エピゴーネン
汐見悠
第1話
君は小説家になりなさい。
八歳、夏。僕の遠縁の親戚であるらしい初老の男性は、チラシの裏に架空のおとぎ話を拙く綴る僕の肩を優しく掴み、そう言った。
「なに、それ?」
「本を書く人のことさ。君はいい目をしているから、向いている。本質を捉える目だ。きっと良い小説家になる」
まだ幼かった僕は「小説家」という職業も、本質を捉える目という先生の言葉も分からなかったが、傍でお茶を出しながら「もう、やめてくださいよ、先生」とやけに甘ったるい声でいた母のことは覚えていた。どうやらその「先生」は著名な作家であったらしく、帰りの車で母は何度も、「君は小説家になりなさい」と同じ言葉を僕に浴びせた。
僕はその最中、ずっと、「冗談じゃない」と思っていた。この言葉もまた本から学んだものだ。僕は昔から本が大好きで、母に気味悪がられたことも少なくはなかった。だから母が「小説家になりなさい」と僕に言ったとき、言いようもない不快感を覚えたのだった。
それ以来先生に会う機会はなくなり、僕は先生のことを半ば忘れかけていた。もちろん、小説家になりなさい、という言葉も同じように忘れていた。僕の誕生日の日、先生から電話がかかってくるまでは。
挨拶の言葉も無しに切り出されたそれは、「一緒の屋敷に住まないか」という、何とも妙な提案だった。
「もちろん強制はしない。しかし私は本気で、君に小説家を志して欲しいと思っている」
受話器の向こう側で、先生はそう続けた。
正直言って、この申し出には困惑した。というのも、先生との接点はあのとき以来全くなかったし、ましてや僕は小説家になる気などさらさらなかった。
それでも、先生の提案を受け入れることにしたのは、偏に先生の声音にあった。
先生の話し方はどこか独特で、聞いているだけで心が落ち着くような不思議な声をしていたのだ。まるで水底にいるように心地よくて、いつまでも聞いていたくなる。そんな声だった。
とは言え、結局最後のひと押しは母の強い勧めにあった。
母のそれは勧め、というよりはほとんど強要のようで、そのあまりの圧に僕は「行きます」と返事をせざるを得なかった。
そんなこんなで、僕は先生の屋敷に住み着くことになった。十歳になったばかりのことだった。
◇
屋敷は大きく、四方は鬱蒼と茂る緑に囲まれていた。
「好きなだけ書いていいからね」
と、先生は僕にこれまた広い書斎を丸ごと与えた。家事のほとんどはお手伝いさんが担当しており、僕の仕事は本当に文章を書くことだけだった。
頭に流れてくる映像を、美しく醜く、慈愛を持って書き綴る。一つも、一人も取り零すことのないよう気をつけながら。物語を紡ぐのは好きだったし、屋敷での生活は快適なものだった。ただ一つを除けば。
先生は僕に、書いた文章を先生以外に見せることと一切の読書を禁じた。
先生は僕の文が世に出るのを異常に恐れているようだった。何故? と尋ねると、「他人の思想に影響されない者などいない。君の世界が汚されてしまっては取り返しがつかない」と言った。読書ができないというのは些か窮屈にも感じたが、その分書き続けることで退屈からは逃れられたし、それでよかった。
また、先生はこうともよく言った。
「植物と同じで、養分を与えられなかった才能は腐るだけだ」と。「持っている」者にはそれなりの責務があり、持たざる者の分まで成果を返還しなければならない、と。
「私は君の文章を真っ当に評価している。君は自慢の『息子』だ。その才が羨ましいくらいだ。だから、腐らせてはいけない。絶対に」
屋敷での生活は何事もなく進んでいった。
