君のいない明日の香り
冬灯叶
君のいない明日の香り
一。
アラームの音で目が覚める。カーテンを開けて太陽の光を浴びる。顔を洗って朝ごはんを食べる。今日は燃えるゴミの日か、なんて考えながら。
そうして今日も僕の日常が始まる。
こんな代わり映えのない日常はいつから始まったのか。思い返すのでさえ面倒臭い。学校終わりに母が入院している病院に行くのも慣れたものだ。シングルマザーとして僕を育てていた母は元々体が弱かったのも相まって、僕が中学生の時に倒れた。それから数年経った今、僕は高校二年生になった。まだ母は入退院を繰り返している。 別に何かの病気というわけでもないし普通に会話だってできる。ただ体力が全くと言って良いほど無い。日常生活にも支障をきたすほどだ。僕がいない間はほとんど寝ているか、たまに看護師さんに車いすを押してもらいながら散歩をしているらしい。らしいというのはその光景を僕は見たことがないからだ。心配をかけないようにと思っているのか、僕が母を訪ねる時はいつも起きて笑顔で迎えてくれる。別に無理をしてほしくないから寝てもらって構わないのだが。
コンコンコン
控えめにノックをして母のいる病室に入る。六人用の共同病室で、使っているのは母ともう一人の女性だけ。カーテンの仕切りもあるが一応礼儀としてだ。
「こんにちは、蒼汰くん。今日は少し遅いのね。」
「佐伯さんこんにちは。文化祭の準備があって。」
文化祭か~花梨も準備があるって言ってたわね、と言っているのは高校一年生の娘を持つ、もう一人のこの病室の患者さんだ。佐伯さんも母ほどではないが長い間入院している。そのため割と仲は良く、このようによく話しかけて下さる。ついでに母が日中どのように過ごしているのか教えてくれたのも佐伯さんだったりする。短い会話を交わしながら佐伯さんの前を通り過ぎて母のベッドに向かう。
「母さん来たよ、昨日ぶり。調子は?」
「毎日毎日ありがとね。今日も変わらず元気よ。今すぐにでも働けるくらい。」
そういって力こぶを作って見せる。
「はいはい、僕もバイトしてるし大丈夫だよ。」
そう返すと母は眉尻を下げて力無く微笑む。
「ごめんね、無理させてごめんね。」
——あぁ、まただ。
「ごめんね。」という言葉はいつしか母の口癖になっていた。高校生になって僕がバイトを始めたのを知ると「ごめんね、ほんとにごめんね。」と何に対してかも分からない「ごめん」という謝罪を並べるのが増えた気がする。そんな時僕はどうしたら良いのかいつも分からなくなる。何と返すのが正解なのか、どうしたらもう母は謝るのを止めてくれるのか。だからいつも僕はそんな謝罪は無視して母に今日の学校での出来事を話す。
二十分ほど話すと、今日はもう遅いからと家に帰るよう言われた。確かにこれ以上いるのは母の負担になりかねない。僕はその言葉に素直に従って病室を出た。もう時間も遅いからだろうか、いつもなら面会に来た人がもう少しいるはずだけど…なんて考えながら人の少ない廊下を歩いていると、斜め前を歩いていた人が急に手すりにつかまってうずくまった。何が起こったのかよく分からずに固まっていると、その人から発せられているのだろう、えずく声が聞こえて我に返る。幸い吐いてはいないようだ。急いで駆け寄って大丈夫ですか?と声をかけたは良いものの、何をすれば良いか分からず看護師さんを呼ぶべきか、などとあたふたしていると
「大丈夫です、ありがとうございます。」
と言って少し青い顔でよろよろと立ち上がり、その男の人は歩いていこうとする。
「え、ちょ、まっ、待ってください、心配なので病室まで送ります!」
患者衣を着ているためこの病院の患者なのは間違いないのだろうが、
「いえ、慣れたことなので。」
とはっきり断られてしまえば流石にそれ以上食い下がることもできず、フラフラと覚束ない足取りに心配になりながらもその背中を見送った。
次の日も文化祭の準備で母の元へ行くのが遅くなってしまい、また二十分ほど話すと病室を出た。そういえば昨日の人はあれから大丈夫だったのかな…なんか見覚えのある顔だったような…?と考えながら廊下を歩いていると前から歩いてくる若い男の人を見て、あ!と声を上げてしまった。昨日よりも人の少ない廊下では自分の声がやけに響いて咄嗟に手で口を覆う。その声に反応してこちらを見た男の人は今思い浮かべていたその人だった。しっかり視線が合って気まずくなり、昨日はその後大丈夫でしたか?なんて聞いてしまったが、相手が自分を覚えていなかったら不審者と思われてもおかしくない。しまったと後悔していると、案の定相手は一瞬怪訝な顔をしてこちらを見たが、すぐに思い出したのか嗚呼と呟いて、昨日はありがとうございましたと軽く頭を下げながら礼を言った。僕はいえいえと首を振って同じように頭を下げた。頭を上げてその人の顔をもう一度見ると、さっきとはまた違った驚きで声を上げてしまった。今度は何だと相手も僕の顔を見て同じように声を上げた。
「そ、染島くん⁈」
「お前は…柴原か。何でここにいる?」
「僕は母さんのお見舞いに来てて…染島くんが入院してた病院ってここだったんだね。」
「ああ、まあな。」
「……」
「……」
