第十一話 彼らが最後に手にしたもの③

 煌の執務室はとても簡素だ。普段机仕事を好まない煌はあまりここにいる事がないのだと、以前話していたのを思い出す。

 窓際に立っていたのはスーツに身を包んだ煌だった。その表情は険しい。黎がいつも太陽のようだとしょうしていたあの快活な笑みではなくて、暗くどんよりとした曇天どんてんの様な、それでいて雷のように鋭い目が黎を穿うがった。

 後方で扉が閉められる。煌と二人きりになった黎は、いよいよ勝負の時がやってきたのだと、腹に力を込める。


「まさか君からここを訪れてくれるとは思わなかったよ」

「煌様……、ご心配をおかけして申し訳ございません。お二人の婚礼の儀にも立ち会えず、皇族の責務を放棄した私はもはや貴方の前に立つ資格などありません」

「……」

「ですがそれでも、貴方に聞き届けていただきたいことがございます。そのために私は、意地も恥もかき捨てて、命をも捨てる覚悟で貴方の元に参りました」


 黎は深く頭を下げる。精一杯の誠意を込めて、黎は煌に嘘偽りない真実を述べる事だけを誓った。痛い沈黙が二人を包む中、


「黎。お前がアウレア・イッラを経由して暴露した、あの記事の内容は真か?」


 煌がようやく問いを発した。弁明の余地を与えられたことに、黎はほっとして顔を上げる。


「真実にございます。私はこの目で見たのです。あの日、新聞社襲撃の事件の折、赤軍を公園に追い詰めた碧軍が彼らに向かって一斉に発砲しました。多くの民間人がいたにも関わらず、彼らを巻き込むことをいとわずに」


 そう言って黎は、首に巻いていたスカーフを取り去った。煌の顔が驚愕きょうがくに歪む。この首のあとを煌には一度も見せていなかった。


「この傷跡は、碧軍の一人に脅されてついたものです。彼らは赤軍も民間人も見境なく攻撃していた。隠れていた私を見つけ、私に赤軍の仲間であるかと問い、そして銃口を押し付けられました」

「……っ」

「私の中には碧軍に対する恐怖が未だ残っています。この国を守護するはずの軍が、民をあのようにあっさりとほうむり去ったという事実に、私は震え上がりました。そしてしばらくの間、この事実を誰にも打ち明ける事が出来ませんでした。――小夜にすらも」


 小夜の名前を告げた瞬間、煌の顔色は確かに変わった。今小夜はどうしているかと気にせずにはいられない。それでも黎は話を続けた。


「そんな時、赤軍の将、矢矧志貴様が私に手を貸してくださいました。軍部を告発する手段を提供していただく代わりに、私の名を使わせてほしいと。だから私は、――」

「だからお前はしき赤軍の元に下ったというのか?」


 怒りを押し殺した煌の声が、黎の腹の底にまで響いた。


「黎、わかっているのか。君が一体どれほど危険な事をしているか」

「……っ、それは――」

「彼らは犯罪者だ。確かに碧軍の所業は看過かんかされるべきではない。正義感の強い君がそれを捨て置けないのもわかる。だが、赤軍は多くの人間を傷つけ、この国を混乱に陥れようとする元凶だ! そんな者たちと行動を共にするなど……! 君の身に何かあってからでは遅いのだぞ!」

「違います!」


 黎はたまらず叫んだ。ああ、まただ。また、黎の目の前で親しい誰かがシンたちの事を悪く言う。


「確かに彼らは犯罪者です! でも……っ、彼らも人間なんです! 大切な家族がいて、仲間がいる。美味しいものを食べたら嬉しそうに笑うし、一緒に遊戯ゆうぎをすれば楽しそうに盛り上がって、そして大切な人を失ったら――」


