第七話 縋った手のその先に②

「おい見たか?」


 しげみに隠れたモーリーがはずんだ声でグラントに呼びかける。上等なスリーピースに身を包んだ異国の官僚が二人連れだって物陰にひそめているという図は、はたから見たら怪しげな事この上ないが、グラントはともかくモーリーは全く気にした風には見えなかった。頭に枝葉をくっつけたモーリーはむしろ嬉々とした様子でその様子を見守っている。


「今のは皇族の令嬢だ。年齢からして世襲親王家の人間か?」

「顔は拝見した事があります。確か久遠院とかいう」

「久遠院――って事はあの男の娘か」


 モーリーは苦々しく口を歪める。数か月前に会談した能面の様な外務卿の顔を思い出しているに違いない。だが彼はすぐに首をすくめ、


「殴られた男は帝国軍人、そしてあの娘をさらった男は――」


 グラントもはっきりと見た。長身の男の目に湛えられていた――美しい青の光。


「まさかあれが、『矢矧』ですか?」

「確証はないがそうだと面白い事になる」


 モーリーは今にも高笑いを浮かべそうになっているのをぐっと堪えた。


「赤軍の将が紫宸殿ししんでんという神聖な場で、しかも皇太子の婚礼の儀というハレの日に、軍人を昏倒こんとうさせ皇女を誘拐した。――それだけなら赤軍を糾弾する記事にしかならんだろうが……」


 一部始終を垣間見ていたグラント達は真相がそうではない事を知った。単純な誘拐――いや、そうではないもっともっとセンセーショナルな事実が彼らの目の前で繰り広げられたのだから。


「これは好機だ、軍部と、あのテロリストどもを同時にあぶりだすチャンスだ」

「……何をするつもりで?」


 グラントは恐る恐る尋ねると、モーリーは答えの代わりに口を三日月に細めた。




 ◆

 間もなく婚礼の儀最初の式である皇帝拝謁はいえつの儀が執り行われようとしていた、その直前、婚礼衣装に着替えその時を待っていた小夜の元に一報が入る。


「黎が、いなくなった……?」


 血相を変えて飛び込んできた侍従長と内務大臣の顔色を見るに冗談を言っているようには見えなかった。小夜の側に控えていた君塚も唇を真っ青にして彼らを問い詰める。


「いなくなったってどういう事ですか!?」

「それが、先ほど紫宸殿の敷地内で新堂陸軍大尉が倒れられているのを発見されて……」

「新堂、って黎の――」


 小夜は思わず立ち上がった。着物の重量が一気に肩にのしかかりふらついて、側に控えていた女官らに支えられる。


「命に別状はありません。意識も戻られています。ただ、……新堂様の証言によると、黎様と歓談中に口論になった時何者かに後ろから殴られた、と」

「何ですって!?」


 小夜は顔をさっと青ざめさせた。


「おそらく何者かに連れ去られた可能性が高いと思われます。今、軍部が総力を挙げて近隣を捜索しており――」


 家臣の報告は小夜の耳にはほとんど入ってこない。

 状況から見れば、彼らの言う新堂を殴ったその何者かに黎は連れ去られたとみるのが最も可能性が高い。この一般参賀の雑踏に紛れて何か良くないものが入り込み黎を誘拐した。


 そう捉えるのが普通なのだ。――普通、ならば。


 小夜の脳裏には昨日共に話をした黎の姿が思い出される。


『あの人の事を悪く言わないで』


 黎の怒った表情、すべてを拒絶するような攻撃的な激情。あの時の黎を目の当たりにしなければ、小夜もそれで納得したのに、


「それで、式はどうなるのですか?」


 君塚の問いに侍従長らは渋面を浮かべた。


「皇居内でこのような事が起こってしまっては……」

「中止にする必要はない」


 その時、凛とした声が部屋に響き渡る。皆一斉に入口の方に目をやると、そこには小夜と同じく重々しい衣装を身に付けた煌がいた。


「あ、煌様!?」

「式は予定通り続行してくれ。ただし警備の強化は怠らないでほしい」


 事情を把握しているはずの煌はいたく冷静だった。冷静過ぎて、小夜はゾッとするほどだった。


「煌様……、黎は――」

「小夜。皇帝皇后両陛下が拝殿にてお待ちだ。紫宸殿にも、すでに多くの民が我々の登壇とうだんを待ち望んでいる。今ここで事件の事を明るみに出し、式を止めてしまえば皇族の沽券こけんにかかわる」


 小夜は少なからずショックを受けた。あんなに小夜と黎の事を実の妹のように大切にしてくれた煌が、今は婚礼の事に集中せよと皆をたしなめている。

 それはあまりにも不自然で、違和感がある。


「煌様は、黎が大切ではないの?」

「小夜……」


 自然と詰るような口調になってしまって、小夜は慌てて口をつぐんだ。すると、煌がゆっくりと近づいてきて、小夜の肩にその大きな掌を乗せる。


「小夜、今日は私と君の婚礼の儀だ」


 今一度、煌は強く小夜の肩を掴んだ。


「今日我々がなすべきことはなんだ? この儀を無事成功させ、民に宵暁国の弥栄いやさかを印象付ける事だろう。それ以外の事は、……頭から排除するんだ」

「排除って、そんな、私は――」

「小夜、頼む」


 強く、強く肩を押された。心なしか、煌の手は震えているように感じる。

 小夜は何も言えなくなった。今までの小夜なら、たとえ煌が相手であろうが『そんな事言っている場合じゃない』と突っぱね黎を探しに飛び出していっただろう。でも、今の小夜にはそれが出来ない。

 重い礼装、周囲の視線、そして――愛しい人の強い嘆願。小夜を取り巻く何もかもが、『黎を追うな』と訴えかけてくる。


『二度と顔を見せないで』


 先日黎にはなった言葉が今になって小夜の肩にのしかかる。

 自分はなんてひどい事を言ってしまったのだろう。それは黎だけでなく、小夜すらも縛り付けるおもりになって。


「——わかりました」


 小夜はただ頷くしかなかった。「時間です」と告げた女官たちに促されて、ゆっくりと重い着物を引きずって歩き出す。隣には煌がいる。周りの臣下たちも、皆小夜と煌の婚礼を祝福してくれる。

 控室を出る直前、小夜はちらりと窓の外を垣間見た。

 気の狂う程の快晴。その真っ青な空を鳶が一羽飛んでいく。


 あの鳶はどこへ向かうのか?


 小夜にはもう、彼女を追いかける術はない。

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