第六話 二人の女⑥

 ◆

 福崎ふくさき春日井かすがい市。炭鉱と製鉄業を生業にする地方の大都市であるこの地を訪れるのは、煌にとって初めての事だった。ここ数年、父に代わり巡幸を代行していたにもかかわらず、この地には縁がなかった。まさかこんな形で訪れる事になろうとは思いもせず、煌は気が急いた様子で訪れた屋敷の主の到着を待つ。

 ここは春日井の市内にある一番の豪邸。この地の大地主である吉井の邸宅だ。突然の皇太子の訪問に屋敷の使用人たちは血相を変えて慌てふためいていた。当主の吉井藤次郎は不在だったがすぐに連絡が行き間もなく帰宅する予定だそうだ。

 と、言っているうちに玄関の方から慌ただしい足音が近づいてきた。血相を変えて部屋に飛び込んできたのは、ここ数日紙面で何度も目にした男だった。


「で、殿下……。本当に――」

「吉井藤次郎殿だな。突然の訪問に応じていただき感謝する」


 よほど慌てていたのだろう吉井は髪を振り乱し平伏し始めたので煌も呆気あっけにとられる。


「そのようにかしこまらなくてよい。突然押しかけ迷惑をかけているのはこちらなのだから」

「いえ……っ、いいえ違うのです。殿下、そのような……。私は、」


 吉井は委縮しすぎて見ているこちらが申し訳なくなってくる。やはり突然押しかけたのは得策ではなかったか、とにかくこの男が落ち着きを取り戻してから、ここに来た経緯を話そうと思ったのだが、


「殿下は、も……もうご存じなのですね。――私の悪事に、ついて」


 煌は息を呑んだ。そうとは知らず、吉井は勝手に独白を続ける。


「貴方様がわざわざ足をお運びになったというのはそういう事なのでしょう!? 私が、この国を――皇室を裏切った事も……、そのせいで人を――」

「待て、一体なんの話をしている?」


 思わぬ展開に煌は慌てて平伏する吉井に駆け寄る。吉井の顔は青白く、今にも倒れてしまいそうな様子でガタガタと震えていた。


「私が……、皇室の宝である宵暁珀しょうぎょうはくを悪用した事を――」


 その言葉を聞いた瞬間、煌の脳裏に浮かんだのは以前恭夜と話した宵暁珀の横流しの一件だった。


『何者かが、国内の宵暁珀を密売している』


 そう踏んでいた恭夜は、煌とも何度か対談しその対抗策を練っていた。


(ああ、やはり――そういう事か)


 吉井が何を懺悔ざんげしようとしているのか、煌のおおよその予測は当たっているだろう。だが、本来煌がここまで足を運んだ理由とはまた少しずれている。――いや、どこかでつながっているのかもしれない。


「その件に関して詳しく説明をしてもらいたい。そして……一年前の襲撃事件の件も」


 煌は吉井の肩に手を置くとグッと力を込める。


「そしてあの事件の要因になった、矢矧という男について尋ねたい」

「……!」

「貴方は何を知っている? ――全て話してくれ」


 吉井は項垂うなだれたまま、弱弱しく何度も頷いた。




「最初は六条財閥から持ち掛けられた提案でした。この地で採掘される宵暁珀の専売をやってみないか、と」


 悲観に暮れた顔をした吉井がぽつぽつと語りだす。それは皇太子である煌にとっても、無関係ではない話だ。


「一年ほど前まで、定期的に海外市場で宵暁珀が売買されている形跡があった。それは貴方が関与していた事なのか?」

「はい。……春日井の鉱山を取り仕切っているのは地元の炭鉱会社で、その筆頭株主が六条財閥なのです。財閥の総裁、六条勘助殿が出資をして、その鉱石の一部を横流ししていました。これは宮内省を介さず六条が独自に打ち出した密売計画です。昨今、国際市場で宵暁珀の付加価値が跳ね上がっている。宵暁珀の採掘権をめぐって、列強がひそかに動いているという話は私も何度か耳にしました。そんな折、六条氏に声をかけられたのです。