…気まずい…気まず過ぎる。なんか見覚えがある顔だなじゃない、クラスメイトじゃないか。出席番号が前後だったからなんとなく顔見知りなだけで本当に名前しか知らない関係ではあるが。確かゴールデンウイーク明けにクラスの担任の先生が「染島は諸事情があって入院することになった」と言っていたはずだから実質一か月ほどしか関わっていない。一年生でも別のクラスだったし、タイプが違い過ぎて今後仲良くなるつもりも無かった人だ。だから咄嗟に声をかけてしまったのは良いけど会話がすぐに終わってしまうのは仕方のないことである。沈黙に耐えられなくなったのか、あるいは時間の無駄だと感じたのかは分からないが、染島くんは
「あー今日はもう遅いし、また明日来るなら礼だけでもしたいから病室来なよ。部屋番号だけ教えとく。」
と言って持っていたカバンの中からメモ帳とペンを取り出して部屋番号を書くと、それをちぎって僕に渡してきた。急な展開過ぎてよく分からなかったが、ありがとうと言って一応メモは受け取っておく。じゃあまた明日?と軽く手を挙げて染島くんは動かない僕の横をさっさと通り過ぎて行った。ちょうどその時天井にあるスピーカーからチャイムが聞こえた。
「ご案内申し上げます。あと十分ほどで本日の面会終了時刻となります。ご面会中の方はお早めにお帰りの準備をお願い致します。患者さんの安静のために皆様のご協力をお願い致します。」
感情のない声は面会終了時刻が近いことを告げた。もうそんな時間か、とメモを制服のポケットに突っ込んで僕も早足で廊下を進んだ。
翌日の今日は土曜日だった為、部活に入っていない僕は家の近くにあるバイト先の花屋へ向かった。仕事内容はレジ対応や植物の手入れ・水やりが主で、たまにラッピングの補助をしたりする。高校生になってすぐ、土日祝の七時から十三時にバイトを入れた。休日に入れる僕は結構重宝されていると思う。ちなみに僕の通っている高校は一応進学校で二年生と三年生は届出をすればバイトはできるが、一年生は夏休みなどの長期休暇でしかバイトは許可されていない。しかし僕の家庭環境を鑑みて、勉強をおろそかにしないという約束で特別に許可された。約束通り僕は今までずっと定期試験では学年十位以内を保っている。それもあって先生にバイトを止めるように言われたことは無い。バイト先を花屋にした理由は特にないが、元々花が好きだったことは少し関係があるかもしれない。兎に角近場で高校一年生のバイト未経験者でも雇ってくれるという条件が当てはまったところがこの花屋だった。
開店時間は九時半なのに七時から入るのは開店準備があるからだ。花は鮮度が命。毎日早朝から市場に行ってスタッフさんが花を仕入れてくる。それは僕たちバイトの仕事ではない。というかできない。その後の開店準備で、仕入れた花の処理をしたり水の管理をしたり値札をつけたり予約されている花束のラッピングを手伝ったりするのが僕らバイトの仕事だ。花屋のバイトは何気に天職だと思っている。好きな花の中で働けることもそうだが、デメリットとしてあげられる水仕事や力仕事、朝早いことや害虫駆除、花の名前など覚えることが多いことなど、すべて僕にとってそれほど苦ではない。暗記は得意だし家事をしていれば水仕事や力仕事は嫌でも慣れる、というか僕は男だから元から力はあった。それに虫も苦手じゃないし朝は元から六時に起きるのが常だったから、五時半に起きるのも感覚的にそう変わらない。とまあこんな感じで楽しくバイトに取り組めている。
今日も十三時になるとお疲れ様ですと言って昼休憩に入るのと同時に仕事をあがった。いつものように昼は家に戻って食べて午後から母の見舞いに行く予定だ。今家にあるのは…と自転車を漕ぎながら冷蔵庫の中身を思い出す。確か冷凍して置いてある昨日炊いた白ご飯と卵が数個と味噌と豆腐と納豆があったはず。あ、食パン……は今朝食べたので最後だったな。………いや少な。他にも調味料はあるだろうが物が無さ過ぎではないだろうか。あぁそうだ、水曜日に文化祭の出し物が決まって翌日の木曜日からできるだけ準備を手伝えってことで学校に残っていたから買い物に行けてなかったのか。毎週火曜日と金曜日に買い物に行っていたのが昨日行けてないから冷蔵庫に何もないのだ。火曜日も金曜日に買いに行く予定だったからそんなに多くは買っていなかった。仕方ない、あるもので作るか。だいぶ質素だが卵かけご飯と豆腐入りのみそ汁で良いだろう。ぶっちゃけ腹が満たされればなんでも良い。今日買い物に行こう。そう決めたのと同時にアパートに着いた。駐輪場に自転車を止めて階段でアパートの二階に上がる。鍵を回して扉を開ける。
「ただいま。」
真っ暗な部屋の中に僕の声が静かに響いて消えていく。いつから「おかえり。」って言われてないのだろう。いやいや、何を感傷に浸っている。自分はそんな柄じゃないだろう。それに今に始まったことじゃない。手を洗うついでに顔も水で洗ってスッキリさせる。
「さてさて作りますか。」
と暗い空気を吹き飛ばすように声を出した。
昼食はすぐにできたしすぐに食べ終わった。今は十四時半。少し早いがゆっくり行けばいい時間に着くだろう。今日は天気もいいし公園に寄るのもありだな。そんなことを考えながら再び自転車にまたがって病院へと向かった。
途中の公園では幼稚園児ぐらいに見える子どもがたくさん遊んでいた。それを微笑ましく眺める。自分にもあんな時代はあったのだろうか。幼いころから変に達観している節があった自分だ。可愛げのない子どもだったに違いない。でも父と遊ぶ自分をベンチに座っている母が楽し気に眺めている、という光景が微かに記憶に残っている。愛されてはいたのだろう、多分。今となってはもう二度と叶わない光景だろうが…。
