第十話 惨劇の果てに①

 ◆

 手元の盆に集中して、黎は慎重に、慎重に歩を進める。陶器のカップに注がれた珈琲コーヒーは、温かな湯気を立てながらゆらゆらと水面を揺らして、今にも零れ落ちそうになる。


(もう少し……、もう少し)


 何度も自分に言い聞かせながら抜き足差し足でようやく目的地にたどり着いた。が、


(手が塞がってノックができない……)


 硬く閉じられた扉を前に両手を塞がれた黎は泣きそうになる。やっぱり黎には荷が重かった。こんな重大な責務、今まで身の回りのことを全て使用人にやってもらっていた自分に出来るわけが――、


「……何、ぼうっと突っ立ってるんだ?」


 ところが黎が扉を開ける方法を模索しているうちに、扉はあっさりと内側から開いた。中から出てきたのは、呆れ顔を隠そうともしないシンだった。


「あんた、またそんなことやってるのか」

「……」

「まあいい、運んでくれてありがとな」


 シンにあっさりとぼんを回収され、黎の仕事は終了してしまった。もっとちゃんとしなきゃいけないのに、と心の中で自分を叱咤しったするも、今はすごすごと台所へ戻る事にする。

 台所では洗い物を手際よく片付ける快活な老婆が一人。


「ああ、黎様。ありがとうございます。わざわざ届けてくださるなんて」

「――いえ」

「……どうかなさいましたか? 浮かない顔をして――あ、まさかシンの奴また貴方様に粗相を……!」

「ち、違うんです! 伊地知さん」


 そう言いながらも黎は自分が涙目になっているのに気付いて、心底情けないと思った。ここ数週間、黎はずっとこんな調子なのだ。




 事の起こりは一か月前、黎が糾弾される記事が公表され、姿を隠さなくてはならなくなった折、黎は千住荘ではない、別の潜伏先へと連れてこられた。


「……ここは?」


 碧軍に悟られぬよう慎重に都内を移動して、連れてこられた先にあったのは小さなコテージの様なところだった。帝都から少し離れた避暑地としても有名な場所、岡見城おかみしろ。その閑静な住宅街の外れに建物はあった。


「ここは矢矧が隠れ家にしていたところの一つだ」


 ひっそりと佇む少し古ぼけた木造建築。人が住んでいる気配はなかったが、シンが扉を押すとその入り口はすんなりと空いた。

 中は少々埃っぽかったが、朽ちてはおらず必要最低限の家具や食料も揃っていた。黎が室内を興味深く見渡していると、シンが間取りなどを淡々と説明し、


「当面はここに潜伏する。矢矧が過去に使っていたセーフハウスだから、防犯も問題ない」

「ここで、シンさんと二人で暮らすんですか……?」


 今は千住荘にいた仲間たちも散って様々なところに潜伏している。煌との謁見の準備が整うまで最低でも一か月は身を隠さなくてはいけないと、シンは黎だけを連れてまっすぐここに来たのだ。


「当面はな。――だが、さすがに俺たち二人だと生活面で色々不便だろうから」


 すると誰もいないと思っていたはずの奥にひそりと佇む小さな影を目撃した。


「……伊地知さん⁉」


 現れたのは、以前貧民街で出会った老女、伊地知であった。彼女が何故ここにいるのかと、疑問を浮かべたが、


「黎様。お久しゅうございます」


 こちらの視線に気づいた伊地知は感極まった様子で黎の元に駆け寄ってきた。

 年齢を感じさせない背筋の伸びた立ち振る舞いは以前会った時と変わらない。だが、皺だらけの顔には幾分かの申し訳なさがにじみ出ていた。


「黎様、いつぞやは黎様のご身分をわきまえず、無礼を申し上げました」


 伊地知は黎に深く頭を下げた。そんな彼女の様子に黎は慌てて伊地知にすがる。


「そんな、頭を上げてください、伊地知さん。あれは私が悪かったのです」

「ですが――」

「私の方こそ、助けていただいたのにお礼もせず申し訳ありませんでした。どうか気にとがめないでください。できれば、あの時と同じように接してくださると嬉しいです。私ももう――皇族という立場を名乗る資格を失ってしまいましたから」


 すると伊地知の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。しばらくの間、彼女はまるで神仏に拝むかのように首を垂れ、何度も何度も黎に向かって礼を述べた。




「でも、どうして伊地知さんがこちらに?」


 伊地知が落ち着いてから、黎は気になっていたことを口にする。この帝都から遠く離れた別邸に、何故伊地知が潜んでいたかというと、


「今朝俺が事情を話してきてもらった。俺たちがここにいる間の世話係としてな」


 静観していたシンが説明してくれた。黎がここに潜伏するにあたって、シンは伊地知に事情を全て話し、しばらくの間二人の世話――特に黎の相手をして欲しいと頼んだのだという。


