第十一話 彼らが最後に手にしたもの⑥

 ◆

 いつの間にか黎も夢の中に落ちていて、気が付くとあたりは一層と暗闇に沈んでいた。


「……!」

「起きたか」


 慌てて覚醒かくせいすると、すぐ傍からシンの声がした。


「――あ、ご、ごめんなさい! 私、何てこと……」


 疲れ果てていたはずのシンの腕の中で呑気のんきに眠りこけていた事に気づき、黎は自分の無警戒さに呆れ果てた。そもそもここはまだ宮廷内で、誰かに見つかる可能性だってあるのに。


「大丈夫だ。ここには誰も来てない」


 慌てて離れようとする黎をシンは何故だか放そうとしなかった。シンはふところからオイルライターを取り出すと、明かり代わりに火をつけ畳の上に置いた。部屋の外はすっかり暗くなっていて、障子の向こうでぼんやりと月が輝いているのが見える。シンは灯りに懐中時計をかざすと時間を確認した。


「騒ぎが起こってから四時間くらい、か」

「そんなに、眠っていたんですか。私たち……」

「疲れてたんだろ。俺も少し持ち直した。まあ、あえて潜伏したのはよかったかもしれない。さすがにこんなに時間が経ってるのに、まだ宮廷内に潜んでいるなんて誰も思わないだろ」


 裏をかくにはちょうどよかった、とシンはむしろ得意げに笑った。とはいえ、ここは未だ敵地の中には変わりなく、闇に紛れやすいこの隙に脱出しなければならないだろう。


内裏だいり内の間取りならある程度把握してます。人のあまり通らない道も」

「わかった。道案内は頼む。あとは、――どうやってここを出るか、だな」


 正面から堂々と出るのはさすがに見つかってしまうだろう。どこかに脱出口はないだろうか。誰にも見つからない、誰も把握していない秘密の抜け道でもあれば――。


「――あ、」

「どうした?」

「あります! 町に続く秘密の抜け道!」


 幼い頃、この皇居に滞在していた時に小夜と二人で見つけた秘密の抜け道。庭の隅の垣根に空いた、人一人が何とか通れる小さな穴。そこからなら、町に出られる。


「私が小さい頃に発見した抜け穴で……、もしかしたらもう修復されているかもしれませんけど」

「わかった。そこをめざそう」

「はい、では急いで――」


 黎が立ち上がろうとすると、なおもシンは黎の身体を拘束し放さなかった。それどころか、黎を抱きしめる力がぐっと増すので、黎もさすがに様子がおかしいと首を傾げる。


「シンさん……?」

「黎。行く前に、話しておきたいことがある」


 シンの声音が変わったのを確かに感じた。黎を動くのをやめ、じっとシンの発言を待つ。


「ここを無事に脱出出来たら、俺は都港に向かう」

「港……?」


 不穏な予感が黎の脳裏をよぎる。そしてそれは的中し、


「俺はこの国を出る」


 黎の心に浅からぬ傷をつけた。国を出る。この宵暁国から、シンがいなくなる。


「元々矢矧の復讐が終わればすぐにこの国を出てアウレア・イッラに向かう予定だったんだ。そこで越田さんと落ち合って、今後の事を考えていければと。そのための準備も済ませていた」


 ああ、と黎は心の奥底で落胆した。聞きたくなかった。シンが、最初からこの国を捨て離れてしまうことなど。でも、それは当然考えられたことだ。だってシンは元々宵暁人ではないから。この国に愛国心などなければ、あっさりと離れてしまうだろう事は予想できたのに。


「そう、ですか――」


 何か気の利いたことが言えればいいのに、黎の頭には何一つ浮かばない。もうあと数時間もすればシンはこの国を去ってしまうかもしれないのに。これが今生こんじょうの別れかもしれないのに。


