第十話 惨劇の果てに⑤

 ◆

 黎が隠れ家で穏やかな時を過ごしている間も、時勢は刻一刻と変わってゆく。自分の選択に後悔はない。けれども、その選択が誰かの人生を大きく変えてしまうその瞬間を目の当たりにすると、どうしたって黎の覚悟は揺らいでしまう。


「綾辻准将が辞職……」


 先の黎の告発は碧軍に大きな波紋を呼んだ。世論は真っ二つになり、碧軍を糾弾する声も多く集まった。その結果が、軍の中枢を担う将校の辞任。わかっていたこととはいえ、黎は罪悪感に激しく心を痛めた。


「お前が気に病むことじゃない」


 共に朝食をとっていたシンが黎の新聞を取り上げると、畳んで黎の手の届かないところに放り投げた。


「奴はその他にも余罪があった。叩けば埃がぼろぼろ出てくる真っ黒な奴だ。ここで捕まっといて正解だっただろう」


 そういうシンの顔はかたきを一人ほうむり去ったにしては暗い。手にした珈琲を片手にいつも以上に眉間に皺を寄せている。


「皇太子夫妻の巡幸はそろそろ終盤か」

「ええ、明後日には帝都にお戻りになる予定だと」

「なら、俺たちもそろそろ動く時だな」


 どきりと心臓が脈打った。身を隠してから一か月と少し、ようやく煌に会う日がやってくる。


(煌様は私をどう扱う気だろうか。慈悲を下さるのか、それとも――)


 煌だけじゃない。きっと今でも隣に寄り添っている小夜の事も脳裏に浮かんだ。彼女に侮蔑の目を向けられる事だけは耐えられない。そうならないように、祈るしかない。


「俺はこの後出かける。この後三善が顔を出すから、何かあればあいつに言え」

「はい、わかりました」

「伊地知さん。この家とこいつを頼む」

「ええ、任せておいて」


 黎と伊地知に挨拶を済ませると、シンはさっさと外出してしまった。黎は伊地知に珈琲のお代わりを貰って、少し高ぶった気持ちを落ち着ける。


 しばらくしてシンの連絡通り三善がひょっこりと顔を出した。


「黎様、お久しぶりです」

「お久しぶりです。皆さん、お変わりないですか?」

「ええ、今のところは安全ですよ。特高にも目をつけられていませんし、今は軍部の圧力も弱まってますから」


 黎は今朝感じた罪悪感に苛まれながらも、千住荘の皆が無事であることに安堵した。

 三善はシンに頼まれたといういくつかの書類を書斎に置いた後、リビングで黎と共にお茶をした。


「黎様、大丈夫ですか?」


 不安そうな表情が拭いきれていなかったのか、三善は心配そうにこちらを覗き込んでくる。


「潜伏も気が滅入めいるでしょう。ろくに外をうろつけないんじゃ、気鬱きうつになるのも仕方ありません」

「いえ、私は大丈夫です。ここでの暮らしは快適ですよ。本もたくさんありますし、伊地知さんが色々用立てくれますから」

「黎様も家事をお手伝いしてくださいますしね」

「えっ、黎様が?」


 三善は少し意外そうに目を丸くした。手伝いと言ってもシンに珈琲を運ぶくらいしか出来ていないのだが、そもそも皇族の人間が給仕をやるという事自体異例なのだ。


「とにかくっ、私は大丈夫です。むしろ、皆さん忙しいのに私一人のんびりしていていいのか、と思ってしまって……」

「いいんですよ! 黎様には黎様にしかできない事がありますし、雑務は俺たち下々のものに任せてください!」


 三善は勢いよく自分の胸を叩いた。そのカラッとした態度に黎の気分も少し軽くなる。すると、


「あの、こんな事黎様に聞いていいかわからないんですけど」

「はい、何ですか?」


 少し気まずそうに切り出す三善に、黎はじっと彼の言葉を待つ。


「黎様が会おうとしている、皇太子殿下――煌様とは、どのような人なんですか?」


 黎はふっと息を詰めた。三善達庶民にとって、皇太子煌は雲の上の人。それこそ、神にも等しい存在。いくら一般参賀でその姿を拝んでも彼の人となりの全てが見えるわけではない。

