第十話 惨劇の果てに④

 ◆

 巡幸じゅんこうを開始して早一か月が過ぎようとしていた。滞在先の離宮で、小夜は気怠けだるい朝を迎える。

 初めての長旅は小夜にとって学ぶことも得られることも多かったが、さすがに心身共に疲労が見えてきたころか、小夜の体調はかんばしくなかった。


「小夜様。お体の具合はいかがですか?」


 小夜の目覚めに合わせ女官たちが忙しなく支度を始める。虚ろに返事を返して、小夜は寝台から起き上がった。


「不調が続くようでしたら一度医務官に見ていただきましょう」

「本日のご予定も変更して、小夜様はお休みなられた方がよろしいのでは?」

「いいえ、大丈夫よ」


 公務に穴をあけるわけにはいかない。これは小夜と煌が初めて行う儀式の一つなのだから。小夜が頑張って笑顔を取り繕うと、女官たちも反論はできないのか、渋々と引き下がった。


「御無理はなさらないで下さいね。殿下も、心配なさっています」

「……そうね」


 一瞬『本当に心配しているのかしら』という声が小夜の内側から聞こえて、慌ててかき消した。心配しているに決まっている。煌はどんな時だって、小夜の事をおもんばかってくれる。

 女官に促され、用意された朝食に手を付けた。ふと、そのテーブルに置かれた新聞が気になって手を取る。

 新聞の一面には内閣の動向や国会での議案決議など小難しい話題と共に、ここ数日紙面を騒がせている軍部のスキャンダルの続報が並んでいた。

 黎がアウレア・イッラの新聞社を介して発した告発記事は、予想外にも軍部に対する国民の非難を招くことになった。その上、一部の離反者がそれ以外の軍の暗部を暴露し、軍部は今、各所からの審問・抗議で混乱しているらしい。命を下したとされる綾辻准将の罷免もありうるのではないか、と新聞では語られていた。当の黎は未だ姿を見せず、彼女は赤軍に拉致され、すでに亡き者にされたのではないかという噂もまことしやかに囁かれている。

 小夜は黎が誘拐されているとは思っていなかった。婚礼の前に最後に話をした彼女の様子は、明らかに黎は自分の意思で国を裏切ろうとしていたのだから。


(黎、あんたはこの顛末を望んでいたの?)


 一連の混乱で軍部は統率力を削がれた。これが果たして国の行く末にどうかかわるか、小夜には図る事が出来ない。

 新聞にはその隅に、小夜たちの巡幸がつつがなく執り行われている事が書かれていた。

 煌と小夜の巡幸は、ここ一か月の間で唯一世間を明るくしてくれる話題だと、訪問先の臣民も口をそろえて語っていた。

 ならば小夜に出来る事は一つ。この国を導く未来の帝の妻として国民たちの不安を取り除く事。それだけだ。

 ぼうっとしていると、扉が叩かれすでに用意を整えていた煌が入室してきた。


「小夜、起きていたのか」

「煌様。おはようございます」

「体の具合はどうだ? 昨日の宴席では随分顔色が悪かっただろう」

「問題ありませんわ。本日は霊山ヘの参りと、児童養護施設の訪問でしたか」


 隣に座る煌は神妙な顔つきで小夜の頬を撫でた。いたわりの心が伝わってきて、小夜は申し訳なくなると共に、煌に触れられる純粋な嬉しさで胸を高鳴らせる。


「やはり顔色が悪い。施設の訪問へは私一人で行こう。なに、事情を話せば民もわかってくれるさ」

「ですが――」


 小夜は二の句が継げなかった。煌は一度決めた事にはかたくなだ。説得することは難しいと長年の付き合いで分かっている。でも、


「わかりました。珀詣でが終わったら私はここに戻ります」

「ああ、そうしてくれ」


 本当はそんな頑なな煌を説得できるだけの力が欲しい。初めて夫婦となったあの夜から、小夜はどこか煌に遠慮をしてしまっている。決して犯してはいけない境界をどこかで定め、踏み込むことを恐れている。