高校の歳になって、僕は先生の元を離れることを決めた。そろそろ自立してみたくなったというのもあるし、このままでは一生大人になれないような気がしたのだ。郵便で取り寄せた高校のパンフレットを見せ、夕食の席で先生と話をした。
「文芸科に進みたいんです」
そのときの先生の顔は、どんな言葉を用いても形容できないものだった。期待、失望、諦め、焦燥、それら含む幾多の感情を雑に混ぜ込んだような、今までに見たことのない顔。
学科に拘りはなかった。ただ僕は普通の勉強はからっきしで、文章が人より上手い以外にできることなどなかったから、自然と文芸科に丸をつけていたというだけだ。
先生はしばらく黙っていたかと思うと、重く閉ざしていた口を唐突に開いた。乾いた唇の皮が剥がれる音を引き連れて。
「時に、圧倒的な才能は己の首を絞める」
深く、しゃがれた声だった。
「君は才ある者だよ。だから、君のせいで誰かが手を止めるなんてことがあってはいけないんだ」
安楽椅子に腰掛けた先生の瞳は、僕を見てはいなかった。もっと背後の、何か違うものを僕に重ねて見ているようだった。
「やめておいた方がいい。誰かが自分のせいで筆を折るとして、文学を愛する君がそれに耐えられると思うか?」
「……分かりません。ですが、此処で立ち止まるのも耐えられないんです」
先生と僕、お互い薄々感じていたことだと思うが、近年の僕たちの間には明らかな考えの食い違いが生じ初めていた。それは齢十歳の頃から映像を書き写す機械として育てられてきた僕に遅く自我が芽生えたからだろう。先生のことは今も尊敬しているし、僕の才を育ててくれた分頭が上がらない。けれど、それと屋敷の中で終わることは全く違う。
説得は何ヶ月にも及んだ。結論、先生は折れた。ある二つの条件と引き換えに。
一つ目は、今までこの屋敷で書いた物語を全て置いて行き、外部に持ち出さないこと。
二つ目は、高校に進んでも決して本を読まないこと。
僕はその条件を飲んだ。屋敷を出る最後の日、先生は見送りにこなかった。
◇
文芸科は生徒数が六十名と少ない。僕は試験に特待生として合格していたからか、入学早々クラスの中で浮いていた。別に不快ではない。噂話の渦中に置かれるだけで僕自身には何の損害もなかったし、元から友達を作る気力も薄かった。僕はただ、創作に最適な環境下で平穏に過ごせるのならそれでよかった。
「お前、特待生なんだって?」
突然声を掛けてきた彼は全体的に色素が薄い、端正な顔立ちをしていた。不健康そうな見た目に反して声は溌剌としていて、ざわめきの中でもよく通った。僕は驚きつつ、「そうだよ」と返した。
すると彼は自分の名を名乗り、あろうことか「友達になろう」と言った。今まで先生の名を通して僕に近づいてきた人間は数人いたけれど、彼にはそのような汚さが感じられなかった。至って純真、純粋。僕は差し出された手を取った。
初めての友達。同年代の人間というのは一緒にいて非常に心地の良いもので、先生以外とほぼ会話をしてこなかった僕にとって、非常にみずみずしい感覚だった。
それ故に、僕が彼に対して友人以上の気持ちを抱くのにそう時間はかからなかった。
僕は彼しか友達がいなかったが、彼は持ち前の明るく社交的な人柄を武器に数多の人間関係を構築していた。それは文芸科のみならず他学科まで及び、彼がそれらの生徒に呼び出されたり昼に誘われたりしたときは、僕は黙って身を引いた。彼の迷惑になってはならないと思ったし、今更一人も苦痛ではないと、そう思っていた。