どれくらい時間が経っただろうか。いや、実際にはそんなに時間は経っていないのだろう。しかし今日はやけに感傷に浸ってしまう。何か悪いことでも起きるのだろうか。小説などでよく書かれるような嫌なことの前兆とかでなければ良いが。とにかく病院に行こう。少し時間を使い過ぎてしまった。
急いだからか予定通りの時間くらいに病院に着くことができた。
「母さん、来たよ。」
「蒼汰!待ってたわよ。」
母はいつもより元気そうに笑って僕を迎えた。
「今日調子よさそうだね。何かいいことでもあった?」
僕の言葉を聞くと母は口を開けて一瞬固まったかと思えば急に泣き出してしまった。
「ごめんね、忙しくて今日が何の日かも気づいてないのね…。私が去年も何か特別なことをしてあげられて無かったから覚えてないのね…。ごめんね。」
そこでやっと気づいた。今日は、10月13日は——僕の誕生日だ。
「蒼汰、誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう。」
そう言って売店で買ってきたのだろうケーキを渡された。
「…ありがとう。母さんこそ僕を生んでくれてありがとう。」
固まっていた体をなんとか動かしてケーキを受け取る。不自然な間ができてしまった気がするけど気にしていないみたいだしよしとしよう。
「一緒に食べようと思って二個入りにしたのに食べちゃダメって言われたからさ、ごめんだけど一人で二つ食べてね?もーほんとにお医者さんは厳しいんだから。」
母が何かふてくされている声が遠くで聞こえる。
あぁ、あの前兆は正しかった。
今日は最悪の日だ。
あの後結局ずっと上の空だった僕を心配して母が早く家に帰るように言い、ありがたくそうさせてもらうことにして病室を出た。母にいらない心配をかけさせてしまった、と少し反省しながらスマホで時間を確認する。当たり前だがそんなに時間は経っていない。今日はおとなしく家に帰るかと思った時にふとスマホケースに入れていた紙が目に留まった。昨日染島くんにもらったメモだ。あまり乗り気ではないが時間もあるし行くことにするか。
コンコンコン
「失礼します。」
病室に入ると染島くんがベッドから体を起こして勉強をしていた。
「お、柴原か。ほんとに来たんだな。」
そう言って軽く笑った。
「なに、来ちゃダメだったの。」
馬鹿にされた気がして少しムキになって返す。
「いや、そんなに話したこともないやつの部屋に来るのかと思って。昨日も話題無くなってたっぽいし。」
う、バレてたのか。
「だって昨日約束みたいなこと言われたら行くしかないでしょ。」
「それはそっか。まぁとりあえずこっちに来て座りなよ。」
長居するつもりではなかったので少し迷ったが、言われた通りベッドの横にある椅子に腰を下ろす。
「あれ、それケーキか?」
「あぁこれ?そうだよ。母さんが誕生日ケーキって。」
「え、今日お前誕生日なのか?それはおめでとう。」
「あー、うん。ありがとう。」
「ん?祝われるのそんな好きじゃない?」
口角がひきつったのがばれたか。まぁ別に言ってもいいか。このことを誰かに話したことは無いけど何故か今は言おうと思った。
「僕さ、自分の誕生日にあんまり良い思い出って無くて。父さんが事故で死んだのも母さんが倒れたのも僕の誕生日だった。まぁ偶然なんだろうけど小さい頃のトラウマっていうかさ、なんかそんな感じで嫌いなんだよね。」
「なるほどな。じゃあそのケーキ一緒に食べね?お前がいいならだけど。」
「それは全然いいけど…何で急に?」
「ほら、誰かと一緒に食べたら良い思い出になっていつかは今日が好きになるかも知らねえだろ。」
まぁそんなことは無いと思うが、そういう考え方もできるのかと少し驚いた。
「そう言って染島くんがケーキ食べたいだけなんじゃない?」
そう冗談を返すと、バレた?と言ってニヤリと笑った。それから実は染島くんの誕生日が十月三十一日で一と三を逆にしたら僕と一緒だ、とかくだらない話をしながらケーキを食べた。誰かと誕生日をともに過ごしたのはいつぶりだろうか。気づけば外も暗くなっていて、買い物に行かなければということを思い出した僕は慌てて帰る準備をする。
「楽しかったよ、ありがとう。」
「おう、俺も楽しかった。ケーキありがとな。お礼するとか言って俺がまたもらっちまった。」
「そんなことないよ。ひとりで過ごすはずだった誕生日を染島くんと一緒に過ごせてよかった。」
「そっか。ならまた話しに来いよ。俺ほんと暇で退屈で死にそうだから。」
「時間が合えばまた寄らせてもらう。」
そう約束して病室を出る。初めてしっかり話してみたけど染島くんと話すの楽しかったな。今日を案外悪くない日だと思うことができたのは久しぶりだった。あの暗い気持ちはどこへやら、少し軽い足取りでスーパーに向かった。
それからもたまに染島くんの病室に寄っては何気ない話をしたり勉強をしたりした。意外と一緒にいる時の空気感が気に入って、気づけば毎日通うようになった。そして三十一日、僕が誕生日を祝う頃にはお互いに名前で呼び合う様になっていた。
「蒼汰って毎日楽しい?」
今日もいつも通り、母の見舞いの後に恭平の病室に来ていた。花瓶の花を入れ替えようと窓辺に移動した時に不意にそんなことをきかれた。僕についての質問って珍しいな、なんて思いながら恭平の方へ振り向きながら答える。
