第35話 記憶〜飢餓〜


 それほどわたしは真っ青な顔をしていたそうだ。




「いえ、どうか行かせてください」


「わかった。お前も公爵家の一人娘。公女としてこの苦境を受け止めよ」




 今向かっているのは、この苦境を思って、公爵家の私財を投じて開いた児童院だった。



 子どもたちの多くは、事故や病気で親を亡くしてここにたどり着いた子達だったけれど、最近は子を養えなくなった親が、知らぬうちに庭先に子を置いて去ってしまうことも何件かあった。



「お待ちしておりました。公爵さま、お嬢さま」



 院長は、公爵家の領地でずっと児童院に勤めていた50代の女性だった。



「マリア、礼を言う。この難しい状況で院長を引き受けてくれて助かった」



「もったいないお言葉にございます」



「わたしからも感謝を申し上げます。あなたの働きがどれほど大きいか。常々、父から伺っております」



「お嬢さま。むしろ感謝を述べるのはこちらです。アイリーンお嬢さまが送ってくださった衣服やキルトにどれほど助けられたか」



「ならば良いのですが……。他に困り事はございませんか?」



 わたしはこの児童院がたちあがったとき、自分のクローゼットのドレスを一斉に売りに出し、代わりにここにいる子どもたちのための服や靴をあつらえて送っていた。



 もともと外出が少ないから、ドレスや宝飾品も少なくて、たいしたお金にはならなかったけれど、少しでも足しになったらと考えてのことだった。




「公爵家からのご支援は充分すぎるほどにいただいています。ただ、強いて言えば、人手がいま最も足りていないものかと」



 マリアはしずしずとドアを開けて、児童院のなかを案内してくれた。


 温かみのある木の床は、忙しいなかでも履き清められているのだろう。



 靴下で走り回る子どもたちが怪我をしないように、家具も丸く角を削ってあり、動線を広くとっていた。




「ありがたいことに、公爵家のご支援によって、ここには食べ物も衣服も寝床も、冬になれば暖かい部屋で過ごすための薪もございます。


 贅沢はできませんが、死の恐怖に怯えることもありません。この場所に来るまでと比べたら、子どもたちにとっては、まるで天国のようなところでしょう」



「そうか……」



 あいづちを打つ父の声が決して明るくないのは、ここに来るまでの子どもたちの生活を思ってのことだろう。

 わたしも同じく胸がきゅっと痛んだ。



 きゃははっと窓の外から笑い声が聞こえて、目をやると庭を元気に子どもたちが駆け回っている。



 暖かそうなマフラーと毛糸の手袋をして、みんなで雪玉を転がして遊んでいるようだ。



「これまでにないペースで子どもの人数が増えているのが実態です。本来想定していた5割増しの人数を受け入れていますがーー。


 職員も無理がたたって倒れる者も発生し、私の至らなさを痛感しているしだいです。


 奉仕者だけでは間に合わず、急ぎ臨時の使用人も雇ってはみたものの、それでも綻びが生まれつつあります」




 マリアは痛みを堪えるようにそう言った。




 そのときのわたしは、彼女が口にした言葉の実態を、まさかすぐに目にすることになるとは思いもしなかった。




   ⌘ ⌘ ⌘




 訪問を終え、わたしたちは正門に横付けした馬車に乗り込もうとしていた。


 その時だった。




「ね、ねぇ……。なにか…恵んで……」




 正門の陰になっていたところから、か細い声がした。


 うっかり聞き漏らしてしまうほど小さな声。偶然気づいたわたしが振り向くと、そこにはうずくまる女の子がいた。


 わたし以上に細い、骨ばった手首。穴の空いた靴。まだきっと6つか7つくらいだろうに、目が落ち窪んで、ひどく衰弱していた。




「…………!」




 とっさのことに、わたしは息を呑んだ。


 児童院にいる子たちは、質素ながら清潔で温かな衣服を身につけているし、食事はきちんととっているから、子供らしい丸みを帯びた頬をしていた。




 けれど、彼女は全く違った。




 まともな食事を得られないまま、いったいどれほど過ごしてきたと言うのか。


 少女はわたしたちに声をかけてすぐ、足元をふらつかせ、ドサッと倒れてしまった。


 弾かれるようにマリアが動いて、少女に駆け寄る。さらにほかの職員とお父さまも。

 それに続くように、わたしはふらふらと少女に近づいていった。


 実際に飢えで苦しむ子を目にして、わたしは衝撃を受け、頭が働かなかった。




「なにをすれば…いいの」




 自分の物知らずが恥ずかしいほど、わたしは狭く温かい温室で生きてきたのだ。


 そして、わたしのつぶやきを耳にしたのだろう、職員のひとりが傷ましげに首を振った。




「恐らく助けるのは難しいでしょう。見るからにもうーー」


「…………」




 わたしは言葉を失った。


 父がかぶりを振って、馬車の方へと戻ってくるのが見えた。




「お嬢様、どうか覚えておいてあげてください。祈ってあげてください。苦しんだ子が安らかに眠れるよう。それが小さな魂にとって救いとなります」



「それしか……できないの?」



「……たとえば、これから命の危機にある子がなんとか児童院に辿り着いても、今ここに置いてあげられません。

 今日スープを一杯与えてやることならできます。でも、恐らく根本的に助けるのは難しいでしょう……」



「受け入れは難しいと?」



「はい、その通りです」



「この児童院では….」



「申し訳ございません……もう、保護できる人数を超えているのです」



「謝らないで。あなた方はよくやっているわ。わたしはーー自分の無力さを痛感しているだけなの」




 奉仕者はそっとわたしの肩に手を置いた。




「お嬢様がどれほど心を砕いてくださっているか、皆が知っています」



「でも……」



「最近こうしてやってくる子は何人かおりました。

 でも、もうこの施設には空いているベットもなく、すでにいる子どもたちも限界まで我慢して生きております。

 それにーーすでに過労で奉仕者が倒れはじめていて……」



「…………」



「お嬢様から見たら、なんと冷たいことと思うでしょう。けれど、この子のような飢えて死にかけている者ばかりです。わたしたちは、自分の手が及ぶ以上のことはできない……」




 ここにいる子たちにとって、天国のような場所だーー。

 そう言ったマリアの言葉が頭に浮かんで、弾けた。



 この場所に運よく自分の席を得られた子どもたちと、それすら叶わない目の前の子……。



 マリアや奉仕者たちは誠実だった。

 こうして公爵が訪問している時にも、取り繕わずに、いまの苦境を見せてくれたのだから。



 わたしはただ奥歯を噛み締めて、自分の無力さに震えるしかなかった。




   ⌘ ⌘ ⌘

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