第3話「聖母マリアもキリストを出産する時は助産師に頼った」

 厳しさの残る透明な冷風は白頬や脚を撫で、喜嬉ひさきの身を縮こませる。

 先程買ったコーヒーを片手にコーヒーショップ前で待ち続け早二十分、既に中身も半分を切っていた。


 もしかして騙されたんじゃ……。


「あっ……」


 一抹の不安を抱いていると駐車場に入って来た水色の車が目の前で止まり、中から一人の好青年が顔を出してきた。


「朝七時、ちゃんと来たな。偉いぞ」

「そりゃ……大金掛けてるんで」


 客に敬語すら使わない目前もくぜんの男に嫌気が差すも、眠たげな様子で喜嬉は助手席へと乗り込んでいく。


「小心者は時間通りで助かる、それじゃあ行こう」


 嫌味混じりに言葉を発しながら、二人はコーヒーショップを後にする。

 まだ早朝ということもあって人通りや車両も少なく、欠伸あくびを洩らしながらも戯賀きしげは呑気そうに運転を続け車内には重たげな沈黙のみが流れていた。


 喜嬉は昨日の夜で戯賀が嫌いになっていた。

 と絶望し、大金を持ち出してまで依頼した男に自分の頭部を本で何度も打ちつけられたのだ。

 最低最悪なもう一つの人格と入れ替わった際に、自分が彼に何かしていたのかは明々白々だとしても──性格的にも発言的にも、失礼極まりなく社会人としての常識が欠けている戯賀ほど喜嬉が嫌いになるタイプの人間は他にいない。


 赤信号で停止すると戯賀はスマホを弄りだし、慣れた手つきで操作しながら青信号になると同時に画面を押しだした。









『Boooooooooooooooooooooooooooooon‼ avavavavavavavavavavavavavavavavavavavavavavavavavavav」