「いや、別に普通かな。これといって楽しいこともないし、同じ日々をただ過ごしてる感じ。」
「……夢とか無いのか?」
恭平が将来の話をするなんてこれまた珍しいな、と思いながら淡々と答える。
「んー無いかな、多分将来どっかで何かしら働いてると思う。」
「そうか。」
「うん、生きている意味が分かんないって感じ。夢も無くただぼーっと毎日を過ごしてる意味って何だろうな……なんてな!」
そう言ってこの話は終わりというばかりにニコッと満面の笑顔を作り、また花瓶の方へ視線を戻した。将来の夢が決まっていない僕は最近学校で始まった進路相談でも先生から色々と言われていて、この話題はさっさと切り上げたかった。
「……生きてる意味、ね。」
ポツリ、と小さな呟き。独り言のようなそれは僕に伝えようと思ったものでは無いかもしれない。でもその言葉はしっかり僕に届いて、俺は生きたくても生きられないかもしれないのに。そう言っているように聞こえた。
——そうだ、早く話題を逸らしたいことばかり考えて僕は今なんて言った?「生きてる意味が分からない」って恭平に言ったのか?誰よりも生きたいって思って頑張っている恭平の前で……
「っごめん!僕——」
「や、大丈夫。俺こそらしくなかった。」
バッと勢いよく振り向いて謝ろうとした僕の声を遮り、恭平は静かにそう言った。やはり恭平にしてみても咄嗟に出てしまった言葉なのだろう。でもそれは紛れもない本心だ。僕は気まずくなり、花瓶を手に取ると早足で恭平の前を横切って手洗い場に向かった。新しい花を入れようとしてはたと手を止める。今この花にしない方が良いかなと思ったが、恭平は分からないだろうし良いか、と止めていた手を動かして今日持ってきた花に替えた。病室に戻ると恭平はいつも通り勉強をしていた。それからこちらを一瞥すると「ありがとう。」とだけ言ってまた勉強を始めた。この空気の中で勉強する気にはなれず、明日僕日直で朝早く行かないといけないから今日は早めに帰るね、と早口に言って新しい花が刺さった花瓶を置くと自分の荷物をまとめた。そっか、じゃあまた。うん、またね。といつも通りのやり取りを交わして部屋を出た。明日日直なのは噓では無い。ただ別に早く帰る必要は無い。どれだけ夜遅くに寝ても六時のアラームで目は覚める。でも今あそこにいても恭平を傷つけてしまいそうで——実際に恭平とはその後の会話の間一度も目が合わなかったし。いや、これも言い訳だな。傷つけたのは自分だ。明日しっかり謝ろう。そう決意した。
病室の扉が閉まって蒼汰が出て行ったことを確認すると、俺は問題集を閉じてシャーペンを置いた。ふぅと息を吐いて天井を見上げる。全く進まない。まぁ原因は明らかだが。
ふと花瓶の方へ顔を向ける。飾ってある花を見て思わず吹き出してしまった。
「ふはっ、皮肉だな。」
花瓶に刺さっているのはアルストロメリアとガーベラだ。花言葉はそれぞれ「未来への憧れ」と「希望」。さっきその話題で気まずくなったというのに。蒼汰は俺が分からないだろうと思って花を入れ替えたのだろうが、生憎俺は蒼汰の影響で花言葉を結構知っている。蒼汰は花屋でバイトをしているためいつからか花を持ってくるようになった。初めの頃は
「花屋で余った花が誰に見られる訳でも無く枯れるのがかわいそうだったから持ってきた。」
と少し照れながら、あくまで余り物だからな!と強調していた言葉を信じていたが——まぁその理由もあるかもしれないが——、何の気なしにそれらの花言葉を調べたときに気づいてしまった。これらは全部意味があった花たちだったのだ、と。花言葉を調べてどの花が良いかと考えている蒼汰を想像すると温かい気持ちになる。それに気づいたことを蒼汰に言っても良かったが本人はバレたくなさそうだったので、ただ単にきれいな花をありがとう、と受け取っている。
果たして明日蒼汰は来るのだろうか。今日の感じだと来なさそうだが。俺もあんなことを言いたかった訳じゃない。ただ蒼汰が毎日楽しそうな顔で花屋のバイトのことやその日あった何気ない出来事を話してくれるから聞いてしまっただけだ。蒼汰には世界がどんな風に見えているのかなって。でもああ見えて蒼汰も悩んでいたのだ。俺も蒼汰に謝らなければいけない。綺麗な花を眺めながら、明日また蒼汰が来てくれることを願った。
コンコンコン
今日も控えめなノックの音が聞こえた。蒼汰が来たのだろう。昨日の今日で来ないかもしれないと思っていたが来てくれたのか。これは嬉しい誤算だ。いつも通り礼儀正しく失礼しますと言いながら入ってきた蒼汰は俺の目の前に小袋を突き出してきた。いきなりで驚きながら受け取って袋から取り出してみると、それは黄色い可愛らしい花の押し花を使ったしおりだった。ダイヤーズカモミールという花らしい。わざわざこの花にした理由は十中八九花言葉だろう。俺の心配も杞憂に終わり、そのままいつものように軽い会話を交わしてそれぞれの勉強時間になった。俺はすぐに枕の下から、少し前に誕生日プレゼントとして両親に買ってもらった花言葉の図鑑を取り出した。本棚に入れておくと蒼汰に気づかれるため枕の下に隠している。寝る前にも読んだりするからその理由だけでも無いが。とりあえずダイヤーズカモミールの花言葉だ。蒼汰は勉強を始めると集中して周りが見えなくなるから気づかれることは無いだろうが、早く見るに越したことは無い。
「あった。」
小さく声を出してしまったが幸い蒼汰は気づいていないようだ。えっと花言葉は?
