第十話 惨劇の果てに⑥

 黎が来客だろうかと首を傾げる一方、三善は急に緊迫した顔つきになって立ち上がった。台所にいた伊地知も異変に気付いて顔を出す。


「誰か来たんでしょうか?」

「俺、様子を見てきます。黎様はここにいてください」


 三善が立ち上がってリビングを出ていった。黎は胸のざわつきを押さえながら、伊地知と共にじっとその場に待機する。――と、


「⁉」


 銃声が聞こえた。それから誰かの怒号も。明らかな異常事態に黎は思わず立ち上がる。


 まさか、まさか――。


 激しい動悸どうきに息も荒くなる。身体が硬直して動けない。黎は思わず首元に手をやった。そこにある消えないあざうずいた気がして、黎は全身から血の気が引く。

 バタバタと廊下をかけてくる足音が響いた。目の前の扉が勢い良く開かれると、頭から血を流した三善が飛び込んでくる。


「黎様! 逃げてください!」

「えっ、……一体何が――」

「特高です! あいつら黎様を探してます! 早く勝手口から――」


 だが、三善は話の途中で背後から何者かに殴られ鈍い音を立てて床に倒れ伏した。黎が小さな悲鳴を上げると、三善をまたいで彼を昏倒させた人物がリビングに押し入ってくる。


「……久遠院黎様ですね?」


 手には警棒。顔を黒い布で覆い、わずかな隙間から鋭い眼光が覗いていて、黎は怖気おぞけが走った。


「御前にこのような格好で申し訳ありません。ですが、我々は貴女の敵ではありません」

「貴方方は何者ですか?」


 思いの外礼儀正しい態度に、黎も恐る恐る尋ねる。部屋には最初に現れた一人を皮切りに五人ほどが入ってきた。いずれもみな顔を隠し、規則的な動きをする。機械のようで不気味だった。


「我々の素性は明かせません。ですが、我々は貴女を安全なところに連れていくようとある方から命をおおせつかりました」

「ある方? 一体――」

「こちらでは明かせません。ひとまず、我々に御同行くださいますよう」


 すると黒ずくめの男たちが黎を取り囲むように展開した。まるで犯罪者を追い詰めるように、その威圧感に黎は思わず後ずさるが、室内では逃げ場などなくあっという間に囲まれる。


(まるで保護するみたいに言っているけど、こんなの絶対おかしい)


 黎は入り口で倒れている三善を一瞥いちべつした。気絶しているだけだと思いたい。でも、ピクリとも動かない身体から呼吸の気配がしない。


 怖い。

 得体のしれない恐怖が黎を襲い、身体強張らせていると、


「黎様!」


 黒の集団に果敢にも割って入り、黎を庇う者がいた。黎よりもずっと小さい、しわ枯れたひ弱な老婆が、黎を男たちの視線を遮るように立ちふさがる。その手には台所から持ってきたのか、包丁が握られていて黎はぞっとした。


「逃げてください、黎様!」

「伊地知さん⁉ だめです!」


 武器を持った恐ろしい男たちに伊地知は震える手で包丁を構えた。あの穏やかな伊地知が、凶器を誰かに向けているという事実が、黎を恐怖に陥れる。


(だめ、この人たちを刺激したら――)


 三善を傷つけた人間が、老女とはいえ凶器を持ち出してきた人間を見逃してくれるわけがない。このままでは、伊地知の命が危ない。

 そして黎の恐怖は、最悪の形で具現化した。


 パァン


 乾いた銃声が一発。男の一人が握っていた小銃から発射された銃弾が伊地知の細い身体に吸い込まれた。


「伊地知さん!」


 黎は悲鳴に近い声で伊地知の名を呼ぶ。慌てて駆け寄ると、伊地知はまだ生きていて、小さな呻き声をあげた。

 生きている。でも、早く治療をしなければ――、


「⁉」


 だが、無情にも黎は無理やり伊地知から引きはがされ、男たちに拘束された。


「無礼をご承知おきください。黎様」

「待って! お願い! この人の手当てをさせて!」


 足元にじわりと紅い池が広がり始めた。黎は必死に抵抗する。だが、黎の力ではこの男たちには到底かなわなくて、


「お願いします! 大人しくついていくから!」

「……」

「ねぇ! どうして聞いてくれないの! 伊地知さんが死んじゃう!」


 黎は大粒の涙を流して訴えた。でも、目の前の機械人形の様な男たちは一切耳を貸す事もなく、黎を玄関まで引きずっていく。

 見えない、見えなくなる。大切だったものが、黎を温かく迎えてくれたものが。

 黎の目に何かが覆いかぶさった。目隠しをされ暗闇の中を運ばれる。自由を奪われた黎は、何もかもを拒絶するように唐突に意識を手放していた。


 ◆

 虫のしらせというものは本当にある物だ。ならもう少し、早くに知らせてくれればよいものを。

 所用で帝都に戻っていたシンは突如足を踏み外したかのように、がくりと地面に膝をついた。


「――?」


 突然自分の意思に反し身体から力が抜けた。底知れない脱力感と虚無がシンを襲い、同時に強烈な胸騒ぎがした。


(なんだ、何が起こって――)