 自分はいつからこんなに臆病になってしまったのだろう。女学生だった小夜なら、もっと慇懃無礼いんぎんぶれいになれたのに。

 小夜が一人気鬱になっていると、再び扉がノックされた。


「煌様、こちらにいらっしゃったのですね」


 入室してきたのは煌付きの侍従だ。表情に焦りが見える。何か不測の事態が起こったのだと察した煌はすぐに立ち上がった。


「お客様がいらっしゃっております」

「客? そのような予定は聞いていないぞ」


 しかも今は旅先だ。巡幸の日程が公開されているとはいえ、わざわざ宿泊先を訪ねるなんて。


「それが……少々厄介なお方でして」


 侍従が煌に耳打ちすると煌の表情が変わった。険しい顔つきになった煌はそのまま侍従と共に部屋を飛び出す。後に残された小夜も、いてもたってもいられなくなって彼らの後を追跡した。


「これはこれは。皇太子殿下、ご機嫌麗しゅうございます」


 聞きなじみのないイントネーションの宵暁語が耳に入り、小夜は思わず足を止めた。そっと壁に身体を寄せて隠れると、玄関にいたのは体格のいい欧州人。婚礼の儀の時も目にしたその男は、どこか焦りを有したふてぶてしい顔で笑っていた。


「ジュディス=モーリー……」

「旅先に押し掛ける形となって申し訳ございません」

「全くだ。皇室の儀礼の邪魔になると考えなかったか? 一歩間違えれば国際問題になりうる話だ」


 煌は立腹し、毅然きぜんとした態度でモーリーに相対していた。一方のモーリーは柔和な笑みを崩さない。その余裕が少々不気味で気味が悪かった。


「私も現在は慰安旅行を兼ねてこの美しい宵暁国を見て回っていたのです。偶然、殿下も旅路が重なっていたからご挨拶にうかがったまで

「本当にそうか? よもや私の動きを嗅ぎまわっていたのではないのか?」

「滅相もございません! 帝都が今、策謀の渦中にある中、殿下も気をわずらわせているかと思い、お慰みを申し上げに来た次第です」


 胡散臭い笑みに小夜は奥歯を噛む。今この国がどういう状況にあるか、この男なら知らぬはずないというのに。


「失礼。申し訳ないがこの後の予定が詰まっている。話というのなら改めて――」

「殿下、久遠院黎の行方をお知りになりたいですか?」


 黎の名前が出た瞬間、明らかに空気が変わった。小夜も心臓をわし掴みにされた心地がして、ぎゅっと身を固くする。

 煌は答えなかった。固まった絶句して、ピクリとも動けないようだ。それを肯定と取ったのか、モーリーは得意げに話を続ける。


「殿下、告発の件は我々トライベインにとっても他人事ではないのですよ。我々トライベインと宵暁国はつい先日、友好条約が締結したばかりの関係。アウレア・イッラは我らの共通の敵。このままでは、この美しい国が共産主義どもの赤に染まってしまう!」

「……」

「だというのに、軍部は今や世間の向かい風を浴び身動きが取れない状態にある。このままでは軍部の現政権は遠からず潰れるでしょう。あの綾辻准将がただで転ぶとは思えませんがね」

