第八話 ダージャオ族の少年③

「それが矢矧志貴との最初の出会いだった」


 暗闇でシンが語る昔話を黎はゆっくりと飲み下した。それは想像以上に凄惨せいさんなもので喉が詰まったように苦しい。でも、シンが矢矧の名前を告げた瞬間、今までと違う声音に変わったのを聞き逃さなかった。


「矢矧さんって、確か戦争屋って呼ばれてた人……?」

「そう、武器商人でその時偶々たまたま訪れた村で隠れていた俺を何故か発見して、んでとっ捕まった」


 シンは口を歪めて笑った。


「あの時は本当に終わったと思ったな。ああ自分はこの男に兵に引き渡されるか、もしくは内臓売られるか。明らかに堅気かたぎに見えなかったし、どんな卑劣ひれつな目に遭わされるかと思った」

「実際、どうだったんですか?」

「まあひどい目に遭ったのは確かかな。でも、俺の想像とは全然違った。なんでか知らないけど、立派な家に連れていかれて、風呂に放り込まれて上等な服に着替えさせられて、美味い飯食わしてもらって」


 戸惑いをはらんだため息にシンの当時の困惑が感じ取れた。


「どこの誰かもわからない餓鬼がきの俺の面倒を見てくれた。最初に連れてこられた矢矧の別邸には三か月ほどいて、それから矢矧に連れられて船に乗って、この国に来た」


 言葉の全く分からない異国にやってきたシンは、そこで伊地知に預けられたらしい。矢矧は一年のほとんどを遠方の商談のために不在にし、たまに伊地知の元に顔を出しに来る、その程度の人間だったのだけど。


「いつしか俺は矢矧の存在にあこがれを抱くようになった。十三になった時、俺はあの人に商談に連れて行って欲しいって頼んだ。欧州大戦が終わってから四、五年は経ってたと思うけど、矢矧は戦争が終わっても相変わらずあちこちで武器を売り続けていた。俺はそんな矢矧にくっついて世界中を回った。あの頃は本当に大変だった。あちらこちらで武器を売って情勢をかき乱す矢矧と一緒に恨み買って刺客送られて逃げ回って、正直生きた心地がしなかった。……でも、楽しかった。矢矧は道中で色んな事を教えてくれた。商談の方法から、――まああんまり口には言えない事まで。正直人としてどうかと思う事は数えきれない程あったな。破天荒はてんこうで誰それ構わず振り回して、……多分、世間で見ればあの人は善人じゃなかった。むしろ外道の屑野郎だったよ、今にして思えば」


 恩人であるはずの矢矧を辛辣しんらつ罵倒ばとうするシンであったが、その顔は何故か楽しそうだった。


(シンさんはきっと、矢矧さんの事を本当に尊敬してたんだわ)


 どれだけ周りの人間が矢矧を極悪人と呼ぼうが、彼にとっては人生の恩人で、やっている事は疑いようのなく非道でも、彼にとってはかけがえのない人なのだろう。

 黎はそんなシンの笑顔を初めてみた。こんな風に語られる矢矧が少し羨ましいと思ってしまうくらい、満面の笑みのシンは幸せそうだった。

 だが、その笑顔に影が落ちた。


「――でも、俺が十九の時、大逆事件が起きたんだ」

「大逆事件――」


 黎も覚えがある。五年前、平友社という組織が皇帝暗殺を企てているとして社員が数名逮捕され、その首謀者が死刑に処された事件だ。けれど、


「その事件と、矢矧さんが何か関係あったんですか?」


 恐る恐る続きを促すと、シンの顔が一層険しくなる。


「関係はなかったはずだ。矢矧は平友社の所属ではなかったし、共産主義運動に関与もしていない。そもそも、あいつにとって国の方向性なんてどうでもよかっただろうし、そんなものに首を突っ込む奴じゃなかった」


