第六話 二人の女⑤

 ◆

 カーテンの閉め切った部屋は夕暮れの強い明りすら届かなかった。深い闇に沈んだ部屋で、小夜はベッドに腰掛け何をするでもなくぼうっと時間を潰している。

 煌に予定をすっぽかされてどうして落ち込んでいるのか自分でもわからなかった。煌は自由奔放な人だ。ふらりとどこかへ出かける事も珍しくない。そもそも、煌にも事情があるかもしれない事で小夜は本来怒るべきではない。

 なのに、今日はどうしても許せなかった。許せない、というよりも受け入れられなかった。

 君塚は気を落とすなと言ってくれたけれど、小夜には到底難しくて、食事もいらないと一人部屋に籠る。


 一人でいると思考はどんどん後ろ向きになっていく。

 この婚礼を特別に思っているのは小夜だけだったのだろうか。煌は婚礼なんかただの義務の一つに過ぎないと思っているのだろうか。

 小夜は、どうしてこんなにもやるせない気持ちになっているのだろうか。

 そんな時、


 コンコン


 躊躇ためらいがちなノックの音。この音の主はすぐに分かる。内気で、こちらを気遣う事ばかり考えている者の姿が目に浮かんだ。


「――黎?」

「小夜、私だよ」


 透き通ったたまの声。もう何十年も聞いていなかったんじゃないかと錯覚するくらい、その声は小夜の痛み切った心に染み渡った。

 小夜は飛び上がって扉を開けた。小夜の思い描いていた通り、そこには最愛の妹が立っている。


「小夜、君塚から聞いたの。小夜が、落ち込んでるって……」

「……」

「ごめんなさい。私、なんて言ったらいいかわからないけど――」

「何も言わなくていいわ」


 小夜は黎をきつく抱きしめた。まるですがりつくみたいな抱擁ほうようはいつかの幼い頃にどこかで交わしたものと似ている。


「何も言わなくていいから……」


 側にいてほしい。かすれた声は言葉にならない。それでも黎は受け止めてくれる。だって黎は世界のだれよりも小夜の事を理解していて、世界で誰よりも小夜の味方でいてくれるから。



 二人でベッドに腰掛けて話をした。今日、煌に婚礼準備をすっぽかされた事、それだけではなくて、ここ最近ずっと己の中だけでため込み続けてきた、結婚に対する不安と焦燥を。


「そっか、……辛かったね」


 黎は小夜の背中を撫でてなだめてくれていた。黎は臆病で人見知りだけれど、いつだって小夜の気持ちに寄り添って弱さを受け止めてくれる。そういうところは子供の頃からちっとも変わらない。慈悲深い聖母のような温かさに小夜は少し心の奥がうずいた。


「大丈夫だよ。煌様が奔放ほんぽうなのは今に始まった事じゃないし。今回もひょっとしたら公務に関わる事なのかもしれないわ」

「そうかもしれないけど……」


 やはり小夜は納得いかない。なんだか隠し事をされているみたいで、ないがしろにされているみたいで腹が立つのだ。


 ――腹が立つ。そうだ。


 ふと小夜の頭の中で自分の中にすとんと納まる感情を見つけた。小夜は悲しいわけではない。むしろ怒っていたのだ。


「ああ、なんだか黎に聞いてもらってたら段々腹が立ってきたわ!」


 煌が帰ってきたら頬に張り手の一発でも食らわせてやろうかしら、と息巻いていると、黎が隣でクスクスと声を立てて笑い出す。


「どうかしたの? 黎」

「ううん、よかった。いつも通りだね。その方が小夜らしいよ」


 黎はとても嬉しそうに笑っていた。

 その笑みにやはり小夜は心のどこかが疼くような感覚がする。

 それはきっと、気づいてはいけないものだったのだと思う。ここで小夜が黎にお礼を言って、


「気分が晴れたわ、黎に聞いてもらえてよかった」


 そう言って別れていれば何も起こらなかった。

 小夜は煌に腹を立てつつも、彼を許してそして式にいどめたと思った。

 ――それなのに、


「ねえ、黎」

「ん? なに?」

「黎は、新堂様とどうなったの?」


 小夜は破滅の引き金を引いた。

 その瞬間、黎をまとっていた温かな空気の皮がべろりとがれたのが確かに分かった。柔らかな微笑みが突如として、鉱石のように堅い能面の笑みに変わる。

 ああ、これが先ほどから感じていた胸騒ぎの正体だ。けれど一変した黎の雰囲気に小夜は動揺しなかった。


「新堂、様とは……」

「会っていないんでしょ?」


 そして小夜もまた、さっきまで被っていた黎が『小夜らしい』と形容してくれた皮を取り去っていた。お互いに想いあう双子の姉妹から、腹を探りあう醜い女たちになって。小夜と黎は対峙する。