 突然車内に響きだす『発狂』という言葉に合った超絶暴音。


 爆発するかのような暴走気味の演奏。狂ったかのように生肉をむさぼる歌声。歌詞なんてあるようで無い、頭と耳が祖切そぎれ落ちそうな悪夢の上位互換。

 それを流しているのは無論むろん巫山戯賀、彼は口角を上げながら「良いねぇ……」とこの悪魔の曲を称賛しているのだ。


「ちょ、ちょっと! ちょっと‼ 止めてくださいソレ‼」

「え?」


 喜嬉は両耳を塞ぎながら訴えかけるも何を言っているのか伝わらず、彼は呆けた様子で音量を下げた。


「何?」

「その曲何なんですか⁉ 怖いんですけど‼」

「ファニーゲームの最初に流れるNaked CityのBoneheadだけど、映画見たことない?」

「知りません! 悪いですけど朝からそんな頭のおかしな曲聞きたくないです!」

「……わかったよ」


 不服そうに音楽を切り車内に再び沈黙が戻ると、戯賀は顔を上げ一つの看板を目視する。


「んじゃま、ファミレスでも行くか。そこでどうするか決める。朝飯も食ってないし」

「……ファミレス」


 小さな声で復唱した喜嬉を尻目に、車や人が増えてきた道なりをファミレス目掛け突っ走ってゆく。


「ファミレス行ったことないの? もしや」

「いえ……大学の友人と二、三回ほど……」

「全然行ってねーじゃん」

「まぁ……あまり良い所でもないですし……」

「ファミレスに良い悪いもあるかぁ? …………?」


 返答が無く不思議そうに喜嬉を一瞥すると、彼女は寡黙かもくとしてフロントガラスから流れる風景ばかりを凝視していた。

 何かが途切れたかのように落ち着いた喜嬉を観察して、戯賀はアプリを起動し再びを流しだす。


 耳を抑え、再び怒りだすかと思いきや──爆音が流れた瞬間、彼女の双眸は綺羅綺羅きらきらときめきだし、少々驚いた表情で戯賀に問いかけだした。


「こ、これ! ファニーゲームの冒頭で車の中で流れる曲ですよね⁉ 戯賀さん!」

「うん」


 アッサリとしながら答えると打って変わり、喜嬉は満面な笑みでこの狂った曲に耳を傾けていた。


 その嬉々とした姿を見て、戯賀は心底嫌そうな表情で溜息を溢してしまう。


 戯賀は昨日の夜で暗殺対象いまの喜嬉が嫌いになっていた。

 依頼者の喜嬉に対しても好印象はないが、人の話も聞かず一方的に気持ちばかり押し付けてくる隣の精神異常者は頭痛の種でしかない。


「私の為に好きな音楽を掛けてくださるだなんて、まるで鎮魂歌……あなた様への思い、墓場まで持って行きますわ……」

「んんんんっ……」


 ──早くこの人格コイツを何とかしなきゃ……。


 ※


 二階建てのファミレスに着き、車から出た瞬間──突如とつじょ喜嬉はバランスを崩し倒れる寸前にサイドミラーに右手を掛け、一驚いっきょうとして辺りを見渡しだした。


 ──何となく、二つの人格ってやつがわかってきたな。


「よっ、おはよ」


 呼吸が乱れていた彼女に手を差し出すも、喜嬉は意地を張り一人で立ち上がる。

 頭を抑えながら車でファミレスの話をしていた記憶までしか無いことを再確認すると、弱々しくも戯賀に視線を向けた。


「私……どうなってました?」

「別にぃ、さっきの曲もっかい流したら興奮してた。それ以外は特に何も、落ち着いてたし」

「はぁ……趣味が悪い……」


 遠回しに馬鹿にされながらも戯賀は前を先導し、喜嬉は二階への階段を上りながらレンガで出来た洋風な外装を物珍しさそうに見物する。


「『スペース・ランナウェイ』……変な名前、どの辺りが宇宙?」

「タイトルに乗っているのに出てこないクソ作品と同じだから気にするな。

 別にチェーン店でも無いし有名じゃないけど美味しいよ。モーニング安いし」


 そう話しながら店の扉を開けると、戯賀は突如しゃがみだし──喜嬉の顔面を覆いかぶさるようにしてが直撃した。


 リアクションも取れぬまま顔から剥ぎ取ってみると、それはだった。

 顔中にケッチャプやチーズが付着した状態でいると──遠くから「おい!」と低い声で呼びながら三人のスーツを着た男性は二人を睨みつけていた。


「ここじゃ、原作のドラゴンボール好きしか歓迎しねぇんだよ!」


 「そうだ」と続けて二人の男が便乗し、非歓迎ムードが早朝のファミレスを包み込む。


「おい祐一ゆういち、何もしてねぇだろ」


 するとキッチンから店主の男性が出てきて、彼を諭そうと話しかけた。


「うるせぇ! 俺は朝から真面目に勉強しようとする奴が昔から嫌いなんだよ! 学生は朝まで飲んでなんぼだ!」

「いいから仕事行けよ」

「ハァッ⁉ 仕事は一週間前にリストラされて、嫁に嘘つくためにここで時間を潰してるんだが⁉」

「「そうだ」」

「じゃあなんか頼めよ」

「金ねぇよ!」

「「そうだ」」


「ちょっと!」


 中年男同士の口喧嘩の中、うら若き女の甲高い怒号が響きわたる。

 堪忍袋の緒が切れ、喜嬉は拳を震わせながら怒りのままに声を張り上げてゆく。


「ちょっと! こちらへの謝罪の言葉が──ねぇ、おじさま? 私……舌に触手飼ってるんですのよ? 見てみますぅ?」


 怒りに任せたまま、むさ苦しい会話へ割り込んでいくと突如人が変わったかの様に変貌へんぼうし──喜嬉は小さく開けた口に人差し指を差し、面妖な声色で双眸を細めだした。


 へと人格が変わった事に気づき、戯賀は──




「え、何それ見たい」


 あどけない口調で彼女の口内を観察しようと前に回るが、スーツの男に退かされてしまう。


「マジかそれめっちゃ気になる、見せてみろガキ」


 口に飼っている触手は見事みごと男の興味に刺さり、大きく開けた喜嬉の口を怪訝けげんそうにしながらも覗き込んでゆく。




「──なっ⁉」


 そこら辺に散らばっていたチーズを踏み足を滑らせると──喜嬉は男の足元を引っ掛けるようにして蹴り上げ、すかさず店の扉を開けだした。


 姿勢を崩した男は開いた扉からそのまま退店していき、手摺てすりに掴まる余裕もなく階段を転がり回ってしまう。


 一階まで落ち終えた彼の首は不可思議なことに曲がっており、後頭部から血の池を作ったまま動かずにいると彼のもとに何処どこからともなく中年の女性が駆け寄り──


「あなたぁぁぁ! どうして! 仕事に行ったんじゃ! だ、誰か! 救急車ぁ!」


 と絶叫する姿を一瞥しながらも、戯賀たちは良い席を探しに行った。


「ねぇ、本当に舌に触手飼ってるの?」

「えぇ……見ますか?」


 生唾を飲み、けたたましい心音すらも忘れ、片目で深淵を覗き込んでゆく。



 が、途中で眉をほそめ、勢いよく喜嬉から体を離してしまう。



「ハッ、もうその手に乗るかよ!」


 少年時代にトイレ掃除のおばさんにキスされかけた事を思い出しながら、戯賀は掌で唇を隠した。

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