第15話 記憶~夕暮れ~(2)
「それより君は怖くないの?」
「……なにが?」
「こんな訪問者が現れて怖くない?」
「あぁ……。我が家の衛兵は優秀だから、庭に入れたならきっとお客さまでしょう? 悪い人ではないんじゃないかしら。だから怖くはないわ。驚いたけれど」
「見た目と違って豪胆だね」
我が家の庭に入れたのだから、おそらく彼は来客として招かれたのだろう。
そうではなく、わたしに害をなすつもりなら、いまさら慌てても非力な娘など一捻りだ。
彼が死神だとしたら、ずいぶん生き生きしてイタズラ好きな死神もいたものだと思う。
いずれにしても、怖くはなかった。
「2階の窓から訪問するほどじゃないわ」
「それはご無礼を。申し訳なかった」
「ううん……。感動した。あんな身のこなしができるなんて!」
ふふっ、と彼は笑った。
「君は不思議だな、このくらい望むならまた見せてあげるよ」
「本当? 嬉しい」
彼こそ不思議と、悪い子とは思えなかった。庭先から急に窓辺まで侵入して来た相手なのに。
今も、バルコニーから中には許可なく立ち入らない礼儀正しさも、どこか品がよい立ち姿も印象的だった。
「ところで、あなたは誰? わたしはアイリーン」
「僕は……」
彼は困ったように眉を下げた。
「秘密なの?」
「…………」
どうやら事情があるようだった。
わたしはこの小さな訪問者を問い詰めるのはやめて、許してあげることにした。
このまま黙って見つめ合っているよりは、彼の話を聞いてみたいと、好奇心が刺激されていた。
「仕方ないわね――」
わたしが「名乗らなくてもいいわ」と言おうとしたときだった。
彼は沈黙を破った。
少し悩んだようにためらってからーーそっとあるフレーズを口にした。
「ーー『薔薇の花の名を、たとえ他の名で呼んだとしても、同じ芳しい香りがするだろう』……それでも、僕の名前は必要?」
一瞬わたしはあっけに取られた。
まさか名乗る代わりに、ある戯曲の『名前を捨てる』ワンシーンを引用してくるなんて。
その戯曲はここ数年、話題をさらっている気鋭の作家の作品だった。
敵対する家の子息と娘が恋に落ちる話。
そのなかでもとくに有名なシーンだ。
いま目の前にいる彼のように、子息が娘のベランダに忍び込む直前の独白。
家の名前などというものに縛られるよりは、体の一部ですらない名前など捨ててほしいと願うときのセリフ。
今、わたしたちは恋人どころか、初対面でしかないけれどね。
「……お互いに『仇敵どうしの家柄』なら、わたしはあなたの名前を知らない方がいいかもね」
わたしはクスッと笑って答えた。
「今はそういうことにしてくれる?」
彼はすまなそうに小さな声でそう言った。
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