01.雪花の使者
01-1.少年、あれが龐樹か
明け方に降った雪が朽葉にうっすらと積もっている。秋の終わりを告げる初雪だった。
人の声が聞こえた気がして、
雪を降らせた雲はすでに去り、白樺の森には朝の光が行き渡っていた。わずかに残る木々の葉が触れるだけの風にはらりと落ちる。視界がひらけた空を三羽の鳥が横切っていった。
愛馬の
由稀は三碓から下り、首を撫でた。
「すこし待ってて」
手綱を木の幹にくくりつけて、鞍に引っ掛けていた長銃の革紐を肩に掛ける。もう一度三碓の首と、名前の由来になった額の白い模様を優しく掻いてやると元気よく尾を振った。由稀は行ってくるよと囁いて、雪と落ち葉でぐずぐずとしたぬかるみを慎重に、足早に進んだ。
声は遠いながらも、かすかに聞こえていた。男か女かはわからないが、まだ若い。
森の東側には街道が敷かれている。
かつては参拝者が途切れることなく、多くの露店が並んでいたというが、いまや往時の面影はどこにもない。由稀が幼いころには、閉ざされた龐樹をひとめ見ようと訪れる人もいたが、毒を吐き出していると噂されるようになってからはめっきり減ってしまった。巡礼者は経路から龐樹を省くようになり、日々の祈りには地域の
白く閉ざされてしまった龐樹を訪れる理由など、ほとんどの者にはないのだった。
採集、農耕、製鉄などが禁じられていた龐樹のために、周辺にはいくつもの村が点在していたが、ひとつ、またひとつとよそへ集団移住してしまい、残っているのは由稀が暮らす村だけになってしまった。由稀は毎朝三碓とともに森と街道の見回りをしているが、不審だとか、知らない顔とかではなく、そもそも人と行き合うことがなかった。
初めてだ、と由稀は固唾をのむ。
巡礼者や商人ならいい。だが盗賊やならず者が由稀には思いもつかないような悪事のために押しかけたのだとしたら、はたしてどう対処するのが正解なのか、由稀はわからずにいた。
木々のあいだから森の外が見える。そのころには、はっきりと声が聞こえるようになっていた。
「おい、ふざけんな! 勝手に先に行くな! おい!」
由稀は木陰に身をひそめて、耳まで覆う帽子をさらに目深にかぶり、じっと息を殺した。街道に、背の高い人の姿があった。膝まで届く外套を頭からかぶり、道の半ばで立ち止まり、じっと龐樹の方角を見つめているようだった。外套のふちから、淡い金茶色の髪と端正な鼻梁が覗く。
(
しかし由稀が知る還り子よりも、灰色がかった髪にも思えた。
(
どちらにせよ、知らない顔だ。村や龐樹に危害を加えるようなことがなければそれでいいが、そうでない場合のことを考えて、由稀は肩にかけていた革紐を手に取り、そっと長銃を構えようとした。
だがそれは結果として叶わない。
目が、合ってしまった。
「うそだろ」
まるで、やがて銃口が向けられることを察したように、外套の人物は由稀をまっすぐ見据えたのだった。
由稀は動揺して、とっさに立ち去ることができない。
外套の人物は男だった。年の頃は二十代半ばか三十ほど。まだすこし距離があるせいではっきりとしなかったが、奇妙なことに髪と瞳の色彩が異なっているようだった。
(外套のせいか……?)
そんなことを由稀が考えていると、男は腕を上げて前方を指差した。
「少年、あれが龐樹か」
やわらかくて冷たい、落ち着いた声をしていた。先ほどから聞こえる大声とは似つかない。つまり彼のほかに、少なくともあとひとり近くにいることになる。
由稀はほんの一瞬逡巡したが茂みから立ち上がり、街道へと出た。
「そうだよ」
「だったらその上にあるのが
男は聞こえづらそうに眉をしかめて、外套の頭巾部分をおろした。深緑の眼差しがふたたび由稀へ向けられる。草木の緑とも、水辺の緑とも異なる、他にはない不思議な色だった。視線がすこし揺れるたび、黄や青や赤のかすかな閃光が散る。憂いのある眼差し、薄い頬、細筆でさっと掃いたようなすらりとした鼻梁、わずかに油断のある唇と上がった口角など、髪の先にいたるまで瑕疵のない整った姿は、とてもこの世のものとは思えなかった。
由稀は返事を忘れて、あらわになった男の端正な顔立ちに思わず見入ってしまった。
「どうなんだ」
重ねて問われ、由稀は我に返る。
「あ、ああ。そのとおりだよ」
そう答えてから、由稀は鼻先から首もとまでを覆っていた襟巻きをゆるめた。にこやかな微笑みを心がけながら、指先は長銃の引き金を確かめる。
「いまどき見にくるやつなんているんだね。いい歳して龐樹と天水をわざわざ確認しなきゃならないやつが、とても信心深いようにも思えないし」
由稀は一歩男に近づいて、彼の涼やかな眉間に銃口を向けた。
「何者だ。還り子かと思ったけど、そうじゃないな」
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