第十話 惨劇の果てに②

(あの時は自分の情けなさに涙が出そうになったわ)


 幼い頃から皇女としてふさわしい教養を身につけてきたつもりだった。盆のものを運ぶなんていつも使用人が軽々とやっていたから、簡単な事だと思っていた。そんな「簡単な事」すら出来ない自分が情けなくて、みじめだった。


(でも今日は書斎の前まで運べたわ! しかも珈琲をこぼすことなく!)


 最後の最後に扉を開けられなかったけれど、これは黎にとっては大きな進歩だ。早速伊地知に報告しようと、廊下を早足で歩く。

 台所で作業をしている伊地知を見つけ、急いで報告をした。


「それはようございました。シンも喜んでいたでしょう?」

「あー、シンさんは、特に何も」

「まぁ! あの子ったらまた! 本当に気の利かない男なんだから!」


 般若はんにゃのような顔つきになる伊地知を黎は慌ててなだめた。ここ数日、シンと伊地知と共に暮らしてわかった事は、シンにとって伊地知は本当に気を許せる存在で、そして伊地知にとってシンは本当の息子のように尊い存在なのだという事だった。黎が割り込むことすら躊躇ちゅうちょするくらい、二人は自然な親子でお互いを大事に思っているのだと思った。

 ふと、黎は伊地知に対し疑問を投げかける。


「あの、伊地知さん」

「はい、何でしょうか?」

「伊地知さんは、矢矧さんの事をご存じなんですよね?」


 その名が出た瞬間、伊地知の表情がくもる。黎はシンに矢矧との過去を教えてもらったのだと話した。


「そうですか……、あの子が話したのですね」

「はい。それで、もしよければ伊地知さんが知っている二人の事を聞きたいと思って」


 聞いてみたかった。黎の知らない、シンと矢矧の過去を。すると伊地知は作業の手を止め、黎を食卓へと誘った。


「私はあくまでも傍観者の立場でしかありません。矢矧の事も、全てを知っているわけではない。それでもよろしければ、私の知っている事をお話ししましょう」


 黎は静かに頷いた。伊地知は皺の刻まれたまなじりを下げ、遠くを見据えていた。




「私と矢矧の縁は私が夫の実家にいた時からのものでした。夫はそこそこ大きな商店の次男で、私と結婚し長兄の手伝いをしながら暮らしておりました。子には恵まれなかったものの、裕福で不自由のない生活を送っていましたが、……西華との戦争の折、夫は戦場におもむいて、そして戦死しました」


 伊地知は淡々と語る。決して軽んじてはいけない話を黎は神妙な思いで聞いていた。


「夫が死んでからというもの、夫の実家内での私の待遇は目に見えて悪くなりました。伴侶を失くし、子も成せなかった赤の他人の私を家族として許容することをわずらわしく思ったのでしょう。ほどなくして私は自らの意思であの家を出ました。実家に戻る事も叶わず、さて女一人でどうしようかと呆然としていたところに、矢矧が現れたのです。矢矧は生前の夫の事を覚えていて、商売で随分よくしてくれたからと私に資金援助を申し出てくれました。ですが、私はその申し出を丁重にお断りしました」

「断ってしまったのですか?」

「正直、彼に関する黒い噂は私もよく知るところでしたので」


 伊地知は少し悪戯に笑った。どうやら矢矧という人物は相当に悪名高い人物だったらしい。


「ところが私が何とか住まいを見つけ、あの区画に暮らし始めても、彼は度々私の顔を見に来ました。住所など教えた覚えもないのに、どこからともなく現れて、……正直最初は気味が悪かったですね。でも、あとからあの人が影で仕事の斡旋あっせんをしてくださり、私に被されるはずだった夫の負債をもみ消してくれた事を知りました。あの人がいなければ私はもっと早くに死んでいたかもしれません。私も何年も顔を見せにやってくるあの人に徐々にほだされて、いつの間にかすっかりあの人を受け入れるようになってしまったのです」


 矢矧は人の懐に踏み込むのが上手いのだと、伊地知は冗談めかして言った。かつての旧友を語る彼女の顔に既視感がある。黎はすぐにそれに思い至った。


 ――以前矢矧さんの事を語っていた、シンさんと同じだ。


「商人だった彼は何か月も国外を放浪することがざらだったので、私の元に来るのも、年に二三度、あるかないかでした。そしてある日突然、あの人は私の元に一人の男の子を連れて来たんです」

「それが、シンさん……?」


 伊地知は静かに頷いた。


「目に光を失った、悲壮ひそうな顔をした子でした。人形のように矢矧に手を引かれ、私の元にやってきた。『どうしたの?』と声をかけても何の反応も示さない。あの子が異国の子で、宵暁語を全く理解できないとわかったのは、それから二日後の事でした。当の矢矧は『こいつの世話を頼む』とだけ言い残して、さっさと次の商談へと出かけていくし、元々勝手な人だとは思っていましたが、本当にあの時は腹にえかねるばかりで」


 伊地知は徐々に言葉尻を上げていく。話の中にしか登場しない矢矧という男の身勝手さを想像して、黎は苦笑を漏らした。


「それでもたった一人残されたあの子の事が不憫で、私は一生懸命シンに語り掛けました。初めて反応が返ってきたのは……、出会ってから三か月後の事だったかしら? いつの間に言葉を覚えたのか、あの子は『ほし』とだけ呟いて夜の空を指さしたのです」