『上手くいけば現収の数十倍以上の利益になる』


 目先の欲に目がくらんだ当時の私は二つ返事で頷きました。私と六条氏は宮内省を欺き密かに宵暁珀の密売ルートを確保し、そしてまずは一キログラム程の珀塊をりに出しました」

 吉井の身体がぶるりと震えた。つられて煌も背筋に悪寒が走る。


「珀塊は一瞬で何十億という値が付けられた……、正直、予想以上でした。私はそれ以来何度も宵暁珀を六条に横領していました。その売り上げの四割を提供され、私は感覚が麻痺し何も見えていなかった。六条は協力の見返りに私の政界進出の後押しもしてくれた。今にして思えば、私はあの時あまりに事がうまく運びすぎて盲目的になっていたのです。――そんな時です。あの男が私の前に現れたのは」

「あの男?」

「――矢矧志貴。あの悪魔のような男が、私の前に現れたのです」


 吉井の顔色が一層青くなっていく。矢矧志貴、『戦争屋』と呼ばれた、極悪非道の武器商人が何故吉井の元を訪れたのか。


「矢矧が宵暁珀密売の出所を嗅ぎつけて強請ゆすりに来た、と?」

「ええ、ですが矢矧がわざわざ私の前に姿を現した理由は恐らくそれだけではありません」


 吉井は大きく深呼吸をすると、ゆっくりと話し続ける。


「実は私と矢矧は学生時代からの顔見知りでもあるのです」

「顔見知り……」


 ここ数週間矢矧の事を調べていたが、そんな情報は初めて聞く。矢矧と吉井に接点があったなど、だが、


(彼らは年齢で言うと同年代と言ってもいい。何らかの形で顔を合わせるのもあり得なくはないか)


 頭の中で推論を組み立てながら、煌は吉井に続きを促す。


「私は高等学校を卒業したのち帝国大学へと進学しました。政治家として大成する事を夢見ていた私は、上京してからというもの真面目に勉学に励み、およそ学生が好むような娯楽というものに興味を示しませんでした。しかし……、二回生に進級した直後の事、私は世話になっていた教授との宴席であの男に出会ったのです。……矢矧志貴、彼は学内でも有名な男でした。傍若無人で素行不良、だがあらがいがたい魅力を持った男だった。故、彼の元にはいつも人が集まった。性別問わず、誰もが彼のとりこになった」

「待て、矢矧は帝大の学生だったのか?」


 不意に煌は話をさえぎる。


「私の調べた中に彼が大学生であったという記録はなかったように思うのだが……」

「恐らく学籍はなかったものと思われます。ですが、教授と太いコネクションがあったのか、度々たびたび学会や宴席に顔を出していて、当時の帝大の学生で彼を知らない者はいませんでした」

「素性を知る者はその教授だけだったという事か?」

「いえ、恐らく教授ですら知らなかったものと思われます」


 誰も素性の知らない、だが、皆が存在を知っている奇妙な男。この話だけ聞けば、信じがたいものだが、ここ数か月矢矧の事を調べた煌は、矢矧ならばその状況もさもありなんと思ってしまう。


「宴席で私が彼と話したのはほんの数分でした。本当に挨拶程度の……、でも私は彼の事は強く印象に残りましたし、正直少し浮かれているところもありました。真面目一辺倒で面白みのない自分があんな人間と言葉を交わせたのだ、と。でも恐らく向こうは私の事など一瞬で忘れるだろうな、と思っていたんです。ところが――」

「その後、矢矧志貴が貴方の前に現れた」


 吉井は身を震わせ硬く頷く。彼は唇をかみしめたまま息苦しそうに俯いた。


「正直、再会するまで矢矧という名前を聞いてピンとこなかった私は何の警戒もないまま彼に会ってしまった。そして顔を合わせて驚きました。あの時の『矢矧』が私を見据えていた。矢矧は開口一番、私に向かって笑いかけました。『随分楽しい商売をしているようだな、吉井』と。何のことかとしらばっくれる私に対し、奴は次々に宵暁珀密売の証拠を突きつけてきた。六条の隠蔽工作は完璧だったはずなのに、どこで漏れたか全くわからなかった」