しかし一人の食事は虚しく、僕だけ知らない世界の中にぽんと放り込まれたような孤独感に苛まれた。これにはぎょっとして、僕は、彼の存在の大きさを思い知らずにはいられなかった。彼は僕が十数年飼い慣らしてきた穴を一瞬にして塞いでしまったのだ。
「本って面白い?」
教室へ向かう長廊下を歩きながら問うと、彼は「はあ?」と大袈裟に声を上げ、ぴたりと立ち止まった。
「面白いに決まってるだろ。なんだ、今更?」
「いや。僕は、僕以外の書いた文章を読んだことがないから」
正直に答えると、彼は顔を歪め、怪訝な表情を浮かべた。無理もない。文芸科の生徒は昔から大層な読書家で、それを突き詰めた結果自分も書くようになったという生徒がほとんどだ。良い文章を書くには良い文章を読んでこそだとは、教師も日頃から口酸っぱく言っていた。
「本を読んだことがないのか?」
「先生に禁止されてたんだ。ちなみに此処に来るまで、文章を誰かに見せたこともない」
「どうして」
「僕は僕の才能を、世界を、腐らせちゃいけないんだ」
才能、という言葉は、僕が口にするのと先生が口にすることでは全く重みが違っていた。その響きは僕の口から出た途端、輝きを失ってくすんでしまうように思えた。
先生は僕が本を読みたがるたび、何度も何度も同じことを言って聞かせた。先生の元を離れ、この言葉を聞かなくなって数年が経つけれど、自己暗示のように思い出して唱える癖がついていた。
「それなのに、あんなに奇麗な文章を書けるのか。才能があるんだなあ、さすが特待生」
そう締め括って、彼は勝手に納得したようだった。
彼は、僕の文章を何よりも、誰よりも早く読みたいと常に訴えていた。僕もそれに応えたいと、いっそう創作活動に励んだ。周りの評価よりも、何よりも、彼にいい姿を見せたかった。彼は元から僕を尊敬の目で見てくれてはいるが、まだまだ足りない。
僕は他の生徒と違い踏んだ場数が少ないから、他人に文章を見せることに少しばかりの躊躇いと怯えがあった。けれど、もっと自分を飾りたい、よく見せたい気持ちは留まることを知らないものである。そうして僕の綴ったそれらは、一つ残らず奇麗に彼の脳内へ収められた。
その日もまた真夏の空気が踊る教室で、暑さに煮えた頭から物語を引っ張り出す作業に勤しんでいた。
幾ら思考しても埋まらぬ四○○字詰めの原稿用紙をボールペンの先でかつかつと叩きながら、僕は頭の中で流れる映像をより鮮明に視ようと目を瞑る。
彼はもう短い話を一本、書き上げてしまったようで、あまりの猛暑に「あー」とか呻き声を発しながら、ある一冊の本を読み耽っていた。そのあまりの熱中ぶりに僕は手を止め、彼に問うた。
「何読んでるの?」
「好きな作家のシリーズ最新刊」
「へえ。面白い?」
「面白いよ。めちゃくちゃ面白い。丁度いいからお前も読みなよ」
「でも……」
「いいから。『先生』だっけ? どうせ此処にはいないんだしバレないよ」
彼はその本を閉じ、こちらに向けて差し出した。ずっしりとした厚みのあるそれを受け取り、試しに適当なページをひらいた。異界の扉を開けるように、丁寧に。
他人が、僕以外の人が紡ぐ生き様が、活字に姿を変えてびっしりと並んでいた。日焼けしたページをまた一枚、はらり、ほろりと捲ってみる。初めて本を、物語を辿る行為は、楽しいなんて安直な言葉では表せないものだった。
しばらくして、僕はハッと目を見張った。
代わり映えしないクリーム色の上。そこには規則正しい文字の列で表されている、ひどく見知ったシーンがあった。
人差し指で、件の一文をなぞる。当然、インクが手に付着することもせず、紙面に何も変化は起きない。
最初に抱いたのは、どうして、という疑問だった。
どうして。
どうして、僕はこのシーンを知っている?