 冷汗の止まらない額を拭って、シンは無意識に矢矧の隠れ家のある方角を向いていた。胸騒ぎの正体に思い至るまでにそれほど時間はかからなかったと思う。

 シンは立ち上がると全速力で駆けだした。辻馬車や路面電車を待つという考えなど至らなかった。ただ、一心不乱に、仲間のいる場所へ駆け出していた。

 やがてシンは隠れ家に辿り着いた。仮初の宿とはいえ、今のシンにとっての安らぎの場と言える隠れ家は、今朝ここを出た時と様変わりしていた。


「矢矧さん!」


 正面玄関前で悔しそうに俯く仲間たちがいる。皆土気色の顔をして絶望に打ちひしがれている。


「おい、何があった⁉」


 彼らがシンの姿を目に移すと、その瞳から大粒の涙がこぼれた。大の男たちが揃いも揃って嗚咽おえつを漏らし、悔しそうに地面に突っ伏す。


「説明しろ! 一体何が――」

「特高の襲撃にあったみたいなんです」


 ようやく一人、重い口を開き事情を説明したが、シンはその言葉に二の句が継げなくなった。


「……ついさっきです。武器を持った連中が押し入って、三善が連れていかれちまったって……」

「俺たちも今報せを聞いて駆け付けたばかりで。それで――」

「黎は⁉ あいつはどうした⁉」


 ここを襲撃されたのなら、黎がらみの可能性は高い。すると、震え上がっていた男、吉村が唇を真っ青にして告げた。


「俺、ちょうど見たんです。黎様が、黒服の男連中に拘束されて車に乗せられていくのを」

「どこに連れていかれた?」

「わからねぇです……。すみません、追えばよかったのに、俺、怖くなって――」


 結局身を隠して彼らを見過ごしたそうだった。黎が連れ去られた。シンにとって最悪の展開だ。だが、それ以上にシンの胸騒ぎを助長するものがあるような気がして、


「……中には誰もいないのか?」


 今日ここに来るよう言っていたのは三善だけ。三善は黎と特高に連れていかれた。黎はともかく、恐らく三善は助からない。特高に捕まって生きて戻ってきた共産主義者はいないのだから。

 だが、シンの問いにそこにいた全員が身を強張らせて黙り込んだ。その反応が示すものを、シンは僅かの間逡巡しゅんじゅんして、そして、


「――!」


 慌てて玄関を抜けまっすぐにリビングに向かった。そこにも、騒ぎを駆けつけて来た仲間たちがいたが、彼らは何故か一か所に固まって呆然としている。


「――矢矧さん」


 こちらに気づいた南出が涙声で反応した。シンは彼らの元に近づき、彼らが囲んでいるそれを凝視する。

 床に広がる血の海の中心に倒れる小さい老婆。血色の良かったはずの皺だらけの顔が、真っ白に、まるで死に化粧でも施されたように白い。


「――シ、ン」


 今にも消え入りそうな声で、老婆はシンの事を呼んだ。まだ息がある、だが、――もう助からない事は誰の目から見ても明白だった。


「……あんた、何やってるんだ」

「……」

「やばくなったら逃げろって、そう言っただろ!」


 シンは思わず怒鳴り声をあげる。周囲のすすり泣きが一層煩わしくなって、シンは苛立ちに拳を強く握りしめた。


「……ごめん、シン。あの子、連れて、いかれちゃった」


 伊地知は苦しそうな顔をして、シンに謝った。


「あんたに、頼むって、言われてた、のに。守れ、なくて、ごめん」

「馬鹿野郎! 死ぬときまで人の事かよ! どんだけお人よしなんだ!」


 確かに黎を頼むと言ったのはシンだ。でも、それは命を張ってまで守れという意味ではなかった。そんな事、こんなひ弱な老婆には頼んだ覚えはなかったのに――。


「シン」


 最期の力を振り絞って伊地知はシンの手を握った。氷のように冷たくて、しわがれた手だった。


「あの子を一人にしないで、お願い、連れ戻して」

「……⁉」

「あたし、泣かせちゃった、から、お願いだよ――シン」


 もううっすらとしか開けられていない伊地知の目から一筋の涙が零れ落ちた。シンの名を呼んだが最後、握られていた手から力が抜ける。


「――伊地知さん」


 シンが呼び掛けても、もうその人は微笑みかけてはくれない。


「――母さん」


 今まで一度として母とは呼んだことがなかったのに、シンの口からは自然とそうこぼれていた。

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