 なのに、とシンが僅かに拳を握り込んだ。


「逮捕状が出されたのは矢矧の知人で平友社の社長、越田だった。しかし、何故か警察は越田ではなく、その時一緒に居合わせた矢矧を重要参考人として連れて行った」

「え……?」


 黎はシンの言葉に眉を寄せる。つまり警察は越田ではなく、矢矧を連れて行って、――そしてそのまま矢矧は帰ってこなかった。


「今思えばあの状況はおかしかった。ろくな聴取もないまま有無を言わさず矢矧は連れていかれ、人違いだったという事すらあっさりと流された風だった」

「どうして?」


 シンは少し黙ったまま、目を伏せた。


「わからない。俺も確かに、あの現場を目撃したはずだ。でも、――何故かあの時の記憶が途絶えていて、気が付いたら矢矧は連れていかれた後だった」

「そんな……」

「真相のほどがわからない。矢矧も、そんなあっさりと捕らえられるような奴じゃなかったはずなのに。本当に逮捕されるに値する理由があったか、そうでなければ――あらがえない相手だと悟ったか」


 するとシンは腕を組みなおし渋面を浮かべたまま視線を落とす。


「俺が調べたところ、矢矧を連れて行ったのは軍部の管轄の組織だった。本来政治犯の逮捕は警察及び特高の管轄だ。それなのに、動いたのは軍部。あの時の情勢を洗い出して、俺は一つの仮説に辿り着いた。この大逆事件は、反政府組織を潰すためではなく、そもそも矢矧を逮捕するためのものだったんじゃないか、と」

「最初から狙われていたのは矢矧さん、だった?」


 シンはゆっくりと頷いた。


「三年の歳月をかけて俺はその真相に辿り着いた。裏で糸を引いていたのは六条財閥の総裁――六条勘助。原因は宵暁珀しょうぎょうはくの密売。それに加担していた吉井という議員を矢矧がおどした事をきっかけに、六条勘助が口封じのために矢矧を忙殺ぼうさつした」


 そしてシンは、その一部始終を側で目の当たりにしながら、何も出来ずに矢矧を失った。自分を育ててくれた恩師が、たかだか商売のために知らぬそしりを受けて殺された事の怒り、理不尽さ。

 ――そういうものをずっと胸に秘めたまま、この人は今日まで生きてきたのだ。


「本物の越田は結局逮捕される事なく事なきを得、その後すぐに国外に亡命した。今はアウレア・イッラで身分を入れ替えて同じような仕事をやっている」

「あ……、ひょっとしてアウレア・イッラにいる知り合いって――」

「そう、越田だ」


 恩人と対照的に生き延びた越田を思い出したのか、シンは複雑そうな顔で頷いた。ただ恨みとか怒りとかそういう感情ではなさそうで、でもどこか煮え切らない、そんな顔をしていた。


「越田は矢矧の古い馴染みだった。何故、あの時自分ではなく矢矧が連行されたか、頭の回る彼ならある程度はわかっていたと思う。越田が亡命する直前、一度あの人に会った時、俺はあの人に本当は何があったか聞いたんだ。でも、……越田は答えてはくれなかった。ただ彼は、『それが矢矧の望んだことだったんだ』とそれだけで。俺は納得ができなかった。本当の気持ちを言うと、俺は越田さんの事も許せない。矢矧一人を犠牲にして、どうしてあの人だけ一人遠い地で平和に暮らしているんだと、理不尽に腹がった」


 シンの顔はこれ以上ないほどに苦痛に歪んでいた。様々な葛藤が浮かんでは消え、彼をこんなにも苦しめている。


「俺は今でも納得していない。確かにあの人は善人ではなかったけど、違う誰かになって跡形もなく死んでいくなんて、そんなの認められるわけない。だから、俺は誓ったんだ。あの人をおとしめた連中を――同じ目に遭わせてやるんだって」


 その瞬間、苦しそうだったシンの瞳が青く燃え上がる。禍々まがまがしい輝きに黎は身震いした。激しい、悲しい――怨嗟えんさの炎。


「大逆事件を引き起こした六条勘助。片棒を担いでいた吉井藤次郎。六条財閥とその傘下の子会社。そしてその裏で財閥の融資を受けていた軍部。俺は奴らに復讐するべく仲間を集めた。幸いこの国には、上層の人間に恨みを抱く者たちが山のようにいる。そうやって俺の素性を隠し、『憎き相手に一泡吹かせてやろう』と声をかけ集めたのが、あいつらだ」


 いつもこの千住荘ではしゃいでいる仲間たち。彼等にもまた強い信念と守るべきものがある事を黎は知っている。


「あいつらは正真正銘『利用されている』奴らだ。俺の正体も、本当の目的も知らない。とはいえ俺の仇討あだうちはあいつらにとっても利のある事だった。だから、今もああして協力してくれてるわけだが」