「黎、貴女……何か隠してるでしょう」

「どうしてそう思うの?」

「だっておかしいもの。最近学校に熱心で帰るのも遅くて」

「それは、その――友達と出かけていて」

「友達、ね」


 小夜は冷笑を浮かべた。黎の言葉が嘘だという事は双子である小夜には手に取るようにわかる。


「黎」


 自分の口から飛び出た名前は驚くほど冷たかった。黎の身体が凍り付いていくのが隣にいる小夜にはわかる。でも容赦はしない、黎だって小夜が思う程怯えているわけではないからだ。

 黎は怯えたふりを辞めた。小夜が今までに見た事の無いような、強いまっすぐな目をして、


「小夜、私……この国を裏切る事になるかもしれない」


 小夜は耳を疑った。黎の声で、黎が絶対に言わないような台詞を目の前の女がのたまった。


「最初は国のためになると思ったの。宵暁国を脅かす、悪質なうみを吸い出すために必要な事だって。そのために、私が役に立てるのなら、そうしたいって思って」

「ねえ、待って。黎、何の話をしているの?」


 小夜は理解が出来なかった。黎の話は突飛で抽象的で、彼女が何をしようとしているのか全く理解できない。


「今は深く言えないの、ごめんなさい」

「深く言えないって……、一体何をしようとしているの?」

「——ごめんなさい」


 黎はただひたすら謝るばかりだった。謝罪の言葉を述べているのに、黎の目に迷いがない。まったく揺らがない、それが小夜にとって末恐ろしくて。

 だから必死に探した。どうして黎がこんな顔をするようになってしまったのか。あの内向的で、心優しかった黎を変えてしまった理由——存在を。


「誰かにそそのかされたの?」


 黎の目が大きく見開かれ、目に見えて動揺した。それはもう肯定しているも同然で、次に小夜の中に膨れ上がったのは、その顔も知らない誰かに対する強烈な怒りだった。


「誰? 誰が黎にそんな事をしろって言ったの?」

「違、う……。命令されたわけじゃなくて——」

「でも貴女にその何かをしろって言ってるんでしょ!? 結果的に国を裏切るような! 新堂様じゃなかったら一体誰がそんな事言うの!?」

「そうじゃない……、あの人は――」

「そいつは貴女の優しさに付け込んでるだけよ! そんな極悪人、私が――」

「違う!」


 黎は大声を出して立ち上がった。その気迫に小夜は言葉を失ってしまった。

 目の前で息を荒げる黎は、今まで見た事もないようなおぞましい顔をしていた。怒りと憎悪に支配された、醜い――女の顔をしていた。


「あの人の事を悪く言わないで!」


 今や彼女の瞳に映る小夜は、大切なものを傷つける敵だった。自分がそういう風に映っている事が唯々信じられない。

 ――でも、よくわかった。


「……そう、じゃあ勝手にすれば」


 抑揚のない自分の声音に、こんな冷淡な態度がとれるものかと小夜自身も感動した。さっきまでの怒りは急激に収まって、小夜の身体は逆にどんどん冷えていく。


「出て行って」


 小夜は黎の顔を見ずに告げた。


「どこにでも好きなところに行きなさいよ。国を裏切るならあんたは私の敵よ」


 この国はいずれ煌が治める。そしてその傍らに立つのは、小夜だ。

 たとえ煌が小夜との婚礼を蔑ろにしたって、黎に思いを寄せていたって。

 皇后という地位を手に入れるのは小夜だ。


「出て行って。二度とその姿を見せないで」

「……っ」


 背後で黎が部屋を飛び出すのを感じた。同時に、小夜はその場にへたり込む。身体がズタズタにされたみたいに痛い。嗚咽が漏れて、目から勝手に涙があふれてきた。


『世界中が敵になったって――』

『貴女は私の味方でいる』


 幼い頃布団の中で交わしたあの誓いはもう、びてほころんで消えてなくなってしまった。黎が変わってしまった事よりも、その事実が悲しくて堪らなかった。

 小夜は半身がちぎられたみたいな苦痛に身体をむしばまれて、一人静かに泣いた。

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