第56話 男爵領(2)
正門を守る領主の兵士たちの姿が見えてくると、いまから自分たちがしようとしていることを改めて突きつけられるようで、普段は善良な彼らは少なからず怯んでいた。
農村からここまで来る間にも、実は何度となくやめようと思ったことか。
けれどそのたびこの中年男に鼓舞されて農具を握り直したものだ。
何より、ここで脱落したりすれば農村での今後の居場所がないではないか。
そんな恐れに流されてやってきてしまった。
青年はあまり感情で突き動かされる性質ではなかったが、濃密な人間関係で成り立つ農村でうまく生きていくため、周囲の空気を読んで流れに逆らわず生きてきた。
「ん? あれ……?」
そんな彼だから気づいたのかも知れない。
青年は小さな違和感を覚えた。
「あの中年男、農具の他になんか棒みたいなもんも体に結えてんのか……?」
ここまでは巧妙に衣服に隠されて目立たなかった、中年男の衣服の下の膨らみが目についた。
「なんだあれ。銃みたいな…いや、ちげぇよな。農夫がそんなもん持ってねえよ」
「おい」
そんな青年の思考は、顔馴染みに声をかけられて中断された。
このときの彼の気づきが、男爵領だけでない多くの地に影響をあたえるものだったとは、知りもせずにーー。
「そろそろ打って出るらしいぞ!」
「つ、ついにか」
青年は武者震いした。いくぶんかは怯えの方が多かった。
「行くぞ!」
中年男の大きな掛け声とともに、農夫たちは城へ向かって一歩を踏み出した。
するとーー
「俺たちは正しい!」
「正しい!」
震える体に、大声が響いた。
「飢えているのは領主のせいだ!」
「そうだ、そうだ!」
声に押し出されるように、青年たちは城へ近づいていく。
自分の意思ではなく、強制的に背中を押されるようにしながら。
「……な、なんなんだ」
青年もこの熱気に飲み込まれそうになる一方で、理性のどこかが警鐘を鳴らした。
あれ? なんか、おかしくないか?
周囲をよく見ると、大多数を占める顔見知りの男たちは、自分と同じ強張った表情。
声をあげているのは、中年男と、ごく少数のあまり見覚えのない男たちだ。
土壇場でこんな尻込みするなんて、情けねぇ。
でも、なんか、なんかおかしくねえか。
なんでこんなこと始めちまったんだっけ……。
ーーいや、でも、逃げ出せねえよ!
混乱が頂点に達した時だった。
「皆さん!」
殺伐とした熱気が立ちこもる城の前に、清涼な風が吹いたように感じた。
凛と美しい、鈴の音のような少女の声が響いたのだ。
彼らの前に現れたのは、女神だった。
「銀の、女神さまだ……」
隣の男が農具を取り落とした。
伝説の中の一幕を目にしているようだった。
女神は真っ白な装束をまとって、陽光に照らされて長い銀糸の髪を風に靡かせている。
日に煌めいて、銀の髪はどんな宝石よりも美しく感じられた。
と、同時に、彼らは気づく。
彼女が背にしているものを目にして、農夫たちは冷や水を浴びせられたように我に返った。
鳥肌が立ち一気に暴動の熱が冷却されていくのを、青年も肌で感じた。
「あ、あれはーー!」
⌘ ⌘ ⌘
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