第九話 叛逆者②

 ◆

 千住荘の談話室に重苦しい空気が下りていた。そこに終結していたのはいつものメンバーと黎。いつもなら談笑にテーブルゲーム、食事を取りながら和やかに過ぎる憩いの時間が、とっぷりと重い泥水の中に浸かったように息苦しい。

 昨日黎がシンに連れられてこの千住荘に転がり込んだ経緯は彼らにも伝えた。いつもなら冷やかしの野次の一つも飛びそうなところだったのに、皆何も言わない。それは彼らのわるテーブルに広げられた一枚の新聞紙、その紙面が全ての元凶だった。


「皆、言いたい事はあるだろうがまずは状況を確認する」


 シンの言葉に皆の身体が強張る。そんな中でも、シンはおくすることなくそこにいる全員を見渡し堂々と語った。


「昨日、紫宸殿ししんでんで俺が陸軍将校を昏倒させたのはまぎれもない事実だ。そして黎がその場に居合わせたのも本当の事。だが、この記事には明らかな悪意が込められている。状況を考えれば、不逞ふていの輩が将校を襲い、そこに居合わせた皇女を無理やり拉致らちした。そう推測するのが普通なのに、この新聞社――いや、この記事を書かせた人間はそうしなかった」

「黎様が俺たちとつるんでいるのを知っているという事、ですか?」

「そうだ。――そして奴らの最大の目的は黎を俺たちの仲間だと断定させ糾弾する事にある。軍部はこれを口実に、発砲事件の真相を知っている黎を排除する気だ」


 ざわりと皆の間に戦慄が走る。


「『さる筋の情報では』と書かれているが、恐らくこの情報を提供したのは軍部だろう。黎が発砲事件の真相を知っていると睨んで嗅ぎつけていた。昨日の騒動でその確定的証拠を得たから、こうして記事に出した」

「って事は、ここに黎様がいる事もばれてるってことですか?」

「恐らくな」


 その場にいた全員が青い顔をして固まる。黎の居場所がばれれば、ここにいるのは危険なのではないかと思ってしまう。だが、シンは皆とは異なり随分落ち着いた様子で話を続ける。


「だが幸いにも世論は黎に対して同情的だ。こんな散文記事を頭から信じる者はそういない。むしろ頭の回る奴ほど、――そして皇族に信奉的な奴ほどお前の清廉潔白を信じるだろう。事実、街中ではこの新聞の内容を非難する声をあげているものが多かった。そうだな?」


 シンは周囲の仲間たちに呼びかけた。彼らは皆一同に首を縦に振る。


「この記事が出てから町を歩いてみたけど、黎様を悪く言ってる人間は一人も見かけなかった」

「皆何かの間違いだって」


 その事実に黎は逆に胸を痛めた。

 世間は黎が記事の通りの人間でないと信じている。恐らく昨日の小夜と煌の婚姻も大きな影響に違いない。きっと、何かの陰謀じゃないかって――、


「向こうさんからしてみれば、ここを襲撃し黎を引きずり出す事はたやすいのかもしれない。だが、おおやけにそんな事をすれば市民の反感を買う。多少の猶予ゆうよはあるはずだ」


 そしてシンは覚悟を決めたようにまっすぐに皆を見据える。


「当初の予定とはやや異なるが、俺は今が好機だと思う。――明日、アウレア・イッラの新聞社で例の記事を掲載させる。幸いあちらの準備も完了している、後は俺の指示ですぐに動ける」


 黎はぞくりと身を震わせた。新聞記事が出れば、黎が宵暁国の行政を混乱に陥れたという事実は決定的となる。国を糾弾したものとして、黎は後ろ指を指されるのだろうか。すると、


「ただし一つだけ……。これに加えて今回の件で矢矧の名で声明文を出す」


 シンは最後にそう付け加えた。皆一同に動揺を見せシンを見据える。


「声明文を出す、って……。矢矧さんが後ろにいる事を明かすんですか?」

「そうだ。アウレア・イッラの記事が掲載されると同時に、『軍の転覆を謀る矢矧志貴が、軍の不祥事の真相を知っている久遠院黎を拉致脅迫し支援を強要した』とな」

「えっ――!」


 黎は思わず立ち上がった。


「そんなのダメです! 私、貴方に拉致されたなんて――」

「思っていなくても世間ではそうみられる。それを利用するしかない」


 黎は絶句した。青ざめる黎にシンはなおも続ける。


「筋書きはこうだ。私怨により六代社を襲撃した矢矧志貴は中央公園での碧軍の無差別発砲に居合わせた。その際に大勢の構成員を失ったが、たまたま居合わせた久遠院黎を発見し拉致、その場を逃亡。久遠院黎を恐喝し碧軍告発の片棒を担ぐよう迫り、アウレア・イッラでの記事掲載を阻止されないように、皇太子の婚礼の儀の日彼女を再び拉致した。その際に偶々居合わせた彼女の婚約者である陸軍将校に危害を加えた」


