第49話 記憶〜ダンス〜
そのときだった。
小さく音楽が聞こえ始めたのは。
「これは……ワルツかしら」
居心地の悪さをごまかすために、わたしは耳を澄ました。
「ああ、楽団の練習だろう。次のシーズンに開催される舞踏会にむけての準備だな」
「素敵ね。ダンスはできないけれど、音楽を聞くのは好き」
「なぜダンスはできない?」
「わたしが苦手なのを知っているでしょう? 起きて動ける時間が限られるから、練習ができていなくてーー」
「……あぁ、そうだったな」
彼は遠くを見るような目になっていたが、何度か瞬いたあと、再びわたしに焦点を合わせて、いたずらっぽく笑った。
「だが、踊ってみたいと言っていただろう? さぁ」
「えっ? ええっ」
さっと奪われた腕で、そのままホールドを組まされた。
彼にしては強引な仕草だったが、腕を引く手は気遣いに溢れていた。
それにしても、わたしは踊りたいなんて言ったことがあったかしらーー。いや、それだけはない。踊りたいと思ったことがないから。
しかし、エドワードは勘違いしたまま動き出す。
「そう。右、左、右」
「まっ、待って!」
彼は音楽に合わせて軽快にステップを踏んでいく。
リードにつられて、わたしの体がくるりと動き出し、スカートの裾がふわっと舞い上がった。
エドワードの優雅な動きに対して、残念な足捌きである。
「ははっ、確かに上手くはないな」
「もう! 言ったでしょう」
わたしはわざと膨れてみせた。
「でもエドワードはさすがに上手ね」
「君のために必死で学んだからね」
「わたしがなんとか転んでないのは、あなたのリードだからわ」
「それは光栄だな、我が姫君」
すると彼があまりに……戸惑うくらいに愛しそうにわたしを見つめ返したものだから、慌ててしまってステップを間違えて、足を絡めてしまった。
「きゃっ!」
「おっ」
なんとかバランスを取り戻そうと、くるくる慌てて回転した結果、わたしの足が少し浮かんだ。
おもわず悲鳴のように彼を呼んでしまう。
「ッ、エドワード!」
「ははっ! 君は軽いな!」
そのままふわりと空中に浮き上がり、エドワードが下となって折り重なるように伸びた芝生のうえに転がった。
倒れたのは柔らかい草地の上だから、そこまで痛くはなかったはずだけれど、わたしは慌ててエドワードの上から退いた。
「ごめんなさい! 痛くはない?」
「ふっ、ははは!」
ダンスとはいえ、わたしにしては激しく動いた。心臓と肺がどくどく脈打っているのがわかる。
彼はなにが楽しいのか、ずっとクスクスと笑っていた。
なんだかわたしまで引っ張られて口元が綻んでしまう。
しばらく二人して中庭に座り込んで、ゆっくりと雲が流れていく青空を眺めた。
より地面に近づいたからか、草いきれがいっそう濃く、強い生命力を感じさせた。
たとえ踏まれても、嵐に翻弄されても、日が出ればまた天を向いてすくすくと育つ、健やかな命の匂いだった。
わたしが愛おしくてならないと感じるもの。
少しだけ日が翳り始めて、わたしはそろそろ父を待つ部屋に戻らなければいけないと気づいた。
と同時に、ふと尋ねた。
「ねぇ、エドワード。今あなたは地方に行っていたんじゃないの? いつの間に帰ってきていたの?」
彼は王城にはいないはずだったから。王太子である彼のお父さまと、どんなに早くても片道3日はかかる場所にいる予定と聞いていた。
なのに、目の前にいるなんて!
なにか予定が変わったのだろうか。
「え……ああ、そうか」
彼は夢から覚めたような顔をした。
まるで、パチンとシャボン玉が割れた時のような、ちいさな衝撃を受けた表情。
そして、何かに納得するかのように一人で頷くと、じっとわたしを見つめた。
「君はーーアイリーン」
今さら名前を呼ばれて、わたしはきょとんとした。
「どうしたの? エドワード、今日はなんだか少し変だわ。体調がすぐれなくて、王太子さまとの同行をやめたの?」
それなら、いまこうしてわたしとはしゃいでいてもいいのだろうか。
病人だとしたら早く治して元気になってほしいーーと、普段とは逆の立場で思いを巡らせていた。
「いいや……」
「エドワード?」
彼は両手で顔を覆ってしまった。けれど、発音はしっかりしているようだ。
「もう一度、呼んでくれ。エドワードと」
「……えっ?」
「名を呼んでくれ」
「ーーエドワード……」
「…………」
両手を下ろしたとき、彼はやけに大人びた顔でーーやけに冷たく笑った。
「また……本来の形で会おう」
「え……? うっ!」
エドワードの違和感がある表情を前にためらっていたわたしは、唐突に首筋に衝撃を受けて、視界がぐるりと回転する。
倒れたのだーー。
何者かに……殴打されて……。
けれど頭がまわらず、ただ地面に伏していることだけ認識して……すぐにわたしの意識は暗転した。
⌘ ⌘ ⌘
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