第九話 叛逆者①

 ◆

 騒々そうぞうしい足音が帝国陸軍本部の庁舎に響き渡る。その足音の主を確認すると、すれ違う者は皆ギョッとした顔をして立ち止まった。

 それもそのはずで、怒りに肩を震わせ廊下を闊歩かっぽしているのはつい昨日、大勢の観衆の前で祝宴を執り行った皇太子殿下その人だったから。

 煌は周囲の視線などものともせず、一目散に目的の人物の元へと急ぐ。目の前の扉を荒々しくノックすると、「入れ」と老獪ろうかいな声が返ってきた。部屋に入ると、正面の机にいかつい初老の男が意外そうに目を丸くしてこちらを見る。


「これは殿下、どうなさったのですか? 昨日の今日で」

「一体どういうつもりだ? 綾辻准将」


 煌は手に持っていた新聞を男の目の前に叩きつけた。

 新聞の一面には黎が赤軍と共謀して軍将校を襲い、儀礼直前に逃亡したという内容の記事。今朝煌が宮廷の者からこの記事を見せられた時、血の気が引いて倒れそうになった。


「この記事の情報元は軍部だな? まだ黎は見つかっていない。それなのになぜ、彼女が赤軍と共犯などと断言できる?」


 怒りに目を血走らせる煌に対し、綾辻は冷静な余裕のある笑みを浮かべている。


「殿下、貴方には受け入れがたいでしょうが、これは事実です。うちの将校を昏倒させた男が久遠院黎と共にあの場から逃亡した。目撃者もおりますし、現に久遠院黎はここ数か月、女学校を抜け出し同一人物と思しき男と密会している場面が目撃されているのです。これは確かな情報ですよ」

「黎をつけ狙っていたのか……」


 黎が女学校を抜け出し密会していたという事実は煌にとって衝撃だった。だがそれ以上に、それを明らかにするために軍部が暗躍していたという事実に歯噛みする。しかも綾辻はそれを誤魔化そうとする素振りもない。

 軍部が黎をつけ狙う理由など一つだけ。それはつまり、例の発砲事件を碧軍が引き起こしたこと。そしてそれを目撃した可能性の高い黎を監視していたと、自白したに他ならなかった。


「では黎と会っていたというその男は何者だ? そいつが新堂を昏倒させたという事か?」


 その質問を待っていたと言わんばかりに、綾辻は不敵な笑みを浮かべた。


「ええ、その通りです。……そう言えば、貴方も一時期赤軍に関して調査をなさっていたそうですね? 警視庁やあちこちから資料を取り寄せて」

「それが一体――、まさか」


 煌は数か月前に始めた、ある男の調査の事を思い出した。


「そうです。矢矧志貴ですよ」


 共産主義者の過激派を率いる赤軍の将。煌自身も彼が何者かについて興味があった。その凶悪犯と、黎が――。


「残念ながら黎様と矢矧が何らかの交渉の元、行動を共にしているのは明白です。彼女は間違いなく赤軍に肩入れしている国家の逆賊ですよ」

「脅迫されて無理やり従っている可能性もある」

「いいえ、万に一つもございません」

「何故そう言い切れる!」


 煌は我慢ならず大声を張り上げた。対し目の前の綾辻は不敵な笑みを浮かべている。何かまだ情報を握っているのだ。落ち着け、と煌は我を忘れそうになる自分を律した。


「世襲親王家の息女を逆賊扱いするというからには、相当な決定打があるという事だな?」

「――まあ、そういう事になりますね」


 綾辻はその決定打とやらをこちらに明かす気はなさそうだ。煌はこれ以上ないほど強く唇を噛む。

 口惜しい。未来の皇帝になるはずの己に、ぎょせないものがある事が。得られないものがある事が。何より、


(真相を知っていながら事件後すぐ、この件を明るみにしなかった私にも責任がある)


