第9話 ウィリアム(2)


 あの悲劇は、今日この日に起こった出来事のはず。




 わたしは衝動に駆られた。

 今のあの水音!

 あれが池に落ちた音なら、今すぐウィリアムを助けなければ!




 橋桁が邪魔でよく見えないけれど、水面が小さく不自然に波を立てているように思える。




 侍女たちは向こう岸。あそこまでは誰よりもわたしが近いーー。




 わたしはとっさに目の前の旅行鞄を掴んで、中身をばら撒いた。

 突然街中でそんな行動をしはじめた少女をみたら、かんしゃくを起こしたのかとおもうだろう。




 けれど、わたしには考えがあった。




 侍女たち以上にこの非力な体でも、ウィリアムを救うことができる、唯一の方法……!

 報道では、大人の女性であるメイドや侍女ですら、ウィリアムを引き上げることは難しかったと読んだ。



 ならば、今はこれしかない!




 わたしは空っぽになった鞄を抱え、祈りを込めて呼びかけながら橋へと駆ける。




 「殿下っ、ウィリアム殿下!!」




 大声をあげることなんてないから、声はかすれて大して響かなかった。

 それでも、大人達に気づいて貰わなければ!

 どう見えるかなんて、気にしていられなかった。



 たった数秒が何倍にも引き延ばされたように、奇妙に間延びして感じられた。



 駆けていく一歩一歩に時間がかかる。


 地面を蹴って次の足を差し出す。


 必死で腿に力を入れているのに、走り慣れていないわたしの体は、ほとんど歩いているのと変わらないような速度でしか進まない。



 急いで! 急いで!

 呼吸が苦しい。


 どくん! どくん! どくん!

 自分の心臓がうるさい。


 ハア! ハア!

 自分の呼吸音すらうっとうしい。



 しだいに水面が近づくにつれ、パシャパシャと音を立てるのが微かに聞こえて……池の中から、足掻いては沈む子どもの腕がちらりと見えた。




(まだ意識がある!)




 ウィリアムかは分からないけれど、少なくとも誰か子どもが溺れているーー!




 その事実はわたしの背中に冷たい怖気を走らせた。

 いまわたしが役に立たなければ、命が消える可能性があるのだ。



 だが、同時にまだ今なら救える可能性があるということでもある。


 子どもの腕が出たり沈んだりしている水面は、ちょうど岸辺からは陰になって見えにくい位置。


 橋の中央あたりから落ちたようだった。


 彼の位置を確かめると、わたしは全力で振りかぶってーー鞄を池に投げ込んだ。




「つかまって!」




ーーこの旅行鞄は浮き代わりになるんだ。




 彼(・)の落ち着いた声が思い出される。

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