「そんな、わざわざ申し訳ありません」

「いいのですよ。私も貴女の事がずっと気がかりでしたから」


 頭を下げる黎に対し、伊地知はカラッとした笑みを浮かべた。


「頼ってくれてようございました。こんな埃っぽいところに、黎様とシン二人……、話を聞いた途端私は気が遠くなって眩暈めまいがしましたよ」


 伊地知は少し怒ったようにシンを睨みつけ、シンの方はばつが悪そうに眼を逸らす。シンにとって伊地知は親も同然で、何歳になっても逆らえないようだ。いたたまれなくなったのか、「仕事に戻る」と言ってシンはリビングを出ていった。


「さ、黎様。まずはお食事にしましょう。長旅の疲れもありますでしょうし、庶民の作るものでお口に合うかはわかりませんが、ご用意いたしますので、座って待っていてくださいな」

「はい、ありがとうございます」


 再びくりやに向かう伊地知の背を見送って、黎は食堂の席に着いた。




 そうして三人の潜伏生活は幕を開けたのだが、


(することがないわ)


 黎はがわれた自室で読み終えてしまった本を閉じため息をつく。窓の外は晴れやかな冬晴れが広がっていて、葉のすっかり落ちた庭の木がかさかさと木枯らしに揺れていた。

 煌と接触するための準備を行うための潜伏期間。しかし、黎が手伝えることは皆無に等しく、ただただ時間を浪費し焦燥をつのらせるに過ぎなかった。外回りの事は伊地知と、時折食料品や日用品をこっそりと運んでくれる赤軍の仲間たちがやってくれる。そんな黎がここですることと言えば、矢矧の書斎に陳列されていた膨大な蔵書を端から読みふける事くらいだった。

 唯一の変化と言えば伊地知が調達してくれる新聞で、煌と小夜の巡幸の様子が掲載されていることくらいか。


(巡業は順調に行われているのね。今は九州の方か……)


 二人の珀参りの様子をうかがいながら、黎は心を揺らす。あんなふうに姿を消してしまった黎を、彼らはどう思っているのだろうか、と。


「……」


 なんだかいたたまれなくなって黎は読み終えた本を手に自室を出た。気晴らしに次の本でも借りようかと書斎へ向かおうとすると、途中で伊地知に出会う。


「あら、黎様。黎様もシンに御用ですか?」

「いえ……、シンさんにというより、書斎に本を――」


 答えようとしてふと、伊地知が手に持った盆に視線が吸い寄せられる。それに気づいた伊地知はにこやかに黎にそれを示した。


「シンに頼まれた珈琲ですよ。あの子ったら、ここにいるうちはすっかりあの書斎に閉じこもっちゃって」

「シンさんに……」


 黎は盆の上で湯気を立ち上げるカップを見下ろした。横には小さな饅頭まんじゅうもついていて、甘い匂いが微かに鼻腔をくすぐる。


「黎様にもご用意いたしましょうね。台所に戻ったら――」

「あの、伊地知さん。これ私が持って行ってはダメですか?」


 どうしてそんな事を言ったのか自分でもよくわからなかった。伊地知もいきなりの発言にきょとんとして、


「えっ、黎様がお運びするのですか⁉ なりませんよ」

「だめ、ですか……」

「貴女に給仕をさせるなど不敬に当たります。こういう仕事はこの老いぼれにお任せくださいな」

「でも……」


 黎はどうしてか諦められなかった。この家にいて、黎ができる事なんて全くと言っていいほどない。黎の身分を慮って、伊地知は黎にそういう仕事を振っていないのだという事は分かっているのだが、


(私だって役に立ちたい)


 そう心の中で唱えると、もう一度伊地知を説得し、


「――黎様がそこまでおっしゃるのなら……」


 まだ躊躇いがあるようだったが、伊地知は黎に盆を差し出した。黎は嬉しくなって舞い上がる気持ちで盆を受け取ったが、


「⁉」


 珈琲カップと一枚の皿しか乗っていないはずなのに、それは黎の予想より重くて。しかも、一歩踏み出そうとする度、珈琲が大きく揺れて零れそうになるので慌てて軌道修正を試みた結果、


「黎様⁉」


 傍の壁に身体をぶつけ派手に転倒。当然の如く持っていた盆はひっくり返り、せっかく伊地知が用意した茶菓子は無様にも床に落ちて潰れた。

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