第55話 男爵領
わたしは叫んで、すぐさま男爵領に向かうために足を踏み出した。
はやる気持ちを抑えるのは難しかった。
正確に日付を思い出せないわたしには、エドワードが襲われる日がまだ来ていないことを祈るしかできなかった。
馬車の揺れも気にならないほど、ただ強く手を握り合わせて願う。
(どうか、どうか間に合わせてくださいーー。女神さま……っ)
⌘ ⌘ ⌘
この男爵領には苛立ちが満ちていた。
春を迎えても、農村にはわずかな麦すらない。
冷夏で収穫を得られず、絶望する間もなく必死で食物を集めるうちに冬がやってきた。
飼っていた家畜を潰し、秋のうちに山を這って集めた木の実や果実はとっくの昔に食い尽くしていた。
一見すると、冬の間がもっとも厳しい飢えに堪える時期と思われるかもしれない。
けれど、実はこの春から夏にかけての、次の麦が収穫できるまでの残り半年こそが苦しみをもたらす期間なのだ。
いかに心は焦っても、夏にならなければ麦は収穫できない。
冬に凍えて体力を失ったまま、働かねばならない。
にもかかわらず、男爵は今日また市場でしこたま食料を買い占めたという。
ーー王都から訪れる貴人をもてなすために。
「もう領主を殺すしかない」
「あぁ、オレもそう思う」
「仕舞い込まれた麦を取り返すんだ!」
いきりたつ男たちは農具を手にした。
剣はなくとも、せめて武器として使うために。
「でも、よう……逆らったりしたら……」
ふと気弱な声が紛れ込む。
叛逆は最大の罪だ。
武器を手にした男たちだけでなく、その妻も子どもも、両親も殺されても何もいえない。
そうやって法で取り決められている。
一瞬、意気込みはくじかれたかに思われた。
しかし。
「オレの娘はもう死の目前だ……」
昨年近場で暮らし始めた中年の男が、絞り出すような声でつぶやいた。
「嫁はここしばらく、薄い麦粥しか口にしてねぇ。乳も出ねぇ。本当ならふくふく大きくなってくるころの赤ん坊が痩せ細ってくのを見てる親の気持ち。お前だって同じようなもんだろう!?」
最後は吠えるように叫んだ。
「ここに集まってるやつらはみんな似たようなもんだ! 自分の親が飢えて死にかけてるやつ、孫が病になっても薬どころじゃないやつ、中にはもうこの冬に家族を亡くしたやつだっているだろう!?」
誰もが静まり返っていたが、それは先ほどまでの意気をくじかれたような沈黙ではなかった。
むしろ煮えたぎるような怒り。
いま、自分たちが置かれているこの状況下になんの手も差し伸べず、むしり取っていくだけの、敵となった為政者への憎しみだった。
「なぁ、どうせ殺されるかもしれねぇ! でも、暴動を起こせば取り立てられた麦をすこしでも取り返せるかもわからねぇんだ」
「そ……そうだ! なんにもしなけりゃ飢えるだけだ!」
「そうだ! その通りだ!」
彼らは目に炎をたぎらせた。
暴動の決行は明日。
男爵が視察に訪れる貴人を迎え入れるため、正門を大きく開いて、自らその近くに姿を現すとき。
その場で取り決められた約束を胸に、彼らは立ち上がった。
⌘ ⌘ ⌘
わたしには勝算など分からない。
もし暴動が始まってしまったら、なす術はなかった。
ただ、もしもその前に辿り着けたならーー。
一縷の望みに賭けて、わたしはただ手に握りしめた布地に強く力を込めた。
今日はジェーンのことさえ置いて、この馬車には最低限の護衛しかつけていない。
膝の上に広げた布地の模様を指で辿る。
今必要なのは、なによりも迅速にこの身で駆けつけることだった。
ただ手のひらに、握りしめた刺繍の凹凸を感じながら……。
⌘ ⌘ ⌘
「そろそろだ」
今年30になる青年は生唾を飲み込んだ。
「わかった! 皆、準備はいいな!」
目の前のいかつい中年男が、手にした農具に力を込め、声をあげる。
そういえば、この暴動を言い出したのは、この最近顔を見るようになった中年男だったか。
ーーいや、そんなことはどうでもいい。
もうここまできたらやるしかないのだから。
青年は軽く頭を振って雑念を飛ばした。
目の前の中年男を見ろ。
なんら揺らぎなく、戦おうとする男の顔じゃないか。
まるで訓練された兵士だ。
建物の影から領主邸をうかがう中年男をみて、彼もまた覚悟を決めようと自分を鼓舞する。
しかしその背後では、
「ほ、本当に城を襲うのか……」
「あ、ああ……だな」
弱気なさざめきを感じなくもなかった。
城の動向をうかがうため、先陣を切ろうとしている中年男には聞こえていないようだが。
正直、青年も含めて半数は、近づいてきた領主の城を前に、先ほどまでの勢いを失ったように沈黙していた。
周囲には緊張が漂よう。
当然だ。
これは命をかけた戦い。
しかも普段従っている相手に刃向かうのだ。
なのに、戦略もなにもないーー。
彼らにあるのは、ただ苛立ちと空腹を暴力で訴えようという単純な衝動だけ。
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