 ――嫌だ。シンさんと離れたくない。


 心の中で悲鳴を上げる。叫びたいという欲求を抑え込むのに必死で、黎は身体中がきしむように痛んだ。


「だから――」


 ――お願い、言わないで。「さよなら」なんて聞きたくない。


 聞いたら最後、黎の世界の何もかもが崩れてしまいそうな気がして、何かを言われる前に、黎は耳を塞いで拒絶しようとした。

 そうしたら、


「――お前も一緒に来い」


 空気を震わせ顕現したのは、黎が予想していた言葉ではなかった。黎は一瞬固まって、それから不意に顔を上げると、紺碧の宝玉にオイルライターの橙の灯火が纏う瞳が、

 ――宵暁珀の瞳がまっすぐに黎を捕らえていた。


「……一緒に来い、って――」

「お前も軍部と皇太子に離反した以上この国にいるのは危険だろ。だから、亡命した方がいい。……実はそのための準備も進めてある。万一のために、お前を国外に逃がす道を」

「ま、待ってください――。私、」

「断ろうとも無理やりに連れていく。お前をこんなところで見捨てたら寝覚めが悪い――」


 そこでふと、シンが眉間に皺を寄せて難しい顔をした。


「……いや、違う。本当はそうじゃなくて」


 彼は言いにくそうに口ごもる。心なしか、彼の頬が赤く染まっているように見えた。


「単純に、俺がお前と離れたくない。だから、――さらって行く」


 言葉が出なかった。


 ――これは夢? いいえ、夢ではない。


 黎の中で繰り返される自問自答。黙り込んでしまった黎の顔を、シンが不安そうにのぞき込んでいた。


「――黎?」


 名前を呼ばれた瞬間、黎の中で時がまた動き出す。夢じゃないと理解できた瞬間、身体中が歓喜に震えて、自然と涙がこぼれてきた。突然泣き出してぎょっとする黎に、シンは驚いて目を見開く。

 黎は無我夢中で目の前の人にすがりついた。夢じゃない、これは現実。そう心が理解する度涙が溢れだす。


「――はい。私も、貴方と離れたくない」


 黎が答えると、返事の代わりに深い抱擁が黎を包み込んだ。




 日が完全に沈んだ頃合いを見計らって、黎たちは動き出した。見つからないように植え込みの陰などを利用しながら庭を進み、記憶を頼りにくだんの場所をめざす。


「――あった!」


 その穴はかつてのままそこにあった。ふさがれているどころか、さらに月日が経って老朽化し穴は広がっているようにさえ見える。


「この穴、山の裏手の道に繋がってるんです。その道を下っていけば、町に出られます」

「へぇ……」


 シンは興味深くその穴を観察し、そして黎に目を向ける。


「通った事あるのか?」

「……ええ、まあ」

「……」

「……何ですか、その顔」


 にやにやと含み笑いを浮かべるシンに怪訝な視線を向ける。シンはそれ以上口にしないが、言いたい事はなんとなくわかる。


「まあいい、見つかる前にとっとと行こうぜ」


 シンは身を屈めると躊躇ちゅうちょなくその穴に滑り込んだ。シンの体格でも難なく通り抜けられるとわかって、黎はその後について行った。

 幼い頃、小夜と二人でこの抜け穴を通った事を思い出した。重い晴れ着を引きずって、汚して、でも穴を抜けた時に見た帝都の景色はどこまでも広く美しくて、圧倒された。

 シンに手を借りて穴を抜けきった。服に付いた土ぼこりを払い顔を上げると、そこにはあの時と同じ、帝都の夜景が広がっている。


「本当に、あそこで見た景色とそう変わらないな」


 シンがぽつりと呟いた。あそことは、黎がシンと初めて出会った日訪れた貧民区の事だ。黎が変わらない景色だと言った事を覚えてくれていたことに、嬉しくて笑みをこぼす、と。