「……矢矧は、貴方に何を要求してきた?」

「奴の要求は単純でした。宮内省にばらされたくなければ取り分の三割をよこせと。ここで告発され糾弾されれば、議員の地位も危ういと踏んだ私は要求を呑むしかなかった。ですが、元々この密売は六条財閥が発案したもので、私はまず六条勘助氏におうかがいを立てました。そうしたら、――」


 吉井はギュッと目をつむり息も絶え絶えに続ける。


「『わかった。後の事は任せろ』そう告げられて、私は六条氏の元を後にしました。その数日後です。――あの恐ろしい事件が起こったのは」

「――大逆事件か」


 大逆事件。平友社をはじめとした共産主義者たちが一斉に検挙された事件だ。


「しかし、あの事件は平友社の代表者が逮捕された事件だ。宵暁珀の密売をネタにゆすりをかけてきた矢矧と平友社は何か関係があるのか?」


 吉井はこれまで以上に切迫した表情で顔に脂汗をにじませた。


「本当のところを申し上げると私にも詳しい事はわかりません。ですが、……関連があるとすれば、私と矢矧が出会った大学時代の宴席。その主催者である教授は今、赤軍に名を連ねている名誉教授なのです」

「……!」

「彼につく生徒の多くは彼に心酔していた。矢矧はそうでもなかったようですが、あの宴に参加していたものの多くは教授の信奉者だったんです。そして、その信奉者の中でも特に教授のお気に入りだったと言われていたのが――越田という男です」


 聞き覚えのある名に煌は戦慄する。越田は大逆事件で逮捕された平友社の社長。当時共産主義者の主軸であった男だ。


「越田は矢矧とは違う意味で狡猾こうかつでした。自分の所業が政府に睨まれるだろうことは承知で、あえて顔と名を売らずにいつも境界を見定めて動いていた。だがあの男もまた、矢矧と面識があった。面識どころか、彼らは他とは違う、友情が生まれていたように思います」

「矢矧と越田が親しい友人であったと?」

「どの程度の親しさかは分かりませんが、少なくとも私の様なその他大勢の取り巻きとは明らかに一線を画していたと思います。……大逆事件があった時、越田が逮捕されたと聞いて議員であった私も気になり、軍部の知り合いにそれとなく聞いてみたのです。越田はどんな様子なのか、と。そうしたら……彼は色んな事を喋ってくれました。そしてその話を聞いて確信しました。あの事件で捕らえられたのは、越田ではないと。容姿、振舞ふるまい、あげつらっていけば切りがないほど、その知り合いの話を聞けば聞くほど、私の脳裏には越田ではなく、別の男の姿が浮かんでいったのです」

「それが――矢矧か」


 つまり大逆事件で越田として捕らえられたのは矢矧だった。そして越田はその後軍の拷問を受け獄中死した。その事件と同時期に矢矧は市場に現れなくなる。

 ――すべてのつじつまが合う。


「なら問題は、何故矢矧が越田の代わりに逮捕されたか、だが」

「おそらくは六条財閥の根回しです。矢矧と越田の事をどこまで知っていたのかは知りませんが、矢矧を亡き者にするため、共産主義者検挙の大義名分を使って彼を逮捕させた……」

「なら越田は? 本物の越田はどこにいる?」


 煌が尋ねるが、吉井は苦しそうに首を振るのみだ。


「この事件に関して私は六条に問いただす事が出来ませんでした。真相を知れば最後、私も共犯として何らかの制裁を受ける事になるかもしれない。それが怖くて……。殿下、私のやった事は反逆罪です。貴方方皇族に殺されても文句は言えません」


 吉井はソファから崩れ落ちるように床に膝をつき、平伏した。煌は静かに頭をあげろ、と彼を宥める。


「宵暁珀密輸の件は、我々にとっても捨て置けん事象だ。しかる場所に報告し、そして然るべき制裁を受けてもらう。だが、その前に貴方には話してもらうべきことがまだあるのだ」