 淡々と話すシンに黎は益々血の気が引く。それは周囲の者も同様だった。


「ただしこの一件は矢矧志貴一人の元で計画されたものだ。構成員には久遠院黎の存在は秘匿ひとくされており、アウレア・イッラとの繋がりも皆無だった。とすれば、――」


 その瞬間周囲から怒号が飛んだ。


「それじゃ矢矧さん一人が犯罪者じゃないですか⁉」

「そうだ! いくら何でもそれは――」


 抗議する仲間たちに対し、シンは鋭い眼光で一蹴した。


「公表文が出れば十分に世間の注目を集められる。俺一人でも十分大きな話題になる。必要以上に事を大きくする必要はない」

「でも……!」


 仲間たちはそれ以上何も言えず黙り込んだ。重苦しい空気の中で、黎は大きく深呼吸をして肺に空気を送り込む。そして、


「貴方のやろうとしている事はただの自己犠牲だわ」


 明確な批判をシンにぶつけた。


「確かに貴方一人が汚名を被れば全てが丸く収まるのかもしれない。でも、私はそんなの嫌」

「……」

「だって私は今まで貴方に脅迫されて従った事なんて一度もない」


 怖い思いをして、伸ばされた手を疑って、まるで綱を渡るようにここまで来たが、それは全て黎自身の意志だ。黎が望んでそうした、それだけだ。


「貴方昨日言ったわ、どうして矢矧さんが身代わりになって死んだかわからなかった、って」


 その言葉に周囲の仲間たちは眉をひそめ顔を合わせる。シンの素性を知っているものはどうやら黎だけらしい、それでも黎は続けた。


「わからなくたって貴方は今、矢矧さんと同じことをしてるわ」

「……っ!」

「大切なものを守るために、自分一人で犠牲になろうとしてる。同じじゃない」


 シンは虚を突かれて目を見開いたまま固まった。そんな彼を逃がすまいと、黎は強い眼差しを彼に向ける。


「――なら、今私たちが貴方に対して何を想っているのかわかるはずよ。他ならない、貴方が思った事なのだから」

「……っ、それは――」

「もし貴方が一人汚名を被って死ぬのなら、私貴方を殺した相手に復讐するわ。そうなってもいいの?」


 しばしの沈黙、にらみ合う黎とシン。そしてそれを固唾かたずを呑んで見守っている仲間たち。

 ――やがて、シンが浅く息を吐いた。


「……強情なお嬢様だな」


 それは少し呆れの混じる声音だった。


「――わかった。考え直そう」


 シンの瞳には諦観ていかんの色が濃くにじんでいる。だが、決して失望しているわけではない。むしろ肩の荷が下りたような、ほっとした顔をしている。そんなシンの様子を見て、黎はホッと胸をなでおろした。


「ならばどうする? 矢矧の名を出さなければ汚名を着せられるのは黎、お前だ。俺はそれだってよしとしない」


 シンは黎を優し気に見つめた。その熱量に少しだけ心臓が跳ねたが、黎は落ち着いて話を続ける。


「……一つ考えがあります」


 そして黎は密かに考えていた案を打ち明けた。


「皇太子殿下にすべてを自白するわ」


 周囲の空気がどよめいた。


「殿下は誠実で諸悪をよしとしない方。民の声にも真摯しんしに耳を傾けてくださるはず。私が請えば、殿下は必ず意思をんでくださる」


 黎は確信をもって告げるが、周囲の人間は誰も賛同を返さなかった。それもそうだ、彼らは皇太子である煌の事をよく知らない。本来雲の上の存在である煌を畏敬がありこそすれ、信用する事は難しいだろう。

 だが、シンは、


「勝算はあるんだな?」


 彼は唯一動じる事はなかった。だから黎は彼に応えてはっきりと頷く。


「ならば、皇太子に会う算段を取り付けよう。無論、俺たちがおいそれと近づけるわけはないだろうが」

「それからシンさん。記事は予定通り掲載してください。碧軍が私を含む民間人を公園で襲撃した事を。私の名を使って」

 また、周囲がざわりとどよめいた。シンも目を見開いて驚愕の色を示す。


「今出回っている新聞の通りにするんです。私は赤軍の協力者で、碧軍を告発するために手を組んでいると」

「だがそれは――」

「碧軍はきっと私を臆病者だと思っている。あんな記事を出されて、私が怯えて隠れるか、さもなくば事実無根だと誰かを縋って主張するか。きっとそんな風に思っているはずだわ」