 黎はここ一か月、何度も煌の事を考えていた。三善達もきっと同じなのだろう。だから黎は、ありのまま、黎が知っている煌の姿を告げた。


「――太陽のような人です」

「太陽の様な――」

「はい。傍にいるだけで心が温かくなる笑顔の眩しい、太陽の化身。煌様は、私にとってそんな光の様な人でした」


 黎の言葉に三善が感嘆の声を上げる。きっと彼の中には完璧な皇太子の姿が形成されているに違いない。


「聡明で思慮深く、いつも民のためを思って行動される。――という面も確かにあるのですが、実際はすごく面倒な方なんです」

「面倒?」


 思わぬ言葉に三善の目が大きく見開かれた。


「はい。あの人、時々公務をほっぽって放浪の旅に出たりするし、ふらりと帰ってきたと思ったら、こちらによくわからない工芸品のお土産を押し付けてくるんですよ。お忍びで町に出るのなんて日常茶飯事ですし、町で買い食いしたあれやこれやが美味しかったと、私たちにお話しなさって」

「え、皇太子が買い食いするんですか?」

「するんです」


 黎が呆れ調子で肯定すると、三善はとうとう我慢できなくて笑い出した。


「……す、すみません。あまりにも想像とかけ離れたもので、つい……」

「いいんです。私も煌様は皇族の中でも型破りだと思っていますので」


 黎は他にも煌との話をたくさん話して聞かせた。彼らにとって雲の上の存在であった煌の意外な一面を。願わくは、いずれ帝となる煌の事を皆が好きになってくれればいいと。


「皆さんにとっては、私たち皇族は違う生き物のように感じられているのかもしれない。でも、私たちも皆さんと同じように食事をして夜に眠って、同じように笑って泣くのです。あの方は私の事も、皇太子と皇女としてではなく一人の友人として支え見守ってくださった。私はそれを誰の中にも存在する、誇らしく、尊い絆だと思っています。だから、どうか皇太子というだけで煌様を疎遠に思わないで。煌様が即位したあかつきにはあの方の支えになってあげてください」


 深々と頭を下げる黎に、三善は何故か神妙な顔をした。


「……あの、黎様」

「はい、何でしょうか?」

「黎様って、あの――皇太子殿下の事どう思ってるんですか?」

「どう……? 今言った通りですが」


 黎は質問の意図が分からず眉を顰めた。


「気を悪くしてしまったらすみません。でも、……殿下の人となりはよくわかったのですが、黎様自身がどう思っているのかな、と」

「私が、ですか?」

「ええ、ずいぶん楽しそうに話されるから、その――」


 何故か三善はいいにくそうに言葉を濁す。


「殿下の事を、好きなのかな、と」

「……? ええ、勿論殿下の事はお慕い申し上げていますが」

「いえ……っ、そうではなく。――男性として、どうなのかな、と」


 男性として、と告げられてようやく黎はその意図を理解した。黎は目を見開いて慌てて首を横に振る。


「そんな、とんでもないです! 確かに煌様は幼い頃から親しくしていたけれど、それは兄の様な感覚で……男性として見た事はありません。そもそも煌様は小夜の婚約者でしたし」


 黎はいつも小夜と煌はお似合いだ、と思いながら二人が仲睦なかむつまじく語らいあう様子を眺めていた。そこに横恋慕よこれんぼの感情を抱くなど黎にとっては思いもしない事だ。


「私は、小夜と煌様が結ばれ、永久に幸せに暮らしてくれればそれでいいのです。それが、私にとっての幸福なのですから」


 黎は胸に手を当てて静かに目を伏せた。こんな状況になっても、黎は二人の幸せを願ってやまない。その様子を見ていた三善は、一瞬感嘆の声を上げて、――何故かほっとしたように笑った。


「そっかー、そうですか! いやぁ、安心しました!」

「安心?」


 黎がきょとんと首を傾げると、三善は一人で納得したように頷き続ける。


「俺たち心配してたんですよ。二人の事」

「二人?」

「矢矧さんと黎様ですよ」


 何故か三善はにやにやと嬉しそうににやついている。なんだかからかわれているような気がして、黎は不審に思いつつも必死に彼の意図するところを考えた。


「私と、シンさん……? 何か心配させるようなことがありましたか?」

「いえね、仲間内で話してたんですよ。矢矧さんと黎様、どうなるかなって。俺としちゃあ、収まるように収まってくれたら面白――、いえ、嬉しいなーと」


 どうなるとはどういう事だろう? 黎は未だによくわからないまま、さらに三善に追及をはかろうとすると、


「――?」


 玄関の方で物音がした。

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