「――随分ゆっくりしてたのね」


 黎たちにかけられた第三者の声。シンが反射的に黎をかばい、その声の主を振り返ると、


「――小夜」


 そこに立っていたのは黎と同じ顔の女。最後に相対した時よりもずっと美しくなったもう一人の黎が、冷ややかな目で黎を見据える。

 黎はその視線に応えるように、シンの前に進み出る。


「おい、黎」

「大丈夫です。シンさんは、そこで待っていてください」


 戸惑うシンを押しのけて、黎は小夜の前に立った。久しぶりの再会だからか、ひどく緊張している。でも、恐れてはいけない。相手は小夜。黎の事を一番理解している人間。

 そして、――恐らくこれが最後の逢瀬だ。


「久しぶり、小夜」

「ええ、久しぶりね。しばらく見ない間に随分堂々とするようになったじゃない」

「そうかな?」

「そうよ。あんたはいつだって、私の後をついてくるだけの臆病者だった。泣き虫で、そのくせ正義感だけはいっちょ前に強くて、――正直、あんたのお守は面倒で仕方なかった」


 小夜が吐き捨てるように言った。黎もそれを静かに受け止める。


「だからあんたがいなくなってくれてせいせいしたの。これで私は煌様と一緒になって、将来は国母になって、この国の女の子たちが誰もがうらやむ立場になれるんですもの。私はすべて手に入れたわ。地位も、名誉も、愛する人も」


 黎はじっと小夜の言い分を聞く。


「だから私には、他にもう何もいらないの。面倒な妹のおもりなんてもうたくさん。――だから、あんたはどこにでも好きなところに行きなさいよ」


 以前にも同じことを言われた。どこでも好きなところに行けと。あの時小夜にそう言われて、黎はすごく悲しい気持ちになった。大好きな姉を裏切る事の罪悪感と突き放された悲しみに打ちひしがれた。でも、今小夜が言った言葉は、そういう意味じゃない。それはもう、黎にもわかるようになった。


「小夜の言いたいことはそれだけ?」


 だから今度は黎の番だ、と。一歩小夜に近づく。


「小夜、私はずっとあなたに憧れていた。臆病で、泣き虫で、一人じゃ何にもできない私をただ一人外の世界に引っ張ってくれたのは小夜だった。だから、私はずっと小夜の側にいて、小夜が幸せになるために私の全てをささげようと思った」

「……っ!」

「自由なんていらないと思ってた。私はこの世に小夜さえいれば幸せだって、本当にそう思ってたよ」

「――でも、今は違うくせに」

「うん、そうだよ。今は違う」


 黎はちらりと背後に控えてくれているシンを垣間見た。


「どうしても、一緒にいたい人が出来たの。この国よりも、小夜よりも大事にしたいと思った人が出来たの。だから――ごめん。私は、貴女を裏切る」

「――っ」

「でも私、遠くに行ってもあの約束は忘れないから」

「約束……?」


 黎は手を伸ばして、小夜の手を掴んだ。祈るように手を合わせ、額同士がくっつくくらいの距離で囁いた。


『たとえこの世界の皆が敵になったって、私は貴女の味方でいる』


 小夜の美しい黒曜石の瞳から涙が一つ零れ落ちた。

 遠い昔、寝台で寄り添って誓い合ったあの子供の頃の約束。ずっと一緒にいる事は叶わなくなったけど、これだけは、絶対に違えない。


「小夜、貴女は素晴らしい皇后になれる。煌様を支えて、誰からも愛される」

「黎……っ!」

「どうかこの国を正しく導いて、私の愛した国を――永久とわに守って」

「黎、大好き――大好きよ……! 私は――」

「うん。私も、小夜の事大好きだよ」


 二人の少女はお互いをきつく抱きしめ合った。これでもう、二度と会う事はない。

 今一瞬だけ、時が止まってしまえばいいと思った。――でも、それだけ。


 黎は小夜の身体を放すと静かに距離を取る。振り返ると、黎の愛しい人がすでに手を差し伸べてくれていた。


「――行くぞ」


 黎は迷わずその手を取って、町へと下る山道を振り返ることなく駆け出した。




 やがて宵闇にまぎれて、宮廷から離れていく二つの影。あとに残されたのは、涙にくれた未来の国母一人だった。

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