第六話 二人の女②

 ◆

 コン、コン


 お手本のようなノックが聞こえると、小夜は裁縫の手を止め「入っていいわ」と声をかける。


「お食事をお持ちいたしました」


 予想通り君塚が静かに礼をして入室してくる。いつの間にか時刻は正午を過ぎていた。最近、時の流れが恐ろしく速い。何かしているわけではないのに、朝起きて気が付いたら昼が来て、そして気が付いたら夕暮れになっている。


「まあ、裁縫をなさっていたのですか?」

「……する事が、なくて」


 嘘だ。本当は小夜はやらなければならない事がたくさんある。礼儀作法、宮中儀礼に宮中の慣習や宮内省制度について、講師に出された皇太子妃教育のための課題は手を付けられないまま書机に山積みになっていた。

 それなのに小夜は苦手だったはずの針仕事に逃げている。手の中には相変わらず不格好なレースの刺繍ししゅうが出来上がっていて、小夜はため息を漏らした。


「根の詰めすぎはよくありませんよ。さ、お召し上がりくださいませ」


 そう言って小夜の前に差し出された盆の上には近頃代り映えしないメニューが並んでいる。


「またお豆腐なの……、お肉が食べたいわ、せめて卵」

「なりません。婚礼前は動物性の物を食してはならないというしきたりでございます」

「しきたり……」


 ここ最近うんざりするほど聞かされた言葉だ。食べるものも着るものも細かく決められて、儀式に向けての日課が山のように増えて小夜の生活は徹底的に管理されていた。


(でも、これからこういう生活が続くのだから、慣れていかなくてはいけないのだわ)


 皇太子妃になれば小夜に課せられる制限はもっと多くなる。これはそれに慣れるための準備期間だ。そう割り切って、小夜は出された食事を口に運んだ。久遠院家お抱えの料理人が作るものだ、美味おいしくないわけがない。でも、のどを通らない、寂しい。君塚が控えているとはいえ、一人の食事は実に味気ない。

 こんな時不意に思い出すのは、いつも一緒にいた大切な妹の顔だ。


「……黎はどうしてる?」

「黎様ですか? この時間は学校におられますよ」


 至極当然のように答えられて小夜は呆然としてしまった。学校に通っていた頃の一日がどんな風だったか、小夜はすっかり忘れてしまっていた。


「近頃は放課後も出かける事が多くて、……仲の良いご学友が出来たのかもしれませんわ」

「そう、よかった」


 それを聞いて小夜は素直に良かったと思った。小夜がいなくなって寂しい思いをしているのではないかと思っていたが、黎はしっかりと自分の意思で歩いている。


「黎、なんだか最近変わったよね」


 小夜と過ごす時間が減って、同じ屋敷に住んでいるはずなのに一日姿を見ない時もある。それまでの黎ならどんなに忙しくても小夜の姿を見つけて駆け寄ってきたのに。


「内向的な方でしたが、少しずつ将来に向き合えるようになったのでしょう。小夜様の婚礼に、ご自身の縁談もありますから」


 そう、変わったのは三か月前。縁談相手の新堂とデートに出かけ、そして赤軍の襲撃事件に巻き込まれて帰ってきたときからだ。


「事件直後はふさぎ込んでいてどうなるかと思いましたが、せっかく前向きになられたのです。小夜様も応援してあげませんと」

「そう、ね……」


 それは嬉しいことのようで、どこか胸の痛みをともなう事。ずっと自分を慕ってくれていた可愛い妹が独り立ちしていく、その寂しさ。

 その一方で黎に対して感じる仄暗ほのぐらい感情。寂しさの中に入り混じる、確かな安堵。

 小夜は心のどこかでホッとしていた。黎と顔を合わせずにいられるのが、今の小夜の心の安寧あんねいを作っていた。


「新堂様とはどうなの?」


 事件の時はついカッとなってしまったが、小夜も二人の縁談の行方を心配しているのだ。すると、鉄壁の君塚の表情がわずかに崩れた。それは人によれば気が付く事の無い僅かな変化だったが、長年側にいる小夜はそれに気づいてしまった。


「ええ、順調でございますよ。あれから何度かお会いになる事もあって――」


 侍従らしい取りつくろわれた嘘。でも、それを指摘したところで小夜には何の利益にもならない。君塚はもちろん、黎のためにもならない。


「そっか」


 だから小夜はあえて追及することを辞めた。味のしない食事を機械的に口に運んで、なんでもない風に誤魔化した。


「黎には幸せになってほしいわ。……縁談も上手くいくといいわね」

「ええ。そうでございますね」


 君塚は一切の動揺を見せる事無く、小夜の側にいてくれる。きっと君塚なりの気遣いなのだろうけど、小夜にとっては疎外感を覚える事の何物でもなかった。


「さあ、お食事がすみましたら出掛ける支度したくを。今日は煌様との儀式の打ち合わせがございますから」


 だが、時間は小夜を置いて行ってはくれない。間近に控える婚礼の儀に向けて、小夜は見えない手にどんどん背中を押されていく。

 立ち止まってはいられない。

 小夜も覚悟を決めなくてはならない。そう思っていたのに、


 コンコン


 再び規則的なノックの音。君塚より少しつたない、これは若い使用人か。


「どうぞ」


 君塚が呼びかけると、姿を現したのは予想通り屋敷にきて日の浅い使用人だった。


「失礼します、あの……小夜様、それに君塚さん」

「はい、どうしました?」

「その……、先ほど、珀宮はくのみやの使いの方からご連絡があって」


 使用人は躊躇ためらいがちに目を泳がせた。君塚の表情が徐々にくもる。


「……煌様が、突然お一人で東北の方に向かわれたとの事で、本日の打ち合わせは延期にしてほしい、と」

「え――?」


 時が止まった気がした。小夜の背を押し続けていた見えない手がすうっとどこかへ消えていく。


「どういうことですか? 説明なさい」

「も、申し訳ありません。私にも、よくわからなくて――」


 君塚の詰問きつもんに若い使用人は涙目になっていた。震えた声で、何度も同じように繰り返す。


 ――煌がいなくなった。


 小夜との婚礼準備をすっぽかして、どこかに行ってしまった。

 もしかしたら公務かもしれない。何か急を要する事態が起こったのかもしれない。そんな事、小夜にわかるはずもないのに。


 ――どうしてこんなに裏切られた気持ちになるんだろう。

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