第七話 縋った手のその先に③

 ◆

 どうやって皇居を抜け出してきたのか思い出せない。強い力に手を引かれて、あやつり人形のように動く足に運ばれて、気づけば黎は小さなボロアパートの前に立っていた。

 ここ最近、毎日のように通っていた千住荘は、今日は人の気配がなくしんと静まり返っている。

 シンに手を引かれ黎は中へと入った。いつもなら突き当りの談話室に直行するのだが、シンは玄関を入ってすぐ脇の階段を上り二階へと向かう。

 二階は各々の個室が並んでいるフロアで黎もここに足を踏み入れるのは初めてだった。

 ある部屋の前で立ち止まると、シンはふところから小さな鍵を取り出した。鍵穴に差し込むと少しきしんだ音がして、鍵はすんなりと回る。


「入れ」


 背中を押されて黎はのろのろと扉をくぐった。狭い六畳ほどの部屋が目に飛び込んでくる。

 玄関のすぐ横に小さな流しが備え付けられて、あとは押し入れと通りに面した小さな窓しかない。そんな部屋でも誰かがここで生活している匂いがする。


「とりあえず座れ。茶でもれるから」


 シンに促され黎は中央のちゃぶ台の前に座らされた。しばらく流し台の方からカチャカチャと茶を用意する音だけが響く。

 程なくして黎の目の前に使い古された湯呑ゆのみが置かれた。ふわりと浮き上がる湯気の温かさに渇いたはずの瞳がまた潤む。


「あの、ここは……」

「俺の部屋だ」


 淡々と答えるシンは黎の向かいに座って同じく湯呑に口をつける。

 黎は虚ろな目でシンの部屋を一瞥いちべつした。六畳の小さな部屋。簡易の流しと押し入れしかない部屋にはちゃぶ台以外まともな家具が置かれていない。部屋唯一の窓は小さく方角にも恵まれていないためか室内は薄暗く少しじめじめとしていた。


「どうして、私をここに連れてきたんですか?」

「皇居からならここが一番近かったから」

「どうして、連れ出してくれたんですか?」


 その質問にはシンは口を噤んだ。

 黎を連れ出した張本人はどこか気鬱きうつな顔をして面倒くさそうにため息をつく。

 黎は膝の上でこぶしを握り締めた。シンは明らかに黎を連れてきた事を後悔している。あの時、確かにすがったのは黎だ。でも、面倒だと思っているならどうして手を引いてくれたのか。黎は俯いたまま自分の手を見つめ、じっと答えを待つ。


「……わかんねえ」

「……は?」


 黎は思わず顔をあげた。そっぽを向いてこちらを見ようとしないシンは眉間に皴を寄せたまま固まっていて、


「わかんねえよ、そんなの。でもそんな顔で縋られたら置いて行けるわけないだろ」


 その瞬間、黎の胸中を埋め尽くしたのは喜びではなく――怒りだった。


「……なんですか、それ」


 黎は声を振り絞ってうなった。目の前のシンの顔が怪訝けげんに染まる。


「それって、同情……って事ですか」


 黎は勢いよくちゃぶ台を叩いた。握り込んだ両手の拳がジンと痛む。


「私が……っ、そんなに可哀想な子に見えましたか」

「おい――」

「恐ろしい事件に巻き込まれて、軍人に詰問されて、怯えて何も出来ない可哀想な奴だって思ったんですか⁉」


 憐れだと思われて、可哀想だったから手を貸してくれた。でもそんなのは、黎にとっては屈辱以外の何物でもなかった。


「……本当は私の事なんてどうでもいいくせに」


 シンの目が大きく見開かれた。一度せきを切って溢れてしまった思いが黎の中でどんどん増殖して、涙と一緒に流れ出す。


「おい、何を言って――」

「だってそうじゃない! 私の事を皇女としか見てない! 自分たちに有益な発言をしてくれる駒としか見てない! 私の事を信用してくれないし、貴方の事も何も教えてくれない」

「……」

「なのに、――なんで貴方はそんなに私に優しくするんですか⁉ 貴方が優しいから私は勘違いするんです。貴方に縋ろうとしてしまうんです……! 貴方のせいで――」


 しかしその先は派手な音でさえぎられた。さっき黎がしたより何倍も強く、シンがちゃぶ台を叩いた。

 黎の喉が鳴る。無意識に恐怖を覚え息を止めた。シンが立ち上がると荒々しい足取りで黎の側に近付いてきた。黎は思わず後退る。


 ――怖い。


 目の前に立ちつくす、自分とは全く違う。――大人の男の人。


「……っ!」


 胸ぐらを掴まれて黎は身体を強張こわばらせた。強く引っ張られたはずみで、首にかけていたペンダントの紐が切れる。

 カシャンと、音を立てて、宵暁珀しょうぎょうはくたたみに滑り落ちた。


「それはお互い様だろ」


 目の前から発せられたおどろおどろしい言葉は予想外のもので、黎は言われている言葉の意味が分からず目を白黒とさせる。


「確かにあんたの言うとおりだ。俺にとってあんたは駒だよ。俺たちの主張を通すための、必要な道具だ」


 無慈悲な言葉が突き刺さる。黎はしゃくり声をあげてその恐怖に耐えた。


「でもあんただってそうだろ。自分を怖い目に遭わせた碧軍を潰すためにあんただって俺らを利用してるんじゃないのか? あんたは皇女だ。俺らみたいな人間に本来肩入れするべき人間じゃない。それがわかってるからあんたには何も言わないんだよ。あんただって国のために軍を告発しようって、そのために俺らを利用している立場だろ!」

「違う! 私は――」


 黎の本当の願いは、


「私はこの国を守りたいの! 小夜がいるこの国を守りたいの! でも、――本当は違う!」


 黎は皇女でこの国の安寧あんねいを願う存在、そのために、自分は国のために出来る事をする。シンの言うとおりだ。シンたち赤軍と手を組む事で、国のうみを取り除きたい。そのために彼らと仕方なく交流しているのだと黎は思っていた。

 でも今日の壬晴と美朱の会話でわかってしまったのだ。あの時黎は、碧軍を肯定し赤軍を否定する二人の話を聞いて、


 ――悔しかった。赤軍を――シンたちを否定されたことが、悲しくて、悔しかった。


「私は他の人がどうののしろうが関係ない! 国のためじゃない! 私は――貴方の力になりたいの!」


 気が付けば黎は目の前の人にすがり付いていた。肩を震わせ嗚咽おえつを漏らしてみじめに泣いていた。


 一体いつから?

 いつから黎は、この国をうれう事を忘れてしまった?


 平穏なんてどうでもいいと。ただ、あの赤軍の仲間たちが集うこの千住荘で過ごす日々が愛おしくて、あの輪の中に入りたくて、仲間だと思われたくなった。そして何より、


 ――目の前にいるこの人に、認めてもらいたかった。必要とされたかった。


 黎を縛っていた手が解かれた。支えを失くした黎は力なく項垂うなだれる。ポロポロと零れ落ちる涙が畳に吸い込まれていくのを黎は酷く惨めな気持ちで見つめていた。

 黎はそっと顔を上げた。目の前にはこれ以上ないほど驚いているシンの顔があった。


「私は……、」


 黎はもう一度自分の本当の願いを告げる。


「私は、貴方の事が知りたい」


 黎にとってこの人と共にいる理由は、ただそれだけだった。

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