 黎の脳裏に浮かぶのは、矢矧の事を語ったシンの顔だ。


「辛くて、泣きたいはずなのに泣かずにずっと耐えるんです。悲しくて、苦しんでるんです。あの人たちは懸命に生きている、普通の一般人と変わらないんです!」

「だとしても、私は彼らを許容することは出来ない。私は君をそそのかしたその者たちを到底許すことは出来んのだ」

「そんな! どうして!」


 どうして誰も彼らの事情を理解しようとしないのだろう。どうして彼等ばかりがそのようなそしりを受けなくてはいけないのだろう。


「……煌様、貴方は今回の発砲事件の真相をご存じだったとお聞きしました」


 その瞬間、煌の顔が初めて青くなった。痛いところを突かれたと、その表情は如実に語る。


「発端は赤軍たちの悪行だったかもしれない。ですが、責められるべきは彼等だけですか? 碧軍の処遇はどうなさるおつもりなのですか?」

「――っ」

「煌様。私は貴方の事を信じられる。寛大な方だと思っております」


 怒りで声が震える。煌を信じるという言葉を紡ぐのとは裏腹に、目の前の男に対するいきどおりが沸々ふつふつと煮えたぎる。


「この国を統べる君主として、この国のすべての臣民を深く思ってくださると、そう思っているのに……」

「ああ、もちろん。思っているさ」


 煌の声と瞳はまるで氷の様に冷たかった。あの温かく、いつ何時も太陽を感じさせる煌らしさはもうない。黎にとってそれが何よりの絶望だった。


「では何故、過ちを犯したというだけでその想いを彼らに向けてくださらないのですか! 何故頭ごなしに否定するのですか! 私は私の意思で彼らに協力した。そそのかされているわけでも、脅されているわけでもない! 私は純粋に、あの人の力になりたいと思ったから、こうしてここに立っているんです!」

「あの人……?」

「何故彼らが政府に楯突き暴挙に出るような真似をしたのか、理由をお知りになりたいとは思わないのですか⁉ どうしてシンさんが――」

「その男の名を呼ぶな!」


 突然、黙っていた煌が激高した。その勢いに黎は喉を痙攣けいれんさせ黙り込む。


「お前こそわかっていない! 私が何故、ここまでお前の謀反に怒っているのか! 何故そこまで、お前の身を案じ、お前に近づくものを卑下ひげするのか! お前は何もわかっていない!」


 激しい怒りに黎は言葉を失った。本能的な畏怖が身体を支配する。やがて煌がゆっくりとこちらに近づいてきた。巨人に睨まれたように、黎は指一本動かせずすくみ上る。そして、


「黎、私は一人の男である前に皇太子だ。この国を導くために生まれた。……そうだ、君の言うとおりだ」


 煌の切迫した声に黎の心臓が引き絞られたかのように痛む。こんな煌は初めてだった。


「昔、お前にも話したはずだ。私はこの庭に離された蛍と同じ。自由には生きられない、国の統治者としての皆の期待を背負い、それに応えねばならないと……っ」


 目の前にやってきた煌が黎の手首を強くつかんだ。


「だがお前は言ってくれたではないか! 箱庭の中にあっても幸せがあると、誰かが共にあり、寄り添ってくれればいいと!」

「そうです、ですから小夜が――」

「私が傍にいて欲しいのはお前なのだ!」


 一瞬、目の前が真っ白になった。空気が破裂して黎の全身を襲い、頭から指の先に至るまで鈍い痺れが駆け巡る。


「……え」


 喉がひりついて上手く声が出せない。今、耳に入ってきたその言葉が何度も何度も頭の中で反芻はんすうされた。


(傍にいて欲しいのは、――私)


「あの夜、お前は私にそう言ってくれた。あの言葉で、私がどれほど救われたのか、お前にわかるか」

「わ、たし、は――」

「私はあの瞬間、お前こそが共に添い遂げる者なのだと思った。月光の下で微笑むお前を我が君であると確信して――お前こそが私の婚約者なのだと嬉しくなった」


 そんな、違う。あの時黎は、そんなつもりで彼を励ましたのではない。


「お前ではないと知った時、私はそれを口惜しく思った。もちろん小夜の事も愛おしく思っている。だが、――私が本当に添い遂げたかったのは」


 掴まれた腕を引き寄せられて、煌は黎を抱き寄せた。大きな腕の中に黎は囚われる。出会ってから兄の様に慕い、将来の義妹として幸せを願ってきたその人は今、


 ――全く知らない男の顔をして黎を抱きしめる。


「やっ……、放してください!」


 黎はあらん限りの力を振り絞り煌を拒絶した。恐怖で全身が強張るのを必死に抑えながら黎は煌から距離を取ろうとする。それなのに、


(全然振り払えない……どうして⁉)


 黎は理解していなかった。今まで兄と慕い続けてきたこの男が、腹の底でどんなことを考えていたのか、そして、それが大切な小夜を裏切ることに繋がる事も。

 なにより、黎はこの長年の間無意識に煌を傷つけていたのかと思うと、底知れぬ罪悪感に黎のまなじりに涙が浮かぶ。

 徐々に視界が歪んでいくにつれて、黎の抵抗する力もしぼんでいく。意識が遠のき、目の前が真っ暗になっていく。

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