「大きな希望、仲直り。」
………
カモミール全体の花言葉と他の種類のカモミールの花言葉も調べてみる。共通している花言葉と言ったら「親交」や「仲直り」という花言葉だ。
「……ふは…ははははは!」
俺は我慢できなくて遂に声を上げて笑ってしまった。もう蒼汰にバレても良い。というか流石にこんなにうるさくしたら蒼汰でも集中は切れるだろう。案の定、急にどうしたという風に顔を上げた蒼汰は、俺の机に広げられている図鑑を見て固まった。予想通りの反応にそれすら面白くなって余計に笑いを誘った。しばらくして笑いが収まった俺は口を開いた。
「蒼汰、そんなに仲直りしたかったのか。別に喧嘩っていうほどの喧嘩はしてないと思うけど?」
話しかけても蒼汰からは何の反応も返ってこない。ただ首から顔へと段々赤くなっていき、そしてハッとしたように話しだした。
「し、仕方ないだろ?!僕本当に悪いことしたし恭平を傷つけたし…もうこうやって話すこともできなくなるのかと思って怖かったんだよ。」
そっか、蒼汰のことだから昨日本当に色々真剣に考えたのだろう。
「大丈夫、別に傷ついたわけじゃないから。ただ蒼汰がここで話してくれる時あまりにも楽しそうだから俺もいつも聞いてて楽しくてさ。蒼汰には世界がどうやって見えてるんだろうって気になったから聞いただけ。ごめんな、急に変なこと聞いて。」
「そういうことだったんだ。僕もごめんね。最近進路相談が始まって将来の夢は、志望校は、とか聞かれてちょっと過敏に反応し過ぎた。」
「そっか、それは嫌にでもなるか。」
「あと楽しそうっていうのは恭平に話してるからじゃないかな。」
「俺に話してるから?」
別に今日またわざわざ聞かなくていいかなと思っていたけど教えてくれるらしい。少し考えながら蒼汰は続ける。
「うん。だから、今日は恭平に何の話をしようかなとか考えながら生活してて、共有したいことを恭平に話してるから楽しそうに見えるんじゃないかな。」
あ、もちろん母さんに話すための話題を探してるからっていうのもあるけどね!と蒼汰は付け足す。それってつまり
「ずっと俺のことを考えて楽しそうにしてるってこと?」
「…え?あ、いや、そういうわけじゃなくて、いや、そういうわけでもあるんだけど…もう、言い方ってもんがあるだろ!」
焦ってどもる蒼汰が面白くて思わず笑ってしまう。そっか、こんな俺だけど誰かの日常に「楽しい」を届けられているんだな。
「俺こそこんなところにずっとひとりでいて、不安もたくさんあったし何のために治療をがんばればいいのかも分からないときがあった。でも蒼汰と毎日話すようになって、蒼汰との楽しい会話が今の俺の生きる理由になってる。ありがとう、本当に。出会えてよかった。」
「僕もそうだよ。恭平と出会えてよかった。昨日はあんなこと言ってしまったけど、恭平と話すことが生きる理由になってる、って言ったら過言だけど、日々の中の楽しみではあるよ。」
そこは嘘でも過言じゃないって言えよ!あはは、ごめんって。そう言って笑い合う。あぁ、幸せだな。漠然とそう思う。
どうかこの笑いが絶えない日々がこれから先も続きますように。
あの仲直り——恭平は喧嘩じゃなかったって言うけど——をしてからはもう隠す必要は無いと開き直って、花を持って行った時は花言葉も一緒に教えてから飾るようにした。十一月も終わり、気づけば十二月に入っていて冬が目の前に迫っていた。寒さからか恭平はよく体調を崩していて、最近は長居するのも良くないと勉強はせずに軽く話すだけにしている。今日も母の見舞いの後に恭平の病室へと向かう。ノックをして恭平のどうぞ、という声を聞いてから失礼しますと言って中に入る。
「恭平、体調はどう?」
「お、来たか。大丈夫、今日は元気だ。」
そう言って笑う姿が母の表情と重なる。どうして皆こう無理をするんだ。
「今日も少し話したら帰るよ。しっかり体調治してよ。」
「いや、今日はほんとに元気だから一緒に勉強しよう。」
ほんとにこいつは勉強が好きだな…。でもこれでもっと体調崩したら嫌だし。
「とりあえず今日はしっかり休むこと、いいな?」
「でも」
「でもじゃない。分かったな?」
ここまで食い下がる恭平に違和感を覚えながらもなんとか納得させる。恭平は渋々といった感じで分かった、と小さく返事した。よし、と僕は満足げにうなずいて今日持ってきた花を恭平に見せる。
「これはヒペリカムっていう花、っていうかまぁ今は花が咲く時期じゃないから実しかなってないんだけど。可愛いだろ。」
「確かに、赤い実が可愛いな。」
「だろ。ヒペリカムの花言葉は「悲しみは続かない」だよ。」
「悲しみは続かない…」
「そう。まぁちょっとこじつけかもしれないけど最近恭平体調悪そうだし、それが長く続かないようにっていう僕なりの解釈だと思ってくれればいいから。」
「そっか、うん、ありがとう。」
そう言って今日も恭平は嬉しそうな表情で花を見る。気に入ってもらえたようで良かった。それから少し話をして、来た時に言ったようにすぐに帰ろうと椅子から立ち上がる。
「やっぱりもう帰るのか?」
「帰るよ。恭平と話すのは楽しいけど無理に話して体調崩されるのは不本意だからね。」
「そっか。今日も来てくれてありがとう。」
「なにわざわざ。今更だろ。」
「まぁそうだけど、なんとなく気分で。」
やっぱり今日の恭平は何か変だ。疑問に思いながらも扉へと向かう。
「じゃあまたね。」
「あぁ。」
いつものやり取りをして部屋を出る。ちょっと恭平の表情が暗かったような?やっぱり無理していたのか。今日は早く帰って正解だったかもな。なんて思いながら帰路についた。
翌日。今日は恭平に何を話そうかな、など窓の外を眺めて考えていたいつものHR。
「急な話だが、ゴールデンウイーク頃から入院していた染島恭平くんが転校することになった。」
先生のその言葉を聞いて急に思考が現実に引き戻された。今なんて言ったんだ。テンコウ?誰が。恭平が?話を聞かないと、と思うのにいつもはよく回る頭が全然動いてくれずに先生の言葉が右から左に通り過ぎていく。転校…本当に?最近体調が悪いように見えたが寒くなったからとかではなくて病気が悪化していたのか?だとしたら恭平はもう既に…。最悪のことを想像してしまい体が一気に冷たくなる気がした。いや、本当に病院から登校しやすい高校に転校しただけかもしれない。もしかしてこうなることを分かっていたから昨日恭平はもっと話したそうにしていたのか?それを僕は無理矢理断って…。一刻も早く確かめたい。恭平に会って話がしたい。
HRが終わると同時に僕は教室を飛び出した。母の病室ではなく恭平の病室にまっすぐ向かう。最初はメモを見ながら行った病室。それから毎日通うようになり、エレベーターで母のところに行くときに間違って恭平の病室の階を押してしまうこともあった。それくらい当たり前になっていた。見慣れた病室の前に着くと勢いよく扉を開けた。