 そう告げるシンの表情はどこか寂しそうだった。でもすぐにそれも掻き消えて、


「――ともかく、六条と吉井はもはや再起不能だ。新聞社も潰してやった。後は軍の上層部をおとしいれれば、俺の目的は達成される」


 そして、その炎がまっすぐに黎の方に向けられた。


「これが俺が矢矧の名をかたり赤軍を動かしている動機だ。これは復讐。単純な――俺の自己満足なんだ」


 黎は悲しくなった。炎はもう随分長くくすぶり続けている。何年も前から、この人の身体の中で、ずっと。


「俺はこの世界が嫌いだ。俺たちの家族を襲った奴らも、姉を連れ去った奴らも、矢矧を殺した奴らも……。俺から大事なものを奪ってのうのうと生きている連中がいるこの世界が大嫌いだ」

「……」

「……怖くなったか?」


 前にも同じような事を問われた。でもあの時みたいな不安にさいなまれるような恐ろしさではなくて、もっと心の奥深くをえぐりだされるみたいな。触れたら最後、捕らえられて食いつぶされるような。

 それでいて、すごく悲しくて――愛おしい。


「――怖くない」


 黎はあえてその炎に飛び込んだ。手を伸ばした先にある、自分とは違う大きな手に触れると炎はびくりと揺らいで、怯えているみたいに小さくなった。


「怖くないわ」


 彼のその瞳の奥底にあったものがようやく見える。

 長い間隠し続けていた本当の彼の心が、その先にあった。

 触れて得たのは今まで感じた事のない幸福と、――罪悪感。

 瑠璃の目が淡く輝き、黎の顔がそこに映った時、黎の脳裏に同じ顔を持つもう一人の存在が浮かび上がる。


「……帰らなきゃ」


 黎はシンの手を離すと距離を取る。


「小夜に、謝らなきゃ」


 黎は約束を破った。小夜の側にいると、何があっても味方でいると誓ったのに、一時の感情で小夜の大切な儀式をすっぽかしてしまうなんて。

 うつむく黎を追いかけるようにシンの手が再び黎の手を捕まえた。しかし黎がびくりと震えると、


「すまん」


 またその手が離れていくと、重い沈黙が二人の間に流れた。


「……とりあえず今日はここで休め。熱が下がらない事には動きようがないだろ」

「……はい」

「お前の失踪が世間でどう扱われているかもわからん。明日俺が探ってくるから、動くのはそれからにしろ」


 黎に反論は出来なかった。まだ熱を帯びた身体では正常な判断を下すことは難しい。


「……じゃあ、俺は隣の部屋にいるから、何かあったら呼べ」


 シンがそう言い残して出て行こうとするので、黎は慌てて呼び止めた。


「えっ、でも、ここシンさんの部屋じゃ――」

「空き部屋なら腐るほどあるから。……流石に一晩同じ部屋は問題がありすぎるだろ」


 ため息交じりに言われた事を数秒間咀嚼そしゃくして、黎はその意味に気づき顔を赤らめる。


「じゃな、ゆっくり休めよ。――お休み」


 動揺してお休みの挨拶も出来ない程には、黎はシンを意識しているのだと気づかされた。

 黎は大人しく布団に戻り目を閉じる。


(早く、体調治して……小夜の所に帰らなきゃ)


 黎は必死に自分に言い聞かせている。もはや呪詛じゅそのように唱える時点で、黎が本当は何を望んでいるのか、その心は決まっていたのだろう。



 ――そんな風に考えていたから、神様は黎に天罰を下したのかもしれない。

 翌朝、熱も下がりすっかり元通りになった黎のもとに、早朝から街の様子を見に行っていたシンが苦悶くもんの表情をたたえやってきた。

 彼が手にしていた新聞を見せられて、黎は頭の中が真っ白になった。


『久遠院家の令嬢。軍将校を負傷させ逃亡。赤軍と共謀か』


 小夜と煌の婚礼の事が大きく取り上げられるはずの新聞の一面に、そんな文章が刷られていて。


「考え得る限り――最悪の展開だな」


 シンの言葉は黎の耳に届かず、震える手で新聞を握りしめた。

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