高台に居た。ようやくその姿を見つけた私は駆け寄って、振り返る彼女を抱き締める。しばらく呼吸すらも忘れていたらしく、安堵した内に息苦しさを感じた。


「シルバー……っ! 街が……!」


 レイラは私に縋り付き、声を震わせながら訴える。下に広がる街へ視線を移せば、炎に包まれる街が目に入った。空は炎と煙で赤黒く染っている。私はいたたまれなくなって、震える彼女を一層強く抱き締めた。


「レイラ、早く避難しましょう。ここに居ては危険だ」


「分かってる……だけど……!」


 そうして肩に手を置いたまま、真っ直ぐレイラを見つめて説得するが、彼女は簡単には頷かなかった。自分達に出来る事は何も無いと分かっている様だが、それでも心配そうに燃え盛る街を見つめ続けている。

 私は、まるで彼女がそのまま燃え盛る街へと飛び込んで行ってしまいそうで、必死にその肩を掴みながら、隣で街を眺め続けた。


「――――ッ! シルバー、危ないっ!」


 不意に、彼女の鋭い声が耳を刺す。肩を抱きすくめていたはずのレイラに強い力で突き放され、私は受身を取る間もなく尻もちを着いた。


「ッ、ぁああッッ――!」


 遅れて、レイラの絶叫。仰け反った彼女は血飛沫を撒き散らしながら私の方へと倒れ込んでくる。


「れい、ら……?」


 受け止めた彼女の背中には大きな裂傷。彼女の金色の髪が、白いワンピースが、鮮血に染まっていく。彼女は呻きながら顔を上げると、苦痛に歪んだ表情のまま、何とか笑おうと口端を動かした。


「……にげ……、て」


 レイラは力の入らない震える手で私の体を押す。突然の事に真っ白になってしまった私の頭は、ようやく彼女が視えざる者オニに襲われた事を理解した。


「――っ! レイラ! しっかりして下さい、貴女を置いて逃げる事なんて出来ません!」


 私はレイラの名を何度も呼びながら、彼女が私を庇った事を思い出した。恐らくレイラは最初からオニが視えていたのだ。だからきっと、あの混乱の中でもこの高台に辿り着くことが出来たのだろう。


(どうして、気が付かなかったんだ……!)


 その事に気が付く事さえ出来ていれば、彼女に頼りながらも速やかにこの街を離れる事も出来たのに。彼女を危険に晒す事など無かったのに。

 心を焼く様な後悔が、雫となって頬を伝っていく。レイラは息も絶え絶えになりながら、繰り返し逃げてと懇願する。


「レイラ! すぐに助けを呼びますから……! しっかりして下さい! レイ――……」


 不意に、まるで急に夜が訪れたかの様な錯覚に陥って息が詰まる。それは何の前触れも無く、突如として訪れた。今まで焔に照らされ、赤く揺らめいていた辺りが暗く染まったのだ。


「――は」


 何事かと緩慢な動作で顔を上げれば、こちらを見下ろす無機質な瞳と目が合う。五メートルは優に超えているであろう狐のようなそれは目の前に座り、背後の炎に包まれる街を隠していた。それの強靭な爪の先には、鮮血と見覚えのある服の切れ端がこびり付いている。


「ぉ、に……」


 自然と口が動いていた。こちらを射抜くそれは、今まで交わる事の無かった視線の筈だ。頭がぼうっとして、身体中から嫌な汗が吹き出した。口の中が乾いて、ドクドクと心臓の鼓動が速まっていく。

 レイラはこれから逃げろと言っていたのだ。これが、彼女が普段見ていた世界。今すぐ彼女を抱えて走り出さなくてはいけない筈なのに、恐怖に支配された情けないこの足は一向に動かない。


『………………』


 その瞬間、こちらを静かに見下ろしていたオニが、まるで飽きでもしたかの様に前の足を振り上げた。

 

(もう、逃げられない……っ!)


 そうさとった私は、腕の中のレイラを守る様に覆い被さった。今の私には、それしか出来なかった。


「――ぅらあっ!」


 歯を食いしばって覚悟する私の頭上で、高速で風が通り過ぎていく。それと同時に、固い金属同士がぶつかる様な音と野太い雄叫びが聞こえた。


「おい! 生きてるか!?」


 焦る様な男性の怒号に、私はハッと顔を上げる。視界に入ったのは、私達とオニの間に割って入ったらしい一人の男性。オニの強靭な爪は、男性の持つバスターブレードによって止められていた。


「――チッ、急げロイス! 怪我人が居る!」


 男性が何者かに指示を出しながらバスターブレードをグッと押し込めば、ミシリと音が鳴りオニは耳障りな声を発して飛びずさった。

 それは低い唸り声を上げながら、突如現れた男性を睥睨する。どうやら標的が移った様だ。そうして間も無く、お互いに吼えて再びぶつかり合いが始まった。


「オーミーン隊士です! 怪我人をこちらに!」


 ただ呆然と男性とオニの攻防に釘付けになっていた私は、突然かけられた声に驚いて肩を震わせた。咄嗟に言葉の意味を理解出来ず、声をかけてきた少年隊士の顔を呆然と眺める事しか出来ない。