蒼汰、待ってたぞ。
そう言ってくれる声を期待したがそこには誰もいなかった。真っ白い部屋に僕だけがいる。ただ一つ窓辺には昨日僕が持ってきた花が変わらず飾ってあった。あぁ、この部屋はこんなにも広かったのか。ベッドにフラフラと近づいてそっと触れる。それはひどく冷たく感じた。まるで恭平が最初からいなかったかのように、全くぬくもりを感じないただの無機物がそこにあった。
僕らは本当にこの病室の中だけでの関係だったのだ。いつ亡くなったのかも知らない。もしかしたら亡くなっていないのかもしれないが。ただ「恭平が転校する。」ということだけを担任の先生から告げられただけ。先生も、クラスメイトも、友達も、看護師さんたちも、家族も、誰も僕らの関係は知らない。でもお互いだけが知っていたあったかい時間。もう二度と感じることはできない心地よい空間。
でも大丈夫だ。また僕の日常に戻っただけだ。恭平がいるのが非日常だっただけ。そう、元に戻るだけだ。別にここで出会わなければ、学校では決して関わることは無かったような相手だ。お互い共通の話題がある訳でも無く、ただそれぞれ自分の時間を同じ空間で過ごしていただけ。たまに勉強の話とかどうでもいい会話をしただけ。友達とも言えるか分からないような関係。そうだ、最初から恭平とは関わったことなんて無かったって思えばいいのだ。少し会話したことがあるだけの、ただ出席番号が前後なだけの元の関係に戻ったって考えればいいのだ。
でも、じゃあなんで涙が出るのだろう。なんでこんなにも恭平と話した内容を鮮明に覚えているのだろう。恭平の笑顔も、苦しそうな顔も、泣きそうな顔も、全部、全部覚えている。なんで…なんでこんなに苦しいのだろう。
そんなの分かってるだろう。あの日常になりつつあった非日常を楽しみにしていたのだ、僕は。二か月にも満たない、短かったが確かにそこにあった日常を。お互い深くまで干渉せずに、でも何故か心地よかったあの空間が。元から何も感じていなかったが、今では元の生活も面白くないものだと感じてしまいそうだ。
だったら良いじゃないか、今日までくらいは非日常のままで。明日からはまた代わり映えのない日常が始まるのだから。そう、今日くらいは…
「…恭平…っ」
ぬくもりをなくしたベッドの横で一人、声を押し殺して泣いた。開け放たれた窓から入ってきた風は僕の頬を撫で、静かにヒペリカムを揺らした。
アラームの音で目が覚める。カーテンを開けて太陽の光を浴びる。顔を洗って朝ごはんを食べる。「…恭平、将来の夢ができたよ。」なんて新たな未来を思い描きながら。
そうして今日も僕の日常が始まる。
新たな門出を祝うかのように、スイートピーが日の光を浴びて優しく輝いていた。
二。
「んーっ、ふぅー」
大きく伸びをして息を吐く。ボキボキッとこんな音出して大丈夫かと心配になるほど凝り固まった首を回すと少しスッキリした気分になる。時計を見るととっくに十二時を超えていた。
「もうこんな時間か。今日は明日に備えて早く寝ようと思っていたのに…」
やはり勉強をしていると集中しすぎて時間を忘れてしまうのは自分の悪い癖だ。昔恭平にも勉強馬鹿って言われたっけ。仕方ない、新しいことを学ぶのは楽しいのだから。
懐かしい顔を思い出して少ししんみりとした空気になった。視界の端に映る今まで使っていた参考書に挟まっているしおりを手に取る。表にはダイヤーズカモミールの押し花があり、裏にはスイートピーの絵と柴原蒼汰という名前がかかれてある。
あれはあの日恭平がいなくなった病室から母の病室へと行った時だ。僕の腫れた目元を見て心配していた母が思い出したようにこのしおりを渡してきたのだ。
「ある入院している男の子が落とし物じゃないかって看護師さんに渡してくれたらしくて、裏に蒼汰の名前が書いてあったから私に届けてくれたの。」
そう説明されても心当たりがなくてとりあえず受け取ると、それは僕が恭平にあげたはずのしおりだったのだ。尚更僕の名前なんか書いてあるわけがない、そう思って裏を見てみると、かわいらしいスイートピーの絵と確かに僕の名前が書かれてあった。恭平の字だった。ということは、恭平が僕にこのしおりが届くように仕組んだのだろう。でもわざわざこんなことをした理由が分からなかった。
「スイートピーの絵、とっても素敵ね。」
母は優しく微笑みながらそう言った。この絵も恭平が描いたのだろうか。ほんとに上手なスイートピーだな。そう考えた時ハッと気づいた。スイートピーの花言葉は「優しい思い出」と「門出」だ。もしかしてこれは恭平から僕への最後のメッセージなのだろうか。恭平も僕との時間を思い出として思ってくれていたのだろうか。僕の門出を祝ってくれているのだろうか。本当のことは分からないがそう考えるとまた涙が止まらなくなってしまい、母の心配は増す一方でもう散々だった。しかしあれも良い思い出だ。
しおりは今ではもう使い過ぎて角が少しすり切れてしまっているし、スイートピーの絵も色あせてしまっている。でもこれは唯一恭平がいたことを証明するものだ。これが無ければあの日々は僕が描いた勝手な妄想だったのではないかと思っただろう。確かにあったのだ、あの日々は。恭平との時間は僕の夢を叶えるための活力となっている。その夢に一歩近づくために明日から留学をするのだ。アメリカで短期間勉強して俺は立派な医者になる。絶対になってやる。
「これがアメリカの空気か~。」
空港から出た瞬間大きく深呼吸をして肺に新しい空気を取り込む。アメリカは新年度が九月からだから、僕も大学に通って今から十二月までの三か月間ここで暮らすのだ。不安はもちろんある。でも、なりたい自分になるために。
「よし、頑張ろう。」
僕は夢へと大きな一歩を踏み出した。
アメリカでの生活は目まぐるしく過ぎていった。一か月が過ぎた今、ようやく慣れてきた感じがする。今日は久しぶりに丸一日予定が無いため、少し遠くまで散歩にでも行こうかと外に出る。特にあてもなく歩いていると、人は少ないがオシャレな路地の突き当りに花屋があるのが見えた。その外観とかつて自分が働いていた場所とが重なる。…懐かしい。今はもうバイトを辞めているがその後も時々顔をのぞかせて花を買ったりしていたのだ。こっちに来てから花を愛でる時間なんて無かったから久しぶりに寄ってみようか。こんなに近くにあったのならもっと早くに来ればよかった。そんなことを考えながら人のいない道を進んでいく。ちょうどその時、中から従業員らしき男の人が出てきた。顔は見えないが背丈と髪色と雰囲気からして日本人のようだ。実際にこっちで暮らして驚いたことだが、案外日本人は多くいるのだ。そのおかげで不安だらけだったアメリカ生活も何とか無事に送れている。そして同じ仲間だからかなんとなく雰囲気で分かるようになってきたのだ。日本人の方もいるなら尚更早く来ればよかった。そう思った瞬間、その男の人と目が合った。お、やっぱり日本人、だ——え?
