第三話 皇女の務め⑤

 二人は通り沿いにある中央公園へとおもむく。大きな池を中心に広場が設けられていて、家族連れや若者たちがなごやかに談笑していた。黎たちの事を気にかけている者は誰もいない。

 新堂は池近くのベンチに黎を招くとしばらく二人並んで池を泳ぐかもを眺めた。


「退屈ですか?」

「いいえ、そんな事は」


 黎は素直に首を振った。周りの目を気にすることなくゆったりとした時間を過ごせるのは、黎にとっては珍しいことだ。だが、新堂は顔を歪めて苦笑する。


「すみませんね。軍人将校とはいえ俺は大した家柄でないもので、御令嬢がお気に召すものをよく知らないんです」


 そう言って笑う新堂は何故か悲しげだった。


「黎様、俺たちの縁談は周りから決められたものです。我々の結婚に政治的意図があるのもお聞きになりましたよね?」

「……はい」

「どうせ隠してもいずれわかる事なので俺の方からも言っておきます。今回貴女との縁談を受けたのは新堂家の名にはくが付くからです。俺の家は士族の家系でね、曾祖父の世代じゃ旗本だのなんだのと持てはやされましたが、そんなものは過去の栄光。一応祖父の代から父、そして俺の上の兄三人、そして俺も含めて陸軍に入隊しそれなりに地位も上げましたが、所詮は没落した元士族。そういう目で見られるのは避けられないんですよ。

 学生時代に殿下と繋がりを持てたのは幸運でした。その縁もあって、今回の話があったんですから。父は大喜びでしたよ。あの人は俺以上に新堂家のプライドと爵位を貰えなかった劣等感にさいなまれていましたから」


 新堂の思いのほか冷たい目に、黎は新堂の心の深い闇の底を見た気がした。


「だから申し訳ありませんが、俺にとっても貴女との縁談は政略的なものでしかありません。勿論貴女をないがしろにする気はありませんし、妻となる以上大切にしますが――」

「色恋とか、そういうものを期待されては困ると。そう言いたいのですね」


 新堂の言葉を遮り、黎が続けた。新堂は意外そうに目を丸くする。


「新堂様、私は久遠院家の人間です。初めから、私の身は久遠院家のものであり、ひいてはこの国の為にあります。ですので、貴方との婚約が国益となるというのなら、私は甘んじてそれを受けいれます」


 先日も同じような事を煌にも告げた。何故かあの時以上に、黎の心はずしりと重くなる。それに気づかないふりをして、黎はキッと新堂を見据えた。


「久遠院の女を見くびらないでください。愛されないからと我儘わがままを言うように育てられた覚えはありません」


 新堂は固まったまま動かなかった。そして、


「料亭で会った時は人形のような方だと思いましたが」


 新堂は言葉を切って、それからまた笑う。さっきのような冷酷な笑みではなく、心底安心したような顔で、


「すみません、試すような真似を言って」

「試す?」

「本音を言って貴女がごねたらどうしようかと思いました。でも、心配はいりませんでしたね」


 そう言って、新堂は黎に手を差し伸べた。


「俺は貴女が気に入りました。貴女となら上手くやっていけそうな気がする」


 これは認められたということでいいのだろうか。黎はまだよく実感できないまま、新堂に向き合った。


(……でも、取りつくろわれるよりずっといい)


 黎が思い描くような幸せではないかもしれないけれど、この人と一緒に歩んでいく事もきっとできる。

 黎はその手に応えるように、そっと手を伸ばした。――その時だった。


 ドォン


 地面が揺れた。一瞬、地震が起こったのかと思ったが、


「爆発だ!」「建物が燃えてる!」


 周囲から声がした。途端に空気に混じる焦げ臭さ。同時に公園のすぐ近くから黒い煙が濛々もうもうと立ち上がる。


「一体何が……」

「わかりません。黎様、離れないでください」


 鋭い目になった新堂があたりを警戒する。そこに別方向からバタバタと複数のあわただしい足音が近づいてきた。彼らは一様に青碧の軍服をまとっている。――碧軍だ。


「おい、何があった⁉」


 異常事態を察した新堂が通り過ぎる若い兵を呼び止めた。兵は一瞬戸惑うも新堂の顔を知っていたのか慌てて敬礼を返す。


「新堂大尉! どうしてこちらに⁉」

「非番で鉢合わせたんだ。これはどういう状況だ?」

「赤軍です。矢矧の一派が近くの新聞社に爆弾を投げ込みました」


 新堂は驚愕した。黎も言葉を失い固まる。

 赤軍。無政府主義を掲げる政府の敵。こんな昼間から白昼堂々テロを起こすなんて。

 情報をくれた兵は新堂に一礼すると慌てて隊列に戻ってしまった。その背中を新堂が焦燥の目で追いかける。彼はぐっと奥歯を噛んでいた。強い葛藤かっとうの中に、黎は彼の軍人としての重責を垣間見る。


