第十一話 彼らが最後に手にしたもの①
◆
どれくらい時間がたったのかわからない。黎は
「黎様、お迎えが来ましたよ」
モーリーがやってきて、黎に死刑宣告を下した。
「誰が来たと思う?」
モーリーは愉快そうに頬を
程なくして、応接室に一人の男が顔を出す。その人物の足元が見えた。紺碧のズボンに金飾り、磨かれた靴が無慈悲にも冷たい音を立てた。
――碧軍。
恐らく黎にとって最悪の人選だと思った。碧軍は黎の事を排除したがっている。真相を知り、軍を混乱に陥れた黎を亡き者にしようとしている彼らに連行されて、黎はどうなるかなど悪い想像しか起きない。だが、
「――黎様」
聞き覚えのある若い男の声。顔をあげると、軍人にしては柔和で線の細い男が思いつめた顔をして立っていた。
「新堂様……」
黎の婚約者、――いや、もう到底そうは言えない関係となってしまった男は、黎を
「はは、良かったですな。愛しい婚約者が迎えに来てくれるとは、黎様は愛されておられる」
「……」「……」
愉快そうなのはモーリーだけで、黎と新堂の間に重苦しい空気が流れた。新堂は思いつめた顔を引き締めると、モーリーに堂々と宣言する。
「久遠院黎様の身柄は我々陸軍が預かります。保護して頂き、誠にありがとうございました」
「ああ、准将閣下殿にもよろしく伝えてくれ。――ああ、もう准将殿はいなかったんだったか」
高笑いがこだまする。これで碧軍はモーリー、――いや、トライベインに借りができた。以降碧軍はトライベインを捨て置くことができなくなる。
「では参りましょうか、黎様」
白い手袋に包まれた手が差し伸べられる。黎はもはや反抗の意思などなく、その手を取った。
「お見送りは結構です、ミスターモーリー。貴方も忙しいでしょうから」
「わかりました。婚約者同士の時間を無下にするほど
どこまで本気かわからない冗談を飛ばして、モーリーは黎たちを見送った。玄関に続く長い廊下を新堂に手を引かれて歩く。
彼の姿を見るのは婚礼の儀の日以来だ。あの日、シンに
謝らねばならない。あの時彼を拒絶して、結果的にけがを負わせてしまったのだから。
「あの、新堂様――」
だが、謝罪を述べようとした瞬間、新堂の手が黎の身体を強く引き寄せる。ふらついた黎の身体を新堂がしっかりと抱きしめ、黎は新堂の腕の中に閉じ込められた。
「⁉」
突然の事に理解が追い付かない。だが、そのあまりの力の強さに反射的に抵抗を試みようとするが、
「申し訳ありません黎様、このまま聞いてください」
黎にしか聞こえないような小さな声。耳元で
「姿は見えませんが、恐らくモーリーの部下がどこからか監視しています。ですのでまずは手短に言います」
「……」
「黎様、貴女をこのまま殿下の元へお連れします」
思いがけない提案に、黎は目を見開く。碧軍の新堂が迎えに来たのだから、てっきり陸軍の元に連れていかれるのかと思ったのに。
「本当は今日は、軍の命でここに来ました。貴女を迎えに行き、軍部に連れてくるようにと。ですが俺は今から、その命に
黎は混乱していた。どうして、軍人の新堂がそんな事を言うのだろう。と、新堂は何食わぬ顔で黎から離れると、にこりと
「すみません。貴女を無事に保護出来て、舞い上がってしまいました」
「――いえ、構いません」
監視しているという部下の気配は読み取れない。だが、どこからか見ているというのなら、この屋敷を出るまで不穏な動きを悟られてはいけない。
「では、車に戻りましょうか」
そう言って再び繋がれた手は酷く強張っている。その手から伝わる、戸惑い、恐怖、そしてゆるぎない決意。
大使館の表に止められた車に乗り込むと、新堂はゆっくりと発進させた。バックミラー越しに、一台の車もまた同じように発進したのを確認し、黎の身体が強張る。
「すぐに皇居に向かうとばれます。陸軍の詰所に向かうふりをして、少し大回りします」
「あの、新堂様。どうして――」
完全に二人きりになったところで、黎はようやく聞きたかった質問を投げた。すると、
「……俺は元々、例の発砲事件に懐疑的でした。相手が赤軍とはいえ、民を傷つけた罪を他人に
「そう、だったのですね」