「きょう、へい…?」
見間違えるわけがない。記憶の中より少し頬の丸みがなくなって体つきもだいぶ良くなっているが、僕が分からないはずがない。だってずっとあの日々を大切な思い出として抱えてきたのだ。もう一度笑顔を見たいって叶わないことをずっと願っていたのだ。
「っ、恭平!」
こんなに大きな声を出せたのかと思うほどの声で叫んだ。もう二度と呼べないと思っていた名前を。
「…蒼汰?」
その男の人はゆっくり瞬きをして僕の名前を呼んだ。あの頃と変わらない声色で。でも少し低くなった声で。あぁ、やっぱり恭平だ。確信に変わった瞬間、あの二か月間が一気に頭に流れ込んでくる。何で何も言ってくれなかったのかという怒りとちゃんと生きていてくれたことへの安堵ともう一度会えたという喜びと。色んな感情がごちゃ混ぜになって涙があふれだした。感情のままに荒い足取りで恭平の元へ歩きながら叫ぶ。
「何で何も言ってくれなかったんだよ。てかあのしおり何なんだよ、最後のメッセージってか?直接言えよ!もう二度と会えないのかって…もっと話せばよかったって、僕がどんなに後悔したか分かるか?!」
恭平はまだ固まっているが気にせずに近づいていく。
「でも、恭平のおかげで夢ができて、恭平のおかげでここまで頑張ってこれたんだ。また会えてよかった。本当に、本当に——生きていてくれてありがとう…」
最後の言葉は涙にぬれてほとんど何と言っているか伝わらなかったかもしれない。恭平は泣きじゃくってひどい顔だろう僕を見てもう一度瞬きをして、ゆっくり口を開いた。
「ごめんな、蒼汰。ごめん。でも俺も会えて嬉しいよ。俺もお前にまた会うために頑張ってたんだ。俺らやっぱり似た者同士だな。」
そう言って恭平は色あせない思い出の中と同じ顔で笑った。
恭平はちょうどバイトをあがるところだったらしく、そのままぶらぶらと一緒に歩いた。その間も会えなかった今までの隙間を埋めるようにお互いのことをたくさん話した。もちろん何で黙って行ったのか聞いた。そしたら
「最先端の治療を受けにアメリカに来たわけだけど、変に期待させて治療が合わなくて死んでしまったら蒼汰を余計に悲しませると思ったからひっそり行った。」
とか言い訳したから思いっきり背中を叩いてやった。何も言われずに置いて行かれる方が辛いんだよ馬鹿野郎、と言っておいた。それと無事完治したのになんで日本にすぐに帰ってこなかったのかも聞いた。じゃあ
「何度も帰ろうと思ったけど合わせる顔が無くて、医者になるという夢が叶った時に会いに行こうと思っていた。」
と言っていた。ひっそりと行ったのに結局そのせいで合わせる顔がないとか本当に何をやっているのかと呆れた。でも違う場所にいても同じものを夢見てお互いを思い出していたのかと思うとなんだかむずがゆくなった。
僕も恭平がいなくなってからのことをたくさん話した。僕が話して恭平が相槌を打ちながら聞く。懐かしいこの感じ。やっぱり落ち着く。僕がこの空気感に浸っていると、恭平がそういえば、と声を上げた。どうしたのだろうと静かに次の言葉を待っていると、これお前に言うべきかどうか迷うけど…と前置きして口を開いた。
「今日お前の誕生日だよな、おめでとう。あの時自分の誕生日好きじゃないって言ってたから言うか迷ったけど、せっかく今日に会えたのも何かの縁ってことで祝いたかったから言わせてもらった。嫌だったらごめんな。」
あぁそうだ、今日は僕の誕生日だ。また気づいてなかったけど、恭平の優しさに触れて胸があたたかくなる。でも今はもう別に「今日」は嫌いじゃない。それも全部、
「恭平のおかげだよ。」
「ん、何が?」
「別に何でもない。ありがとう、覚えていてくれて嬉しいよ。」
そうだ、別に恭平が知る必要は無い。ただあの日初めて病室で話した時、「嫌なことだけじゃなくて良いこともあるかもしれないじゃん。それを探したらいつかは今日を好きになれるかもしれないだろ?自分が生まれた日なんだし好きになった方が良いでしょ。」そう恭平は言ってくれた。確かに恭平との思い出が始まった日だし、小さい頃には両親に祝ってもらった優しい記憶もある。ただそれを嫌な記憶で蓋をしてしまっていただけだ。それに気づかせてくれてありがとう。その気持ちも感謝の言葉に込める。
「おう、大切な親友の誕生日だしな。」
「え、し、親友?僕たちってそもそも友達だったの?」
「嘘だろ?!短い間だったとしてもあんなに毎日話して今も俺たち似た者同士だなとか話してたのに?じゃあお前はただのクラスメイトの病室に毎日通うのか?」
言われてみれば確かにそうだ。でも恭平がそう思っていてくれたのが嬉しい。
「そうだね、僕らは親友だ。」
そう返すと恭平は嬉しそうにほほ笑んだ。その顔を見つめながらずっと言いたかった、でも怖くて言えなかった言葉を今度こそ。
「これからも「ずっと」よろしくね。」
「っ!おう。」
恭平の笑顔は秋空に優しく輝く太陽のようだった。
