第十一話 彼らが最後に手にしたもの⑤

 ◆

 発煙弾の煙が晴れて、ようやく執務室に落ち着きが戻る。供も付けぬまま小夜がその部屋に滑り込むと、そこにはもう煌しかいなかった。椅子に深く腰掛け項垂うなだれたまま、遠くで宮廷の者たちが侵入者を捕らえるため奮闘しているのを聞いている。


「煌様」


 小夜が呼び掛けると彼はようやくこちらを向いた。目が落ちくぼみ、やつれた姿は太陽の化身だと称された皇太子の見る影もなかった。


「小夜……、私は」


 一連の騒動は小夜もこっそり見ていた。男に連れられここを逃げていく黎の姿も。


「私は、なんと愚かな男なんだ。お前というものがありながら、ずっと、ずっと――黎に心を焦がして」

「……」

「未来の帝とあろうものが、たった一人の女のためにむきになって、情を捨てきれずに正しい判断が出来なくなった」


 しおしおと崩れる煌は今まで小夜が見てきた威風堂々とした煌からは想像もつかなかった。同時に小夜は痛感する。こんな変わり果てた姿になってもなお、小夜は煌の事が愛しくて仕方なかった。


「そうですね。今の貴方は皇帝失格です」


 小夜が無慈悲に告げると、煌はびくりと身を震わせた。まるで叱られた子供の様に塞ぎ込む煌に近づいて、その身体を優しく抱きしめた。


「でも……、一人の人間として貴方は間違った事はなさらなかった。貴方は黎を罰しなかった。たった一人愛した人に手を上げなかった。貴方は間違いなく優しいお方です」

「だが……っ、それでは皇太子としての――」

「煌様。一度冷静になってみませんか?」


 小夜は子に言い聞かせるように、煌の頬を包んで上を向かせた。


「貴方は一人の男である前に皇太子。その心意気は御立派です。ですが、……私はそうは思いません。貴方は皇太子である前に、煌という一人の人間なのです」

「……っ」

「人間は無感情ではいられない。どんな時にも必ず情が動きます。たとえそれが、非効率なものであっても、ダメだとわかっていても、それを抑え込むことなど、出来ないのです」


 煌はずっと耐えていた。皇太子という、一国の未来を背負って立つ重責に、誰よりも押しつぶされそうになっていたのは、この人だ。


「だからいいんです。時には感情のままに動いても。貴方は昔から奔放ほんぽうな方だったじゃないですか。勝手に宮廷を抜け出したり、突然押しかけて迷惑なお土産を寄こしたり。あの時の貴方こそが、誰よりもこの国を導くものにふさわしいと思います」


 くすくすと小夜が笑うと、伏せっていた煌の目が徐々じょじょに光を取り戻す。


「ふさわしくないというのなら、ふさわしくなれる様に傍で支えます。弱音を吐いたら、しっかりしろと叱ってあげます。そのために、妃がいるのですから」

「小夜……」

「煌様、私は皇太子妃です。ゆくゆくは貴方とこの国を支える国母になる。でも、その前に一人の女として、貴方に言いたいことがあります」


 小夜は煌から少し距離を取ると、まっすぐに彼を見て言った。


「私はずっと、ずっと、――初めて会ったあの日から貴方の事が好きでした。貴方と夫婦になれた事が、本当に嬉しいんです」


 生まれて初めての告白は、自分が思うよりもずっと重くて、尊かった。


「私は貴方と一緒になれて幸せです。これからも貴方の支えになりたい。貴方が誰を想っても、私は貴方を想い続けます。皇太子妃としてではなく、ただの小夜として、貴方の側にいさせてください」


 言い終わる前に、小夜は煌に強く抱きしめられていた。初めて心が通ったような気がして、小夜は涙をこぼす。


「ありがとう……、ありがとう小夜」

「煌様――」

「お前の事も愛しているのだ。これは嘘偽りない、本当の気持ちだ」

「ええ、存じております」


 煌の愛情が本物かどうかくらい、小夜にだってわかっている。だから小夜は煌をずっと慕い続けてこれたのだから。


「煌様、黎の事はお任せください。煌様は、煌様が出来る事をなさって」

「黎を……? 一体どうする気だ?」

「彼女にも同じことを言ってきます。大丈夫、私は黎の姉ですから、どこにいるかわかります」


 そう言って小夜は、慈愛の微笑みを浮かべた。全てを包み込んでくれる国母の微笑みだった。


 ◆

 混乱する宮中を人気のないところを目指しシンは走り続けた。黎はそんな彼に横抱きにされ、落ちないようにすがりながら彼の顔を覗き込む。

 シンは随分と憔悴しょうすいしているようで、今にも倒れそうだった。このままでは彼が危険だと判断した、黎はあたりを見回しどこか隠れる場所はないかと探す。


(ここは、――内裏だいりの中だ)


 いつの間にか黎たちは本殿から裏手の内裏に迷い込んでいた。珀宮はくのみやの内裏は広く、奥地に入り込んでしまうと、女官たちも滅多に通りがからない。


「シンさん、どこかの部屋に入って一度休みましょう」


 黎が提案すると、シンがややあってとある部屋の前で立ち止まり、引き戸に身を滑り込ませた。

 室内は停滞した空気が充満し黴臭かびくさい匂いがした。十畳ほどの広さの部屋に明かりはなく物が乱雑に詰め込まれている。納戸なんどのようなところだろうか。

 部屋に飛び込むと、シンががくりと膝をつき、黎は慌てて彼の腕から飛び降りた。


「シンさん!」


 暗がりでシンの様子を確かめる。


「平気だ」

「でも……、顔色が良くありません」

「大丈夫だ、外傷はない。少し疲れただけだ」


 そう言うとシンは近くのへりにもたれ掛かり、ゆっくりと深呼吸をする。黎は彼が落ち着くのを少しばかり待ってから、ようやく彼に質問する。


「……どうして、私がここにいる事がわかったんですか?」


 聞きたいことがたくさんあったはずなのに、黎はただそれだけを絞り出して言った。あの時黒ずくめの集団に連れ去られ、トライベインの大使館に軟禁され、そして新堂に連れ出された。シンに黎の居場所を教える術はなかったのに。シンはちらりと黎の方を一瞥いちべつしたのち、静かに口を開く。


