第六話 二人の女④

 とはいえ賭けなんてやった事のない黎がそう簡単に勝てるほど甘くはなかった。勝負は五回勝負。一人二十枚チップが配られ、それを疑似ぎじ貨幣として賭ける。五回戦が終わった段階で、一番チップを多く持っている人間が勝ちだ。

 一回戦は見よう見まねで五枚賭けたが、あっさり二十一を越して負けた。二回戦は慎重に二十一手前で止めたが、シンが二十一を叩きだしたので参加者全員のチップが吸われた。三回目はまんして二十一を揃えたが、チップが少なすぎて取られた分を取り返す事が到底できなかった。焦る四回戦はまたしても二十一を越してしまって脱落した。

 そして運命の五回戦目、黎と一緒に戦っていた選手ももうボロボロだ。気づけば胴元のシンに場上のチップのほとんどが集まっている。もはや覆す事の出来ない敗北。ここから一回で勝利を巻き上げる事なんて不可能だ。


「やっぱり矢矧さん強いじゃないですか!」

「お前らが弱すぎるんだよ」

「なんでそんなポンポンブラックジャック出せるんですか。詐欺ですよこんなの」


 隣に座っていた茂木もてぎという男が大げさに天をあおいだ。彼の手持ちはすでにマイナスを振り切っており敗北が確定している。黎以外は実際の金も賭けているようで、「ああ、俺の今月分の給料が……」という悲痛な嘆きが零れ落ちる。黎も自身の手札を眺めて、「これは勝てそうにないな」と心の中で呟いた。黎の手持ちのチップはあと一枚、これを賭けてブラックジャックをとってもシンのチップには届かない。初心者にしてはこれでも頑張った方だ、と諦めの境地だった。


 そもそもどうして自分はこの勝負に乗ったのだろう?

 確かに挑発されたのはそうなのだけれど、乗る必要なんてなかったのに。


『俺に勝ったらなんでも一つ言う事を聞いてやろう』


 黎はシンに勝って何をお願いしようと思ったんだろう? 自分でもよくわからない。と、


「最後は皇女様だな。……そうだな、じゃあ皇女様には特別ルールを設けてあげよう」


 突然シンが得意げにそう言った。


「最後のベット、皇女様が見事ブラックジャックを引いたら俺のチップを全額やろう」


 またしても観客がどよめいた。固まる黎にシンは胡散臭い笑みを向ける。

 これはどういう意図なんだろう。まるで今までの駆け引きをすべてふいにするような。

 何か勝算があるのだろうか? 絶対負けない自信が?

 ――いや、


(この人、絶対私の事からかってる)


 黎の直感はよく当たる。シンは恐らく皇女様にはできないとたかくくって、こちらの事を甘く見ている。黎は次第にむかむかしてきた。沸々とした怒りを込めて、黎はカードを引く。

 今日一番の歓声が部屋中に響き渡った。





「――で、俺を下僕げぼくにして何をさせようってんですか、皇女様」

「人聞きの悪い事言わないでください。下僕なんかにするつもりはありませんから」


 帰り道、黎はシンをともなって学校に戻る帰路についていた。

 結局賭けは最後の最後に黎がブラックジャックを引いて大勝した。最後のカードをめくった瞬間一番驚いたのは黎自身だ。まあどちらにせよ賭けは黎の勝ち。『負けたら何でも言う事を聞く』と宣言したシンを連れて、黎はあの場を後にした。