 煌は毅然きぜんとした態度で目の前にうずくまる吉井を見下ろした。


「一年前、貴方と六条勘助が矢矧に襲われたという事件については?」


 吉井はしゃくり声をあげながらもなんとか話出す。


「一年前、私の邸宅を襲ったのは若い男連中十人ばかりでした。物取りか強盗か、はたまた無政府主義者か。先の事もあり、どこかで平友社をおとしいれたのが私だという情報が漏れたのかもしれない。これはこれまでの悪行に対する報復なのだと、襲撃を受けた時はなんとなく、そう思っていました」


 それはおおむねあたっていた。吉井宅を襲撃したのは赤軍の過激派だ。吉井はあまり表立って活動する議員ではなかったが、議員を襲うという目的も理念もある程度は理解できるもので、故に世間では赤軍の過激派によるテロだとして片づけられた。


「ですがその首謀者が矢矧だという事を知ったのは混乱が収まった後になってからでした。襲撃を受けた時、私はまるでそんな事考えもしなかった」

「……貴方はひょっとして、襲撃に来た人間を目撃したのですか?」


 ややあって吉井が頷く。煌の体内でどくりと心臓が跳ね上がるのを確かに感じた。


「確かに私は見ました。襲撃者と、彼らに指示を出している首謀者らしき人間を」

「それは矢矧ではなかった?」

「ええ、別人です。だから『襲撃者は矢矧だ』という一報を聞いた時私は耳を疑いました。そんなはずはない、と」

「だが、あの事件時報道通信社に矢矧の名前で声明文が出た。噂や憶測でもなく、あれは矢矧がやったのだと世間は認知したのだ」

「いいえ、あれはどう見ても矢矧ではありませんでした。ですが私を見据えるあの恐ろしい憎悪の瞳は間違いなく、私を憎んでいた。私を衆議院議員だからでなく、吉井藤次郎個人として襲撃した、そうその目は語っていました。……私が思い当たる節など、密売の件と矢矧の件しかない。それで、私は矢矧の身内が復讐にやってきたのだと、そう思いました」

「身内、か……」


 矢矧は謎の多い男だったが、息子がいてもおかしくない。若い青年だとすれば年も合う。


「そいつ、矢矧の息子だったという線はあるか?」

「わかりません。……正直あの時の記憶はあまり思い出したくなくて……っ!」


 吉井はまたガタガタと震え始めた。目は血走り、今にも錯乱しそうになっている様子を見て、煌はこれ以上の追及は彼を壊してしまいかねないと判断するが、


「――ああ、でも」


 顔面を蒼白にしながらも、吉井はかろうじて言葉を紡いだ。


「目が――」

「目?」

「はい、目が、まるで宵暁珀そのもののように美しかった」


 吉井は恐怖にさいなまれながらも、どこか恍惚こうこつとした表情で呟いた。


「あの……、深い海を思わせるような瑠璃が、炎の揺らめきで……茜の如くまたたいて――。私は、宵暁珀そのものが、私をたたりに来たのかと思うくらい――」


 それから吉井は正気を失ったようにぶつぶつと独り言を呟いていた。もはや煌の姿すら目に入っていない。これ以上の尋問は、彼の精神衛生上よくないだろう。


「わかった。貴重な話をありがとう。感謝する」


 煌は静かに立ち上がると、来た時と同じように供もつけずに吉井の邸宅から立ち去った。

 帰路の車内で、煌は先刻までの吉井の話を思い出す。


(大逆事件の真相は概ね推測が叶った。だが肝心の……『今の矢矧』の事はわからずじまいか)


 残された課題に顔を歪めながら、煌は腕時計に目をやる。時刻は夕刻、今から帝都に帰っても深夜になる。今日はどこかに宿を取るべきかと考えた時、


「……小夜は、怒っただろうな」


 婚礼の儀の打ち合わせをすっぽかすなんてと、臣下から散々小言を言われるだろうが、そんなものは煌にとって大したことはない。だが、小夜を悲しませることになったとしたら――。

 煌は自分の無鉄砲な行動を珍しく後悔した。

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