「加えて貴女を赤軍の同胞だと断定するような記事の公表。まあ、貴女のその様子だと、あれはおおむね間違ってはいないのでしょうが」
黎は観念して素直に頷く。
「だが、告発記事を出したのは貴女を糾弾するためではない。発砲事件の件を知っている貴女を排除するために、
「……っ、では、軍部が私を迎えに来たのも」
「このまま貴女を連れて行けば、貴女は確実に表を歩けなくなる。赤軍の奴らに
精神的に追い詰められ、黎は心を殺されたただの人形になるのか。あまりに
「黎様、俺は以前軍人に
運転しながら新堂は真剣な目でそう言った。恐ろしいほどまっすぐな目だ。新堂はもう覚悟を決めている。上官に背いてでも、己の信念を貫きとおす事を。どんな報いを受けようと成し遂げると腹をくくっている。
「では、何故私を煌様の元に?」
「煌様も事件の真相には気づいておられます。でも、恐らく煌様も黙認していた。軍を糾弾することで、国防に亀裂を入れる事を恐れていたから」
その事実は少なからず黎にショックを与えた。一時期、黎が誰にも言えず悩み続けていた事を煌はとっくに知っていた。あの時煌が声を上げていれば、事態はまた少し違ったのかもしれないのに。でも、
「煌様の判断は間違っておりません。あの方は未来の皇帝としてこの国の事を第一に考えなければならないのですから」
「そうですね、未来の皇帝としては正しい判断だ。でも、俺は一人の男としては間違っていると思います」
新堂はきっぱりと言い放った。
「あいつの目を覚まさせます。……いや、ここまでくればあいつはもう目を覚ましているかもしれない。だから俺は貴女を殿下に合わせます。そして貴女自身の事も救いたい。そのための唯一の活路が、煌様と会う事だと思うから」
車は信号で止まり、しばしの沈黙が訪れる。
「黎様、申し訳ありませんでした」
新堂は前方を見据えたまま謝罪の言葉を述べた。
「あの時、――婚礼の儀の時、俺はどうかしていた。貴女が赤軍と通じているかもと分かった時に我を忘れて、貴女に迫るような真似を」
「そんな……、新堂様は何も悪くないではありませんか!」
悪いのは碧軍との事を隠し新堂を避け続けた黎だ。陸軍将校という立場上、あの時の黎を野放しにすることなど出来なかったのは当然なのだから。
「黎様。こうなった以上、俺と貴女の婚約は解消せざるを得ません」
「――はい」
それは当然の成り行きだった。反逆者となり、軍部にも捕らえられる身となった黎を婚約者として扱う事は、もう新堂にとっては何のメリットもない。
「――ですが、俺個人としては貴女の事は嫌いではなかった。むしろこんな形にならなければ、いい夫婦になっていたかもとさえ思いましたよ」
その意見には黎も賛同した。新堂とデートに行ったあの日。黎は心から楽しいと思ったし、この人の手を取って歩みゆく人生も悪くないと思った。
でも今は、もうそれはもう叶わぬ夢なのだと黎自身も気づいている。
「ですから、俺は貴女を守ろうと決めたんです。仮初であったとしても、俺は貴女の事を大事にしたいと、そう思ったんですよ」
そう言って、新堂は黎に笑顔を向けた。陽だまりの様な温かい笑みに、黎もようやく新堂の顔をまともに見て笑う事が出来た。
「でも本当は黎様は、別に行きたいところがあるんじゃないですか?」
「え?」
そう問われて、はたと気づく。別に行きたいところ。別に、会いたい人。
「……いえ、私は、もう」
あの人には顔向けできない。黎を庇って伊地知さんを犠牲にしてしまった手前、どんな顔をすればいいのかわからない。
「悪いですが俺はそいつの元には案内できません。一応立場があるし、接点もありません。第一殴り飛ばされた奴に義理立てる理由もありませんから」
「……」
「でも、黎様。後悔したくないならどんな手を使ってでも会った方がいいです。これは陸軍将校新堂大尉としてではなく、ただの新堂貴斗としての意見です」
その願いが叶うのか、黎にはもうわからない。今はただ、新堂を信じ煌の元へ向かう事だけを考えようと、そう思って己の感情に蓋をした。
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