「ほし……?」

「あとから分かった事ですが、あの子の名前『シンシャオ』は『輝く星』という意味だそうです。きっと母親に教わっていたのでしょう。『あれが貴方の名前だ』と」


 家族を失い、異国の地に連れてこられて、言葉もわからない場所にたった一人で放り込まれた少年が、夜空を眺めながら亡き母との思い出を思い返していたのだろうか。その頼りない背中を想像して、黎は心が苦しくなった。


「それから少しずつ、私とも言葉を交わしてくれるようになって、時には笑顔を見せてくれるようになった。母代わりとしてなついてくれることは素直に嬉しかった。私自身に子はいなかったけれど、だからこそこの子を自分の息子として愛そうと決めました。でも、矢矧といる時のあの子は、私といる時よりもっとずっと楽しそうだった。何か月かに一度、ふらりと顔を見せる矢矧にあの子は一番懐いていたのです。彼らは本当に親子のようでした。血も涙もない、極悪人と称されていたあの矢矧が、あんな父親然とした顔をするなんて、私にとっては天地がひっくり返るほどの衝撃でしたよ」


 くすくすと笑いながら、伊地知は少し悲しそうな顔をした。


「正直、少しねたましかったです。毎日のように一緒にいて、やっと心開いてくれたシンの警戒心をあの男は数か月に一度顔を見せるだけで解いてしまうんですから。……でも、同時に見ていて微笑ましかった。あの子が矢矧について商談の旅に出たいと言った時も、私は何も言わずに送り出しました。あの子の幸せは、きっと私ではなくあの男の側にある事だと思ったから」


 けれどもその幸せは続かなかった。矢矧が越田の身代わりとして逮捕され、シンの元に帰ってくることはなかった。


「矢矧が消えた時のあの子の荒れようは見ていられませんでした。巻き込まれた越田さんにも当たり散らして、私はそれを宥めるのに精いっぱいだった。それからあの子は家を出て私の知らない何かをするようになった。あの子は、私に一度として赤軍の活動の話をしてくれていません。勿論、私は薄々わかってはいたのですけれど」


 世間を騒がせる赤軍の将、矢矧志貴の名は今や帝都中に知れ渡っている。矢矧の死の真相を知っている伊地知なら、その正体が誰か、そして目的は何か、教えられずともわかっただろう。


「話が長くなってしまいましたね。私が見てきたことはこれが全てです。矢矧という男はどうしようもない悪人で、そして矢矧の名をかたって活動するシンも本当は糾弾されるべきなのでしょう。でも、私には到底そんな事はできません。本当の親子のように笑いあっていたあの二人を責めることなど、私には――」


 そして伊地知は、不意にくしゃりと顔を歪ませて塞ぎ込む。黎は慌てて伊地知のその痩せた背をさすった。


「私はどうすればよかったのでしょうか?」


 涙声で黎に問う伊地知に、黎は苦しさがこみ上げてくる。


「私は矢矧を見殺しにした。あの子を――シンを傷つけて、あろうことかあの子が犯罪に手を染める事を黙認していた。あの子を止められるとすれば、私しかいなかったのに――」

「伊地知さん……」

「黎様、私は大罪人です。本来貴女様に顔向けできる人間ではないのです。私は」

「伊地知さん!」


 己を責め続ける伊地知を黎は引き留めた。その皺枯れた小さな手を逃げてしまわぬよう己の手でしっかりと包み込む。


「伊地知さん、私は……貴女にとても感謝しているんです」

「えっ……」

「貴女がシンさんを引き取ってくれたおかげで、……この国に繋ぎとめてくれたおかげで、私は、あの人に出会えた」


 黎は伊地知の手をぎゅっと握った。黎の想いが届くように。


「私はずっと皇族として、この国のために生きていくのだと思っていました。それが私が生まれ持った役割なのだと。それは今でも変わっていません。……でも、以前の私には自分の意思というものがなかった」


 国のために、皇族のために、そして大好きな小夜と煌のために。いつからか黎はその言葉を呪縛のように自分の身に括り付けて、それは解けない錘になっていた。それ以外を望むことなど許されないと、勝手に自分を縛っていた。


「私、シンさんの前で初めて『自由になりたい』って泣いたんです。自分の中にあんな感情があるなんて、今までずっと気づかなかった。……いえ、気づかないふりをしてたんです。それを引き出してくれたのがシンさんで、そして何も言わずに受けて止めてくれたのもシンさんでした。皇女ではなくて『久遠院黎』という一人の人間として、初めて感情を発露はつろすることが出来た。……だから私は、それ以来ずっと、あの人に私を『私』として見て欲しかった」


 シンが距離を置こうとしている事が悲しかった。何も教えてくれない事がむなしかった。――だからこそ、シンがその心の内を黎に打ち明けてくれた時、嬉しくて、愛しくて堪らなかった。


「私を変えてくれたのはシンさんです。きっとあの人が赤軍であったから、私はあの人と出会えた。今のあの人だから、私は――」


 はた、と黎の口から何かとても大きな思いが塊になって零れ落ちそうになった。けれども黎はそれをぐっと飲み込む。


 ――ああ、そうか。私は。


 自身の想いに気づいた瞬間、黎はその飲み込んだ何かを噛みしめるように口をつぐんだ。この想いは今ここで明かすべきではない。それは本来『皇女』である自分が有してはいけないものだから。

 急に黙り込んだ黎に、伊地知はふわりと柔らかい笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。黎様。あの子の事、そんなにも深く想ってくださるなんて、きっとこの国で一番の果報者です」


 伊地知の目から一筋の涙が溺れ落ちる。黎はその涙をこの世の宝石のどれよりも美しいと思った。

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