第十話 惨劇の果てに③
◆
矢矧の別邸にやってきてから
「皇太子夫妻の初参りは順調、か……」
今朝の朝刊の片隅に載った記事を食い入るように見つめる。この顔も知らぬ、会った事もない男に会うために、今星輝は仲間と共に身を粉にして働いている。
それも全ては彼女の願いだ。
思案にふけっていると、遠慮がちなノックの音が響いた。時刻は夜の十時を回ったころ、夜更けともいえないが来客にしては遅い時間帯に何用かと首を傾げる。
中から扉を開けてやると、昼間と同じようにドアの前に少女が突っ立っている。手には
「あ……、夜分にすみません。本をお返ししようと」
「いい、入れ」
星輝は何事もないように頷くと黎を招いた。躊躇していたのはこちらに迷惑をかけないかどうかのようで、こんな時間に男のいる部屋を訪ねる事には一切躊躇はない。そういう意味では警戒心がない。
「随分熱心に本を読んでるんだな。そこの棚の奴、全部読み切る気か?」
「さすがに全部は無理かもしれないですけど……、興味があるので出来るだけ読んでみたいです」
「そうだな。使用人の真似事なんかよりよっぽど生産的だぞ」
星輝が皮肉気に笑うと黎は顔をしかめた。ここのところ彼女は伊地知の家事を手伝おうと奮闘しているらしい。度々星輝の元に茶を持ってこようとするのがその一例だ。とはいえ、国の中枢を担う皇族として英才教育を受けた彼女が本来するべき仕事ではない。まったくどこまでも奇妙なお嬢様だ。
「私はもっとお役に立ちたいんです。私だけが何もしていないなんてごめんですから」
「そうか? 皇族なんだからもっとふんぞり返ってりゃいいのに」
「そういう言い方はやめてください」
少し震えた声。ああこれはちょっと本気で怒ったかな、なんて呑気に頭の中で考える。星輝はこちらに背を向けて本を選んでいる小さな背中に近づいた。
「シンさんは何かおすすめの本はありますか?」
そう聞いてくるので、小さく息を
「これは昔矢矧に読んでみろと押し付けられた本だ。読んだら商売の勉強になるってな」
星輝がその本を黎に手渡した。すると表紙のタイトルを見て黎は噴き出した。
「シンさん。これ、童話集ですよ」
「……なに?」
「私も幼い頃よく読んでいたものです。子供でも
その事実を知った星輝は、驚愕と羞恥でこれ以上ないほど顔が歪んだ。
「……そんな事だろうと思ったよ。あの
この本を教えてもらった頃、星輝は宵暁語が読めなかった。会話は何とか交わすことができるようになっても、読み書きの習得には時間を要した。成人して克服した後も、元来の読書嫌いが
「おい、笑うな」
「ふふっ、シンさんでもそんな顔するんですね」
自分が今どんな無様な顔をしているのかわからないが、黎はすっかりお気に召したらしい。すると少女は笑うのをやめ、こちらを窺うように見つめた。
「……伊地知さんから、矢矧さんの話を聞いたんです」
「矢矧の?」
意外な話題に星輝は目を見開く。
「矢矧さんがどういう人なのか。伊地知さんの事を救ってくれた事とか、貴方を連れてきた時の事とか」
「
「そんな事ないです。とても素敵なお話でした」
まあ伊地知の事だから彼女にもわかるようにかみ砕いて話をしたのだろう。生前の数々の所業を思えば、皇女である黎に聞かせられない話など山のように出てくる。
「もし生きていらっしゃたら、是非お話をしてみたかったです」
「やめとけ。あんたがあって利になる男じゃない。それどころか害しかない」
「それでも、……貴方を育ててくれた人ですから」
黎の頬が僅かに朱色に染まった。照れくさそうに笑うその横顔を見ると、何故だか胸騒ぎがする。純真で、人を疑う事を知らない。その危うくも美しいものに、星輝は自然と手を伸ばしていた。少女が
「――すまん」
以前にもあった。過去を打ち明けた日の夜、怖くないと手を取ってくれた彼女に触れたくなって手を伸ばした。無意識に、何かを求めるように。
彼女に触れていい権利などないはずなのに。――だが、黎はあの時と同じように自ら星輝の手を握り返した。
「あ、あの。ごめんなさい」
黎は耳まで真っ赤にして、それでも星輝の手を離さない。少女の暖かな体温が、微かに感じる確かな鼓動が手のひらから伝わってくる。
「触ってくれていいです。……むしろ、触ってほしいです」
「――っ」
「貴方が触れてくれると安心するから」
潤んだ目で見上げてくる黎に、全身に甘い痺れが走る。
やはり彼女は分かっていない。無防備で、無垢で、何も知らない皇女様。
男がどんな生き物かも知らないだろう。その薄皮一枚の裏に、どんな欲望が渦巻いているかも知らないで。
――だが、これ以上彼女を犯すわけにはいかない。彼女には還るべき場所がある。
「……もう遅いから、部屋に戻れ」
安心するといってくれた、その期待を裏切らないように、星輝は黎の頭を優しく撫でると彼女から離れた。自分でも驚くくらい名残惜しさを感じていて、今自分がどんな顔で彼女を見ているのか、想像するのも恐ろしかった。
「――はい。おやすみなさい。シンさん」
黎は柔らかな笑みを浮かべると部屋を出ていこうとする。その腕には、彼女自身が選んだ本と、星輝が手渡した童話の本が抱えられていた。
「この本読み終わったらシンさんにも内容お聞かせしますね」
「別に要らん」
そもそも、星輝はもう子供ではない。読もうと思えばそんな童話など一瞬で読破できるのだ。
ぶっきらぼうに答えても、黎は嬉しそうに笑って部屋を後にした。
彼女が去った後、星輝は脱力し息を吐いた。
――いつの間に、彼女がこんなにも近しい存在になってしまったのか。
由緒正しい世襲親王家の皇女と、異邦人で国家転覆を謀る組織の主導者。
己が引き込んだとはいえ、交わってはいけない人種のはずだったのに。
星輝は机に散乱していた書類の束を手に取った。
皇太子殿下と黎の謁見。彼女が望んでいることとはいえ、
「……会わせたくねぇな」
誰もいない事をいい事につい本音が漏れた。
そして、謁見の段取り以外にも進めている準備がもう一つ。
「……『還す』なんてどの口がほざくんだか」
自虐で深いため息が漏れた。こちらを彼女が知った時、彼女が一体どんな顔をするか、星輝には想定が出来なかった。
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