「するつもりじゃないならなんでわざわざ外に出る必要が?」

「それは、だって……」


 黎は立ち止まって俯いた。


「……恥ずかしいから」

「は?」

「あ、あの場では他の皆にも聞かれるでしょう?」


 もじもじと躊躇ためらいがちに告げる黎に、逆にシンは意地悪そうな笑みを浮かべた。急にシンが近づいてくる。


「皇女様は俺にどんな恥ずかしい命令をする気なんですかね?」


 至近距離で顔を覗かれて黎は心臓が跳ね上がった。


「べっ、べつに、そういう事じゃ――」

「じゃあ早く言ってくださいよ。ほら、学校着いちまいますよ」


 完全に主導権を取られて黎はまた怒りを覚えると共に恥ずかしさがこみ上げる。

 別にやましい事をお願いするわけじゃない。ただ、――


「……ちゃんと、名前で呼んでください」


 辛うじて聞こえるか聞こえないかの声で黎はささやいた。

 結局何をお願いしたかったのか、自分でも整理できなかった。でも一つ不満があるとすれば、シンはいつだって、黎の事を『皇女様』だの『お嬢様』だのと呼んでいる事。

 予想外のお願いだったのか、シンは目を見開いたまま硬直した。数秒じっと見つめる黎の事を凝視して、それから彼は気まずそうに目を逸らす。


「……いや、俺苦手なんだよ」

「何がですか?」

「『様』付けすんの」

「呼び捨てでいいですよ」

「いや、さすがにそれは不敬だろ」


 シンの戸惑いは思わぬところにあった。珍しく狼狽する彼に黎はなんだか可笑しくなって笑みをこぼす。


「呼び捨てにされて不敬だと思うなら、私はとっくに貴方を不敬で訴えてますよ?」

「……」


 シンは苦虫を噛み潰したような顔をしてうなった。自分でも思い当たる節はあるらしい。シンはしばらく唸っていたが、やがて観念したのか長いため息をつく。


「わかったよ、――黎」


 その瞬間、景色が変わった。

 黎は今日一番――いや、生まれてきた中で一番、魂が大きく揺さぶられた。身体が熱くなって飛び上がりたくなるほど嬉しくて。

 ただ名前を呼ばれただけなのに、どうしてこんなにも気持ちが高ぶってしまうのだろう。小夜や煌に呼ばれるのとは全く違う。


「……まあ確かに、これはあいつらの前で言わないで正解だったな」


 そう言ってシンは咳ばらいをしてまた歩き始めた。


「ほら、早く行くぞ」


 黎も慌てて彼の背中を追う。いつもと変わらないはずの彼の背中を黎は直視することが出来ない。


 ――私、どうしちゃったんだろう?


 答えが出ないまま、黎はシンの背中を追って歩き出す。そのすぐ側であかね瑠璃るり錦旗にしきはたが揺らいだ。

 街は今やこの二色の御旗で彩られ、道行く人々もそわそわと浮足立っている。それもそのはずだ。


「……もうあと一週間で婚礼の儀か」


 シンの呟きに黎はもうすぐ大切な人たちが門出かどでを迎えることを思い出した。


(そうだ……、式典の準備とか、する事が色々あるはずなのに)


 黎は呆然としてしまった。まるで冷や水を浴びせられたかのように、指先が深々しんしんと冷えていく。

 あんなに嬉しくて、それでいて少し寂しかった小夜の婚礼の儀なのに。

 ――その事を気にも留めないくらい、黎はシンたちといる事の楽しさに浮かれていた。


「どうした?」


 立ち止まったままの黎をシンが怪訝けげんな顔で振り返る。もう見慣れた表情なのに、彼の心の奥にある真意を理解することが出来なかった。


「――あの、私があの隠れ家に出入りするようになってから三か月近く経ちました」

「――ああ、もうそんなになるか」


 シンはしみじみと天を仰ぐ。その仕草がやけにわざとらしくて、黎は自然と眉を吊り上げた。


「貴方、おっしゃいましたよね。あの事件の件で軍部を告発するために、私の力を借りたいと」

「ああ、言ったな」

「私は未だにその方法を教えていただけていません。貴方の目的も――」


 この三か月、黎がやっていた事と言えばあの隠れ家に時々顔を出し赤軍の皆と談笑するだけ。確かに彼らと打ち解けることが出来た、赤軍という相容れないと思っていた存在の人となりも多少なりとも理解できるようになった。

