第44話 領主の館で
領主の館の一室で、わたしは緊張していた。
ディランは数日前までこの領主の館にいたというのに、一カ所に落ちつけない性質のためか、もう別の地に旅立っていた。自由な人だ。
ここは公爵家の領地のなかでも、最も大きい港に面している。
嗅ぎなれない潮風の香りが、遠い街に来たことを教えてくれた。
ここを任せている領主夫妻は、父と政務のうえでも深い信頼関係にある老人で、あらかじめ事情を伝えてあった。
彼らは穏やかに迎え入れてくれた。
祖父母の年代の奥様はやさしく、この部屋を貸すだけでなく、わたしを心配して同席までしてくれた。
「アイリーン嬢、もし途中で体調が悪くなったら、気にせずおっしゃってね」
「ありがとうございます、メアリーさま」
彼女は孫を見るように目を細めた。
実際、彼女の孫は男の子だったそうだ。残念ながら、数年前に流行病でなくなってしまったけれど、生きていたら、わたしくらいの年になっていたはず。
「もし本当に叶うなら、これから来る方があなたの言うとおりの知見を持っていることを願うわ」
メアリーさまは心から願っているだろう。
彼女の孫も、わたしと同じ……。
「お気遣いありがとうございます。希望をもって臨みますね」
わたしは微笑んで見せた。
実際、話を聞いたときには違いないと思ったのだ。
ただ直前になるとほのかに不安を感じてしまうのはなぜだろう。
もし勘違いだったら……。
例え相手が思い通りの人でも、もし力を貸してくれなかったら……?
いいえ、悲観的になってはいけない。
つい最悪の事態を考えて、自分がダメージを受けないように保険をかけそうになるけれど、そんな態度では幸運を呼び込めないのだから。
いまのわたしには、この巡り会いの運を信じるしかない。
そうこうしているうちに、約束の時間になったようだった。
コンコン、とドアをノックする音がする。
「どうぞ」
奥様の返答をうけて、領主の館のメイドが現れる。
「お客様がいらっしゃいました」
「では、ご案内して」
「かしこまりました」
一礼してメイドが引き返し……、再びノックと許可のやりとりが繰り返される。
「お客様、こちらです」
「失礼しまスね」
そうして扉から姿をみせた人ーー。
ーーやっぱり、あなたなのね……!
一度目の人生の中でも、大きな影響をわたしに与えた人。
わたしが探し求めていた人物が、今、目の前にいた。
「お待ちしておりました。アイリーンです」
わたしは待ちきれず、ソファから立ち上がって、入室した相手に向かって軽く礼をとった。
「丁寧デスね」
少し変わったイントネーションでしゃべるその人は、黒髪に黒目で身長はそう高くない。
たとえるなら、まるで凪いだ湖面のような、静けさを感じさせる人だった。
肩につかないくらいの漆黒の髪を、潔くまっすぐに切りそろえた髪型が似合っている。
男性とも女性ともわからない、不思議な人。
肌は健康的に少し日焼けしていて、わたしよりは年上だということは分かったが、20歳なのか、はたまた40歳なのか……。
どちらと言われても納得してしまいそうな、年齢不詳な外見をしていた。
この人こそが、思い出した記憶を頼りに、会いたいと模索していた相手……。
「ワタシ、片言のところもある。許してほしい」
「充分お上手かと思います。お気になさらないでください」
「本当に。ああ、わたくしは同席しますが、静かにしておりますね」
シンは静かなたたずまいで頷いた。
「こちら逗留してマス。シンと申します」
シンは東洋からやってきたと言った。
その身にまとうのも、我が国とはまた違う美を追求した民族衣装だった。
わたしたちの文化を装飾的で華やかなものとすると、その人の持ち込む美は、無駄を削ぎ落としていった後に残る、清らかな美しさがあった。
抑えた色彩の装束に、機能的で柔らかい布の靴。それに体全体を覆うマントを羽織っていた。
この人が……この人だけが、頼みの綱だった。
「さっそくですが、貴方のお力を借りたいのです」
シンはぱちぱちと目を瞬いた。
「貴女が?」
シンはじっとわたしを見つめた。
「そうです」
「ワタシのこと知ってる?」
「はい」
わたしは重々しく頷いた。
「……なるほど。近づいてイイ?」
「もちろんです」
シンはソファの足元に膝をついて、よくわたしを観察した。
その目は真剣で、
「触れるよ?」
手首の脈を取ったり、まぶたを軽くめくって色を確認したりされた。
「ふう」
一通り確認が終わったのだろう。
わたしは聞かずには居られなかった。
「それで……わたしを治療していただけますか?」
少しだけ、懇願するような色が混じってしまった。
それだけわたしにとっては重要なことだった。
ーー体の改善。
それが、シンに頼りたいことだったから。
これまでにも、わたしはいくつもの薬や食事療法を試してきたのだけれどーー残念ながら、具体的な病名は見つからなかった。
原因が分からなければ、解決もできない。
生来の虚弱さは、西洋医学の力でも解消できなかった。
もちろん、熱冷ましや咳止めによって、何度も苦しみを救われてきたけれど。
そんななか一度目の人生で15歳になるころに、舶来の薬ーー生薬や漢方薬という乾燥させた植物などを調合して扱う不思議な人……シンと出会った。
ただ、そのときシンはその出自ゆえに、飢饉と不況で荒れる国内で、憂き目に遭っていた……。
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