 隠ぺいしていたのは煌も同じだ。今回の件がこじれ大事になったのは、全て己の見通しの甘さにある。


「いずれ私が帝位を継げば、」


 肩を震わせ身に降りかかる屈辱に耐えてはっきりと告げた。


「お前から地位をはく奪し然るべき刑罰を受けさせる。そういう国にして見せる」

「……それは楽しみです」


 きっと綾辻にしてみれば子供の癇癪かんしゃくの域を出ない、青二才の戯言ざれごとだと思っているだろう。だが今はそれでいい。精々その汚れた椅子の上でふんぞり返っていろ、と煌は綾辻をにらみつけその場を後にした。




「随分とお若い・・・皇太子ですな」

「ミスターモーリー、あまり不用意な発言をなさると貴方とてただではすみませんぞ」


 隣室の扉が前触れもなく開きそこから不快な笑みを浮かべるジュディス=モーリーが現れた。先刻の綾辻と煌二人の口論を隠れて聞いていた彼は形のいい眉を曲げてたった今皇太子が消えた扉を眺めた。


 トライベインの重鎮、ジュディス=モーリーが軍本部を訪問してきたのは昨晩婚礼の儀も終わった宵の口の頃だ。


『取引をしませんか? 准将殿』


 不敵に笑う異国の男を前に綾辻は嫌な予感が拭えなかった。その予感は見事的中しモーリーは綾辻にとって最も頭を悩ませる種を容赦なく振りまいた。

 皇女久遠院黎が赤軍と通じているという決定的証拠。それは軍部の凶行を隠ぺいしたい綾辻にとっては仕組まれたのかとさえ思うほどの朗報であった。

 これで厄介であったあの小娘を合法的に糾弾できる。まだ年端も行かない娘とはいえ、皇族の証言は臣民の心を大きく揺さぶるだろう。だが、赤軍に通じている反逆者であれば話は別だ。軍は大手を振って彼女を捕らえる事が出来るだろう。


(とはいえ、民の皇室信仰は重篤じゅうとくだ。スキャンダルの一枚や二枚ごときで世論が覆るわけはなかろうが)


 少なくとも動揺を走らせることは可能だ。その一石を投じる事が出来ればそれだけで十分。


『それで、そちらの見返りはなんだ?』


 懸念はもう一つ。このトライベインからやってきたいかにも腹の黒そうな男だ。トライベインが自国の利益のために宵暁国を植民地化しようとしている事は周知の事実だ。


「准将閣下はこれまで我が国から多大な融資を受けられてきた。今こそ、その恩を返す時ですな」


 目の前にいるモーリーが不敵に笑う。


「私が懇意にしていたのは、トライベインではなく、ダンバート社なのだが」

「そのダンバート社が現トライベインの国債の三分の一をまかなっている事はご存じで? あの会社は今や国政を左右する巨大企業コングロマリットですよ」

「なるほど、お前たちも国庫の鍵を握られてはあの古狸共の言いなりにならざるを得ないか」


 綾辻の皮肉に僅かばかりにモーリーの米神こめかみがひく付いた。


「ともかく、コネクションはすでに完成しているのですよ。あとは、宮内省と皇族が宵暁珀しょうぎょうはくの利権をどう我々に譲渡するか。……悪い話ではないでしょう? 貴殿だって先だっての宵暁珀の恩恵を多大に受けていたはずなのですから」


 数年前、六条勘助の発案で秘密裏に行われていた宵暁珀の国際市場への横流し。その利益の一部は、碧軍の――厳密にいえば綾辻のふところに納められた。それは全て国防のため。この先、宵暁国をより強く、より豊かにしていくために。なにより、目の前にいるこの男の故郷、トライベインの様な狡猾こうかつな欧州列強にのまれるのを防ぐために、だ。


(これからはもっと、軍備拡張に着手していかなければ)


 この狸の手を取るのは最善の策ではないのかもしれない。だが、諸刃もろはの剣と分かっても綾辻はこの男の手を取る決断をしたのだ。


「まずは久遠院黎を探しましょう。あの若き皇太子に先を越される前に」

「そうだな」


 綾辻は同意しながらも、心の中ではこの目の前の男にこそ先を越されてはいけないのだと確信した。

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