 ――でも、肝心の計画は進んでいない。シンの事もわからないままだ。


「そう怒るな。心配しなくても計画はちゃんと進めている」

「その計画とはどのようなものですか?」


 食い下がる黎にシンは露骨ろこつなため息をついた。夕暮れ時の人もまばらな通り。シンは信号待ちをするふりをして何気なく建物の壁に寄りかかった。


「アウレア・イッラに知り合いがいる」

「アウレア・イッラ……」


 シンの口から思わぬ名前が出てきてどきりとした。


「その人は向こうで国営新聞の記事を書いている。その人に頼んで、今回の軍部の発砲事件の件をリークしてもらう。――お前の名前を出してな」


 彼は周囲に会話の内容を気取られないようにするためか、俯いたまま抑揚よくようの無い声で語る。


「アウレア・イッラは共産国家だ。資本の独占を横行している財閥、そしてその財閥の融資を注ぎこまれている宵暁の陸軍のネタなら喜んで記事にするだろう。その知り合いも、……碧軍に対しては少々因縁がある。手紙を送ったらこころよく承諾してくれた」


 思いのほか国際的な話になり黎は動揺して言葉が出なかった。


「お前は名前さえ提供してくれれば、記事の内容はこちらで考える。それを向こうで記事にすれば――それで終わりだ」

「碧軍は――」

「前にも言った通り壊滅させることは出来ないだろう。だが、この事件は国際的に明るみになり、世間の非難を浴びる。あの事件を決行した上層部は間違いなく総崩れだ。記事を差し止めようにもアウレア・イッラの国営社相手ではどうしようもない。紙面に出れば、俺たちの勝ちだ」


 シンはにやりと笑った。その笑みに黎は背筋が凍る。


「――怖くなったか?」

「……」


 黎は答えられなかった。民間人を犠牲にし、己の所業を隠蔽しようとしていた碧軍を許せなかった。いずれ大切な人たちが治めるこの国にとって、この問題はいつか必ず大きな禍根となる。だから黎は、その禍根を取り除きたかった。でも、黎が加担しようとしている事は――、


「俺たちは悪人だよ、黎。この国の平穏を脅かす。そしてあんたはそれに加担しようとしている」

「それは……」

「あいつらと随分仲良くなったみたいだけど、仲間意識を抱いているのならそれは捨てた方がいい。あんたは皇女だ、立場がある。あんたはただ、俺に利用されたと思えばいい」


 大きななまりを身体に打ち込まれた心地がした。また一度、目の前のこの人に、はっきりと線引きをされたのだと思い知る。

 信号が青に変わった。シンは何事もなかったかのように歩き出す。黎はまたその背を追った。


「貴方は、私の事を信用していると言いました」

「ああ、信用してるよ」

「嘘」


 黎が断言するとシンはこちらを振り向いた。横断歩道を渡り切ったところで、怪訝な視線を黎に寄こす。


「信用なんてしてないわ、貴方」

「何故?」

「だって、私――貴方の事何も知らない」


 どうして赤軍の指導者をしているのか。何が目的なのか。どうして『矢矧志貴』と『シン』の二つの名前を持っているのか。


 ――貴方は、何者なのか。


「知らなくていい」

「どうしてですか?」

「必要のない事だから」

「――どうして⁉」


 黎はたまらず声を張り上げた。目の前に立ちふさがるこの男の真意が見えない。その体の奥に潜む心が、――何ひとつわからない。

 悔しさで涙が浮かんできた。


「私は――貴方の事が知りたい」


 泡のように溶けて解けた本音は、やはり目の前の男には届かない。


「その願いは叶えられない」

「……」

「もう行くぞ」


 シンはきびすを返して歩き出してしまう。その背を黎は黙ってついて行った。今にも零れそうな涙をたたえて、突き放された事実に打ちひしがれて、何も言えぬままその背を追った。

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