「――探した」

「え……」

「お前が連れ去られてから、使える奴は全部使って、お前の足取りを追った。しらみつぶしに探して、ようやくお前がトライベインの大使館に拉致されてるとわかって――」


 シンはまた一呼吸置く。薄暗がりの中ではあるが、少しシンの顔色が落ち着いてきたように感じる。


「また追っかけて、でも、お前はもう大使館を脱出していて、それでどこに行ったかを考えた。軍部にも連行されてない、恐らく一時的に自由の身になった。――なら、自由になったお前ならどこに行くかって考えて……」

「それで、宮廷まで乗り込んで来たんですか?」

「お前、皇太子に会いたいって言ってただろ?」


 黎が隠れ家から連れ去られてから一日以上経っている。あれからずっと、この人は血眼ちまなこになって黎を探していたのだ。休む間もなく、こんなぼろぼろになるまで――。


「まあ、宮廷の入り口で新堂って奴が随分と騒いでたんでな。助けてやったついでに、色々と事情を聞いた」

「新堂様はご無事なんですか⁉」


 黎をここまで送り届けてくれた新堂の安否が気になっていたが、どうやら彼は運よく追ってから逃れたらしい。そのことに安堵し、黎はほっと胸を撫でおろす。


「ここに乗り込むにあたって少し協力してもらった」

「あ……、ひょっとしてさっきの爆発音も……」

「程よいところで騒ぎを起こしてくれって頼んだから、たぶん、そうだと――」


 喋りつかれたのかシンがぐらりと脱力する。倒れそうになるのを黎が慌てて支えた。シンの頭を肩に乗せ、彼が楽な体勢を維持する。少し浅い呼吸を繰り返すシンをなだめていると、黎の中にまたシンと再会する前の想いがこみ上げてきた。


「シンさん、ごめんなさい」


 シンの身体がピクリと動いた。


「私のせいで、みんなが――伊地知さんが、あんなことになって」

「……」

「本当は、私……っ、もう貴方に顔向けできる立場じゃないのに……」


 あの時の惨劇を思い起こすと、それだけで涙が浮かんでくる。泣いたって彼らは戻ってこないのに。

 シンは黙ったまま何も言わなかった。怒っているのかもしれない。いや、怒って当然だと絶望に打ちひしがれている黎の頬を大きくて温かなてのひらが包んだ。


「――お前のせいじゃない」


 額がこつんと触れ合った。間近にある青い宝石がまっすぐこちらを捕らえている。暗がりでも強く輝く、宵暁珀しょうぎょうはくの瞳は、黎の事をいたわる様に揺れていた。

 黎は上手く呼吸ができずに固まってしまう。だって、こんなに近くに、シンが――愛する人がいるなんて。


「あ……、」


 自分でもよくわからずに何か言葉を発しようとして、でも言葉にならずに惑っていると、シンはもう離れていってしまった。


「少し休む。ここならしばらくの間身を隠せるだろ」

「――あ、はい。私、見張ってます」


 奥座敷に人の気配は感じられず、しばしの休息が得られる。シンは壁にもたれ掛かったまま、静かに目を閉じた。やがて規則的な寝息が聞こえてくると、黎は起こさないようにシンの隣に寄り添って座った。

 ふと、改めてあたりを見渡すと、雑多に押し込まれたものの中に、小さな童子人形が置かれているのを見つけて、黎は思わず小さな悲鳴を上げた。


(そうだ……、ここって昔、小夜と一緒に忍び込んで、人形が怖くなって泣いたところ)


 俄かに幼い頃の記憶を思い起こし、身をすくませると、


「……どうした?」


 まだ完全に眠りについていなかったシンが、少しかすれた声で呟いた。


「あ、いえ、人形が――」

「人形? ……ああ」


 シンもその童子人形を発見すると、彼はほんの少しだけ小さく笑って、その人形の視線から黎を守るように抱きしめた。


「ただの人形だ。何も怖くない」

「っ、はい……」


 シンはちょっと面白そうに黎を宥めてくれた。黎はというと、あまりに近くに感じるシンの気配に、恐怖なんて一瞬で吹き飛んでしまって、今や恥ずかしさで全身が熱かった。


(暗くて顔が見れなくてよかった。こんな顔、シンさんに見られたら……)


 きっと黎の顔は今、これ以上ないほど真っ赤だ。そんな黎の動揺など気にも留めていないのか、シンはまたゆっくりと微睡まどろみに落ちていく。

 幼い頃、この部屋に忍び込んで恐ろしくて泣いた。隣に小夜がいても、恐怖は打ち消せなくて、小夜と一緒に震え上がって、一緒に泣いた。


(いや、泣いたのは私だけだっけ?)


 小夜は気丈にも泣かなかった。黎ばかりがいつも目を腫らして泣いて、わめいて、みんなを困らせていたのに。

 今は不思議だ。何も怖くない。

 シンのそばにいれば、どんな恐怖にも打ち勝てる。そんな気がした。

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