否、此処に限った話ではない。よく見ると、その前も、また更にずっとずっと先の文章まで、頭の片隅には「当時」の感覚が残っていた。僕は、この最新刊の続きを知っている。パッと本を閉じ、無意識で作者を見る。
「……生……」
思わず掠れ出た声に、自分でも驚く。しかし、そんなことを気にしている暇さえなかった。分厚い本の中身と重厚な刻印で描かれた作者の名前、それから傍らの彼の態度とを照らし合わせて、脳裏でパズルの完成する音がした。
僕は本から顔を上げた。視線の先にいる彼は窓の外に視線を向けている。
「……君は、この作家が好きなの?」
薄ら笑みを湛えて問う。「そうだよ」と彼が答えた。
「どれくらい前から好きなの?」
「ずっと前から。急に作風が変わった時期もあったけど、今も昔も、その先生の全部が好きだ」
彼は笑った。自分の好きについて話すその顔は本当に幸せそうで、僕の心にはまたいっそう影がさした。
ふと、いけないことを考えた。
僕が今、此処で、「その本の真の作者は自分だ」と打ち明けてしまえば、彼は僕をこれまでとは違う目で見てくれるだろうか。羨望とも尊敬とも違う感情で、僕と対等な位置に立ってくれるだろうか。彼の特別になれる可能性が少しでもあるならば、僕はそれに賭けてみたいと願ってしまう。
「実はさ」
照れたように両手の指どうしを絡めたり解いたりしながら、囁くように僕に語り掛ける。
「お前の文章が好きなのも、きっと、文体がどこか先生に似てるからなんだ」
嬉しくない告白だった。
僕は遂に決心した。意に反してつり上がってゆく口角をどうにか制御しながら、必殺の一言を放つ。
「僕、その本の続きを知ってる」
「は?」
「その先生は嘘つきの悪い奴だよ。僕が――僕だけが本当のことを知ってる。教えてあげようか?」
もちろん二次創作なんかじゃない、正真正銘の「本物」だ。嘘だと思うなら、この先に出る新刊と僕の話を照らし合わせてみればいい。
僕は彼を少し試してやる気持ちで、その顔をのぞきこんだ。
次の瞬間には、彼は前のめりになって僕の話に聞き入ってくれる。そして、すごいね、などでは収まらないくらいの賞賛と賛美を投げつけてくれる――そう確信していたものだから、右頬に走った痛みに、僕の思考は追いつくことができなかった。
打たれたのだ、と気付くのに時間がかかった。
「最低」
僕への呪詛の言葉は、しゅわしゅわと煩い求愛の声に掻き消されそうなほど細かった。
「いくらお前の文章が奇麗だからって、先生が素晴らしいからって、馬鹿にしていい訳が……」
何故、も、どうして、も今更だったが、ただ一つだけは明確に分かっていた。それは、全てが終わりなのだということ。
荷物をまとめて、まだ授業中だというのに、彼は空き教室を飛び出して行ってしまった。その背中を見送りながら、僕の口から不格好な笑い声が漏れる。僕は笑うことの類語に詳しくはないが、自嘲で間違いない。僕は嫌われたのだ。
結論だけが、僕の心を覆い尽くした。それは致命傷に他ならなかったが、まだ僕の生命を断ち切るには至らず、ただただ痛みを与え続けた。いっそ殺して欲しかった。
僕の人生の終幕は、やはり先生の言葉を借りるならば「腐る」ようなものではなく、読んでもらう前に終わってしまった。
屋敷を出る際に言われたとおり、才能が僕の首を絞めた。
けれど、先生、それはアンタも同罪なんじゃないのか?
それなのに、一度は完成したと思っていた僕の物語は完成に至らず、無様にも打ち棄てられてしまったのだ。
空虚感。
穴が開いて、そこから冷たい風がひゅうひゅうと通り抜ける。彼が去ってしまった今、もう僕の空虚を埋めるものは何も残っていないのだ。僕は先生にとって誇れる弟子じゃなかったかもしれない、とさえ思った。だって今こうして、僕の大切な読者である彼を失ったのだから。
僕はしばらくその場から動けず、ただ窓の外を見つめていた。
空の色は、僕の知るものではなかった。
エピゴーネン 汐見悠 @403Yuu_
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