 すれば少年隊士は「そのままで大丈夫ですので」と緊張した面持ちで頷き、私の腕の中に倒れ伏す彼女の手当を始めた。


「――っ、隊長、ダグラス隊長! 怪我人の血が止まりません!」


 僅かに少年隊士の手元が光る。しかし、レイラの傷口から流れる血は依然として止まらなかった。彼は青ざめ、声を震わせながら、一人でオニと渡り合っている男性へと縋る。


「るせぇっ! 集中してやれ!」


 ダグラスと呼ばれた男性はこちらを一切見ずに怒号を飛ばす。少年隊士は泣きそうになりながら頷き、再び彼女の治療へと戻った。しかし、未だ彼女の血はとめどなく流れ続けている。

 少年の手が震えているのが見えた。彼の息が荒くなって、まるで過呼吸の様になっていくのが手に取る様に分かる。


「――! だ、大丈夫です。落ち着いて、下さい。しっかり、深呼吸を――……」


 今にも倒れてしまいそうな少年を見て、少しだけ落ち着きを取り戻した私が少年へ声をかけた瞬間。


「――ぐぁああぁあッ!」


『ギュァ――――――――!』


 今まで戦闘を続けていた男性の激痛にひび割れる絶叫と、ビリビリと大気を揺らすオニの咆哮が、不快な不協和音を奏でた。


「――! ダグラス隊長ッッ!」


 男性の叫び声にいち早く反応した少年隊士が、声に痛切を滲ませながら叫ぶ。

 同じく顔を上げた私の目に飛び込んで来たのは、本来であれば繋がっているはずの片足を失くした男性と、無機質な片目からとめどなく血を流すオニの姿だった。

 遅れて落ちてきたのは、大きなバスターブレードと千切られた片足。片目を失ったオニは苛立った様に甲高い機械音で吠えると、こちらを一睨みし、どういう原理か自力で発生させたらしい歪みの中へ消えていった。


「たいちょ――……」


「俺は! いぃ……ッ! は、やくそいつ、を……ッ!」


 思わず駆け出しそうになる少年へ、男性は痛みに耐えながらも短く牽制する。その瞬間、腕の中のレイラが重くなった様に感じた。先程彼女の体に繋がれたばかりの機械が悲鳴を上げている。


「たい、たいちょ……! だ、駄目です……血が、血がぁっ!」


「っ! レイラ、レイラっ!」


 少年隊士が冷静さを失っていく横で、私は何度も彼女の名を呼んだ。彼女はそんな私の言葉を遮る様に、震える手を私へと伸ばし、血にまみれた口を微笑みに染める。最早痛みすらも感じなくなっているのだろうか、その微笑みはいつも見る様な柔らかい物であった。


「ごめ、ん……ね……ぁい、して――……」


 突如レイラの体は鉛の様に重くなり、伸ばされていた手がパタリと落ちた。同時に小さくか細い機械音が悲鳴を上げる。

 どれだけ待ってもそれ以上言葉の続きは紡がれず、彼女のガーネットの瞳は二度と光を映すことは無かった。


「……れいら?」


 名を呼んでも、反応は無い。


「……れいら。れい、ら……起きて、下さい……」


 朝に弱い彼女を揺り起こす様に、いつもの様にその華奢な身体を揺さぶっても、レイラはその瞳に光を映さない。


「れいら……レイラ! もう一度……もう、一度……! 愛していると……!」


 徐々に冷たくなっていく手を握り、どれだけ悲痛な声で懇願しても、彼女がその言葉に答えてくれる事は無かった。


「――――――――――――!」


 彼女は、レイラはもう二度と目を開けない。そう理解した瞬間、自分の物とは思えない咆哮が喉から絞り出された。燃え盛り、灰へと姿を変えていく街の中に、魂を引き裂かれた様な絶叫が轟く。

 

 その日を境に、私の中の時計は動きを止めた。レイラを失った瞬間から、私の世界は色を失ったのだ。



「――やっと、逢えましたね」


 刻み付けられた惨憺たる記憶から意識を浮上させれば、目の前には大きな影。何もかもが燃え尽き、煤けた世界の中で揺らいでいるのは、無機質な隻眼の眼光。


「――――」


 辺りに甲高く不快な機械音が響いている。無機質な瞳でこちらを見下ろしていた奴も、殺気立つ私を認識した様だ。全身に走る回路が赤く染まり、奴は徐ろに立ち上がる。


「――――ッ!」


 瞬間、殺気と殺気がぶつかり合い、雄叫びと咆哮が大気を振動させる。

 それが、私の復讐開始の合図であった。

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