第10話 ウィリアム(3)


 数年前から貴族の間で船旅が流行りだし、同時にいくらか水の事故が増えたと言う。

 だから貴族向けに製造された旅行鞄は、もしも船が難破しても、持ち主が助かるように浮く作りになっているのだそうだ。




「そうよ、その鞄は浮くから掴まって!」




 わたしは必死で叫ぶ。声が届いたのか、水の中でがむしゃらに振り回されていた細い腕が鞄に当たる。

 溺れていた少年が鞄に捕まったのを確認するやいなや、わたしは恥を捨ててワンピースを脱ぎ捨てた。




 そのとき、とても遠くの方でジェーンが「アイリーンお嬢様!?」とわたしを呼ぶのが聞こえた気がした。





ーーそれから、水の中では服が重りになってしまうから、できれば脱いで。





 記憶の中の彼の声がわたしに指示を出す。

 これほど脱ぎ着しやすい服装だったことを感謝したことはない。ちょうど、めまいを起こしたあとだったので、服をくつろげていたのも功を奏した。




「誰か来て! 王子が溺れているわ!」




 叫びながら水面に飛び込む。

 本当はわたしまで水に飛び込むのは愚かな行動だったけれど、大人の助けを待っていられなかった。




 居ても立っても居られない。




 命など、簡単に消え去ってしまうから。それをわたしは身をもって知っている。




ーー助けてもらうときは、人ではなくて、浮くものに掴まること。水の中で人を支えるのはとても難しくて、救助者まで一緒になって溺れやすいんだ。だから物に掴まって浮いたところを引っ張ってもらうんだよ。





 足がつかない池のなかで、必死で手足をバタつかせる。水は思いのほか冷たくて、この軟弱な体から熱を奪っていく。


 それでも、死にものぐるいで少年ごと鞄を押して、少しずつ岸辺に寄っていった。

 いくらか水を飲み、水をかく腕は思ったようには動かない。わたしまで溺れて死ぬかもしれないと思った。




 それでもいい。だから、せめてウィリアムを岸辺にーー。




 自分の愚かさや力の不足で、彼を救えないのだけは嫌だ。


 しかし、足掻いた意味はあったようだ。もう少しでわたしはなんとか足がつきそうだった。

 苔ですべりやすい水底に、爪先がかするのを感じた。


 その頃になると、わたしの叫び声に気づいた人々が岸辺に集まりつつあった。




「王子!?」


「王子がっ、ウィリアム様がっ」


「誰か毛布を!」




 侍女の悲鳴と叫び声が聞こえた時には、わたしとウィリアムはすでに浅い岸辺まで辿り着いていて、最後は駆けつけてきた護衛騎士に支えられながら水辺を離れた。




ーーでも、何より危険に晒されないのが一番だ、アイリーン。




 記憶の中の彼は、静かにそう締めくくった。


 いまのわたしの行動は、彼が教えてくれた知識があったからできたことだった。




 彼ーーわたしの大切な人。1度目の今日に、弟を水の事故で失ってしまったエドワードに。

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