今日は蒼汰が日本に帰る日だ。ちゃんと空港に見送りに行く約束もした。未来の約束ができるってこんなに嬉しいことなのだなと改めて感じる。あの時蒼汰は「またね」は言っても「また明日」とは絶対に言わなかった。最初は明日来るつもりは無いのかなと思っていたけどそれは違うってすぐに気づいた。俺の最初の病室への誘いも約束だからって考えていた真面目な蒼汰は、もし明日俺が死んで会えなくなったら嫌だから「明日」と言って約束を明確に作ろうとはしなかったのだろう。そう考えると「明日絶対見送り来いよ!」って約束しているのはすごいことなのではないだろうか。
予想通り空港は多くの人で埋まっていた。約束した場所で待っていると「恭平!」と名前を呼ばれて声のする方へと顔を向けた。そこにはキャリーケースを転がしてたくさんの鞄を抱えながら小走りにやって来る蒼汰がいた。
「ごめん、待たせた。」
「全然大丈夫。というかスゴイ量の荷物だな。」
「ほんとにね、大変だよ。」
「そんな蒼汰に申し訳なくはあるけど、これ。」
そう言って鞄の中から花束を取り出す。
「今までのお礼。ちゃんと自分で花言葉調べて選んだから。」
花束には「友情」が花言葉の黄色い薔薇と黄色いガーベラ、それと——
「待って、僕も花束用意してきたんだけど。」
そう笑いながら蒼汰も鞄から花束を取り出した。そこには黄色い花が二本ともう一本別の花が。
「もしかして花、かぶってる?」
「ほんとだ、薔薇とガーベラ。しかも一本ずつっていうのも同じだね。」
「まぁそれは今から飛行機乗るからあまりかさばらないようにって配慮したからだけど。」
「あ、でも僕もう一本別の花入れててさ。」
「え、俺も。お前の誕生花のネリネって花入れてる。」
「ほんとだ、赤色の綺麗な花がある。あと実は僕も恭平の誕生花の桔梗を入れてもらったんだよね。」
「あぁ、やっぱり桔梗か。紫が良い差し色だな。というか考えてること同じ過ぎるだろ。」
そう言って笑い合う。こんなに気の合う親友に出会えたのは本当に奇跡だろう。
「花言葉も調べてくれたの?」
「あぁ、ネリネは「また会う日を楽しみに」って花言葉だろ。」
「うん、で桔梗の花言葉は——」
「待て、俺知ってるぞ。「変わらぬ愛」だろ?いやぁ蒼汰くんは熱烈だねぇ。」
そう言っていつものようにからかう。そしたら蒼汰も決まって少し怒りながら言い返してくる。
「バカ、そんなわけないだろ。」
「あ、じゃあ「誠実」の方か。確かに俺誠実な男だからなぁ。」
これ以上からかうと拗ねかねないからちゃんと正解を答える。
「いや、確かにそれも正解ではあるけど…」
おや、ってことは間違いってことか。この意味じゃないなら何なのだ。本当に分からなくてうーんと考え込む。
「恭平さ、こっちの花屋で働いていたんだから知ってるだろ、英語での花言葉。」
「…あ。え、それって、」
「うん、ずっと待ってるから。ちゃんと夢叶えて戻って来いよ。」
そう言ってまっすぐ目を見つめてくる。その眼差しに答えるかのように力強くうなずく。
「分かった。だから蒼汰も絶対なれよ、なりたい自分に。」
「なるよ。…じゃあまたね、恭平。」
「あぁ、またな。」
しっかりと約束をして最後はいつも通りのやり取りを交わす。そして蒼汰はこちらに背を向けて歩き出した。その背中が病室で最後に話したあの日の蒼汰の後ろ姿と重なる。
「ぁ、」
あの日と同じように咄嗟に手を伸ばした。しかしあの日と同じように蒼汰が振り向くことは無い。でも、もう大丈夫だ。二度と会えなくなるわけじゃない。お互い場所は違ってもまた会うために、夢を叶えるために頑張るのだ。だからあの時とは違う。不安なんてない。あるのは未来への希望だけだ。
飛行機が空に飛び立つのを眺める。そして手に持つ花束へと目を向ける。
「友の帰りを待つ、か。」
蒼汰、ちゃんと待っていてくれ。俺は医者になって絶対に日本に帰るから。だからその日までしばらくの間さよならだ。
窓から見えるアメリカの街並みが小さくなっていく。また離れることに不安がないわけじゃない。でも恭平もこっちで頑張るって言っているのだ。そしてまた会うと約束を交わしたのだ。それなら僕も立派な医者になってあいつが帰ってくるまで待っているだけだ。いずれ来るだろう未来を思い浮かべて微かにほほ笑む。あぁ、とても楽しみだ。
親友との約束を守るために決意を固めた二人の腕の中で花束が優しく揺れていた。
アラームの音で目が覚める。カーテンを開けて太陽の光を浴びる。顔を洗って朝ごはんを食べる。「ついにあいつが来るのか…」なんてあのまぶしい笑顔を思い浮かべながら。
そうして今日も僕の日常が始まる。
いや、またあの楽しい非日常が始まる。
今度こそそれが日常になることを願って。
完
君のいない明日の香り 冬灯叶 @FuyuhiKyou
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