「お前が焚きつけたのではないのか?」


 煌の問いにモーリーは「まさか」と快活に笑った。


「准将とは商売柄仲良くさせていただいていた身でしてね。このような事になるのは誠に遺憾だ。それもこれも、久遠院黎が赤軍などに入れ込んだりするからだ」


 ピシリ、ピシリと氷塊が砕けるような心地がした。この男が黎の事をどこまで知っているのかわからない、でも、この男は危険だと本能が察知した。


「いかがでしょう、殿下。軍部が碌に動けない今、久遠院黎を逆賊として捕縛するのでしたら我々トライベインが力に――」

「久遠院黎“様”だ」

「はい?」


 モーリーから笑顔が消えた。そして次の瞬間、全身から血の気が引いたように青白くなる。目の前で憤怒の形相をする煌に本能的におびえている様だった。


「彼女は世襲親王家の息女。つまり我らの直系――神の末裔だ」

「――っ!」

「宵暁国で神の末裔たる者を侮辱することは不敬に当たる。たとえ貴殿が異国の者であったとしてもだ」

「し、しかし彼女は――」

「黙れ! これ以上我らを侮辱することは許さぬ!」


 煌がモーリーの胸倉を掴んだ。煌の瞳は地獄の業火に劣らぬ激しさで燃え盛っている。


「貴様がこの国の利権を狙おうとしている事はとうに承知している。その利権の奥に眠る宝を望んでいる事もな! だが、軍部を潰してもこの国の安寧は揺らがない! 我ら皇族がこの国に君臨し、優秀な臣下と臣民がある限り、夷敵いてきに食いつぶされる宵暁国ではない!」


 空気が震えた。ここは室内のはずなのに、まるで灼熱の太陽が降り注いだかのような熱風と炎熱がそこにいた誰もを圧倒した。当然それを直に受けたモーリーは、もはや恐怖にぶるぶると震え、


「……わ、わかりました。今日のところは下がりましょう」


 彼もだてに修羅場を乗り越えてきているわけではない。ギリギリのところで平静さを取り戻したモーリーは静かに煌に礼を取った。


「ですが、一連の騒動を引き起こした彼女は我々にとっても捨て置けない存在です。我々も独自で彼女を追いましょう」

「……」

「なに、丁重に扱いますよ。保護したら、貴方様に真っ先にお知らせします」


 あの波動を受けてもなお、モーリーは冷静に、そして正気を保ったままその場を後にした。後には憔悴した様子の煌だけが残されて、小夜は身を隠していた柱を離れ煌の側に立った。


「煌様――」

「小夜、私は間違っているのか?」

「え?」


 小夜は戸惑いの声を上げた。こちらを振り返った煌は燃え尽きた灰のように、覇気のないしなだれた顔をしていた。


「私はあの発砲事件の時、碧軍が事実を隠ぺいしたことを知っていた。だが、知っていてあえてそれを公表しなかった。軍を糾弾すれば中枢は瓦解し、国防力にも大きな影響が出る。トライベインがこの国を狙っている今、それだけは絶対に避けたかった」

「……」

「それが国として正しい選択だと思った。だが、……黎は、それを良しとしなかった。彼女の正義が、臆病な私の決意を上回った」

「そんな事はありません。煌様は臆病などでは決してございません」

「いいや、臆病だ。私は未来の帝として、国のためだ、民のためだと言って――その実何も守れてはいなかったのだ」


 小夜はそれ以上慰めの言葉をかける事が出来なかった。今は何を言っても煌には届かない。自分の力不足が何よりも歯がゆい。


「それに、私は……未だに信じているのだ。黎の事を」


 黎の名が煌から発せられるたび、小夜の心は締め付けられる。


「彼女は赤軍に魂を売り渡したりなどしてはいない。彼女はただ脅されているだけなのだと、これは彼女の本意ではなくて、まだどこかで助けを求めているのだと」


 ――それは大きな間違いだ。と小夜は心の中で呟いた。ここまで状況が揃えば、黎が自分の意思で赤軍と行動を共にしている事は明白だ。安否は不明だが、生きていれば彼女は現在も赤軍と行動を共にしている。ひょっとしたら、黎が思いを寄せている人と。


「煌様、――黎が、お好きですか?」


 自分でも愚かだと思った。もう小夜と煌は夫婦となった。いまさらその事実は変えられないのに、自ら傷をえぐりに行く必要はないのに。

 でも、煌がここまで心をさいなまれるのは国を大切に思っているからだけじゃない。黎だからこそ、ここまで思い悩んでいるのだ。


「……ああ、好きだ。私は、黎が好きだ」


 それを聞いて、やっと小夜の中のわだかまりが解けた気がした。やっと、小夜は本当の意味でこの人に向き合える。そんな気がした。

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