 だから裏をかく。民衆の多くが嘘だと思っているその記事が真実だと、あえて黎自身が告げるのだ。

 きっと今までの黎ならこんな無茶はしなかっただろう。事件にあった直後のように、外の世界を拒絶し、一人になって消えようとしたかもしれない。

 でも、今の黎には仲間がいる。ともに真実を暴こうと奮闘する者たちとここにいるのだから。


「……わかった。準備しよう」


 シンも重い腰を上げしっかりと頷いた。


「だが謁見を取り付けるには相応の準備が要する。皇太子殿下も、確か二日後に夫妻で巡幸に行くんじゃなかったか?」

「あっ……はい。そのはずです」


 皇室の婚礼は式を挙げただけでは終わらず、その後いくつかの儀を経て終了する。その一つが珀参はくまいり。宵暁珀のまつられた霊山は全国に八箇所あり、その全ての地に、皇太子と皇太子妃が直々に出向き、二人の婚礼を先祖に報告するのだ。全国の視察を兼ねた夫婦になって初めての行幸は、ひと月ほどを要すると黎も教えられた。


「日程がある程度公表されているとはいえ、遠方に赴くのはリスクがある。なら、彼らが帝都に戻り、最後に都南の霊山を参る時に押しかけるのが最良か」


 ということは、少なくとも一ヶ月は黎たちは身動きが取れないという事だ。


「潜伏先も改めた方がいいだろう。しばらくは俺はここを離れる。お前たちも、可能なら散った方がいいかもしれない」

「急にもぬけの殻になると帰って怪しまれますからね。上手く調整しましょう」


 シンたちはすぐに身を隠す段取りを始めた。その手際の良さは、こういった事態をすでに想定しているかのようだ。

 そんな中で、黎は一人座ったまま動けずにいた。無意識に握りしめた手はかじかんだように震えている。


「黎、どうした?」


 一人残された黎の元にやってきたのはシンだった。シンは変わらぬ冷たい目でじっと黎を見下ろしている。けれどもその瞳を見ただけで、黎の緊張が自然とほぐれていくように感じた。今、自分が思っている事を素直に吐露する。


「……本当は、少し怖いんです。殿下が私の話を聞いて下さるかどうか」


 一度言葉にしてしまうと、その想いが瞬く間に膨らんで口からあふれ出す。


「私はあの二人を裏切ってしまった。小夜にも失望されて、もう顔も合わせてくれないかもしれない。もし、私があの二人と顔を合わせたとして、二人が私を軽蔑したら……、私は、もう――」


 だがその先を告げる前に、黎の視界が暗くなって、黎の頭に大きな手が乗せられた。突然降ってきた温かさに黎は息をひそめて固まる。


「……大丈夫だ」


 シンの瞳はとても優しげだった。いつも冷たくて、何を考えているかよくわからなかった宵暁珀と同じ色が、今は優しい光に彩られている。


「もし皇太子がお前をないがしろにしたら、俺がぶん殴って話を聞けと訴えてやる」


 穏やかじゃない宣言に、黎は逆に緊張の糸が切れて笑いがこみ上げてきた。


「シンさん、そんなことしたら不敬罪で捕まっちゃいますよ?」

「俺は元々この国の人間じゃないんだから不敬も何もあるか。それに――」


 シンは何かを言いかけて、やめた。その代わりに黎の事をまたじっと見つめている。


「シンさん?」

「――いや、いい。まあ今から気を張ってても疲れるだけだ。その時のために、体力を温存しとけ」


 ぽんぽんとあやすように黎の頭を撫でた大きな手が、ゆっくりと離れていく。それがなんだか名残惜しくて、でも少しホッとして。


(……本当にどうしちゃったんだろう、私)


 何故か異様に心臓の鼓動が早い事に、黎は戸惑いながら目を閉じた。




 その二日後、アウレア=イッラの通信社を経由して宵暁国に一つのスクープがもたらされる。


『皇女久遠院黎の激白 宵暁陸軍、民間人虐殺を隠ぺいか』


 その見出しは先日黎を糾弾する紙面と同様に世間を震撼させた。


(これでもう、後戻りはできない)


 これは黎からの宣戦布告だ。碧軍の思う通りには動かない、たとえ軍と――皇室を敵に回したとしても、黎は真実を白日の下に晒すのだと誓った。

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