「新堂様、行ってください」

「――え、しかし」

「私なら大丈夫です。他の方たちと、騒ぎのない方に逃げますから」


 軍人としてなすべきことがあるのなら、それをなしてほしい。黎は震えに感づかれないように笑いながら、新堂を見据える。


「……っ、すぐに戻ります。黎様は安全なところに隠れていてください」


 弾かれるように新堂は駆け出した。遠のく背中を見つめながら、黎は不安で眩暈めまいを起こしそうになって思わず近くの木にもたれかかる。


(大丈夫、黎。落ち着いて行動するのよ)


 自身に言い聞かせつつ、黎は新堂たちが消えていった方向とは反対方向に走り出した。あたりには同じように騒ぎから離れようとする通行人たちが駆けていく。園内はそれほどでもないが、公園に沿った表の通りはもはや逃げ惑う人でひしめき合い地獄絵図と化していた。


(怖い。どこに逃げればいいの?)


 園内に留まっていた方が得策だろうか。奥地に向かえば大丈夫な気がする。

 黎は池から離れ、公園の奥に向かった。この辺りはまだ人通りが少ない。近くの茂みにそっと身を隠し、ほっと息をついた。しかし、


「助けてくれ!」


 同じ方向に逃げていたはずの人々が逆流してきた。何事かと頭を出しその先に見ると、黎の正面から群衆が猛烈な勢いでこちらに接近してくる。

 それだけではない。彼らの背後、公園の入り口に隊列し防壁のように行く道をはばんでいるのは碧軍だ。


「畜生! 軍の奴ら俺たちを公園に追い詰めるつもりだ」

「何考えてやがる⁉ 公園には無関係の奴らもいるんだぞ⁉」


 あちらこちらで怒声が聞こえ、まるで追われる鼠のごとく公園の内部に逃げ込んでくる。


(あれは、まさか赤軍……?)


 確証はないが集団で追われている男性たちの会話を聞くに、恐らくテロを起こしたグループだ。彼らは銃を持つ碧軍から逃れようとこちらに向かってくる。

 その混乱の中で、黎は碧軍が逃げまどう彼らに向かって銃を構えるのを見た。


「……⁉」


 悲鳴を上げる間もなかった。碧軍は一斉に発砲し、前方の赤軍を貫く。悲痛な悲鳴と共に赤軍がバタバタと倒れた。それだけではない。発砲に巻き込まれた一般市民もいた。黎と一緒に逃げていたはずの、先刻までこの公園で談笑していた家族連れや恋人たちも――。

 黎は飛び込んだ茂みの中で息を殺した。目の前で血まみれになってうめき声をあげて倒れる人々。辺りは粉塵ふんじん硝煙しょうえんの匂いが充満し、息をした瞬間喉のどをひりつかせた。


 嫌、何これ。いったい何が起こっているの?


 目の前に広がる光景が直視できない。先ほどまであんなに穏やかで静かな公園の地が血に染まっているなんて。人が水袋のように折り重なって倒れているなんて。国を守るはずの碧軍が、無抵抗の市民に銃口を向けたなんて。


 怖い、怖い。誰か助けて。


 黎のすぐ側を碧軍の無情な足音が通り過ぎていく。黎は見つからないように体を縮こませたが、


「おい! お前!」


 突如腕を掴まれて乱暴に引き上げられた。喉が張り付いて乾いた悲鳴を上げる。黎の腕をひねり上げていたのは、巨大な碧の壁だ。


「お前も赤鼠あかねずみか?」


 その兵の顔は逆光で見えなかった。目元が見えない、ただ、獲物を捕らえたような下卑げびた笑いが口元に浮かんでいて、


「……っ!」

「答えろよ、答えねえって事は認めてるのと一緒だぞ」


 黎の首筋に固い何かが押し当てられ、その熱さに黎はうめいた。皮膚がジッと焼かれ激痛と焦げ臭さに涙がにじむ。それは男の手に握られている黒い銃器だった。黎に突きつけられているその先端から、先ほど目の前にいる彼らをほふった恐ろしい弾丸が飛び出してくるのだとわかると、黎の体はがくがくと震え始めた。


(違う、私は赤軍じゃない……!)


 必死に訴えようとしても、恐怖で口が開かない。


 助けて、新堂様。煌様。


 思い浮かぶ色んな人に助けを求めてみても、そんなものは誰にも届かなくて。


 ――小夜、小夜!


 脳裏に浮かんだ最愛の姉の顔。このまま死んだら、小夜に会えない。

 カチリと男が雷管を下す音が無慈悲に響く。


 ――ああ、死ぬ前にもう一度、小夜に会いたい。


 無事に帰ってくると約束したのに、このままでは彼女を悲しませてしまう。彼女を悲しませることだけはしたくなかったのに。

 黎は死ぬ最期の時まで、小夜を想った。それだけがたった一つの心残り。黎はそれを胸に抱きながら、その瞬間を迎えるためそっと目を閉じた。


 その時だった。


「ぐぁっ!」


 男のくぐもった悲鳴と共に黎の体が解放された。掴まれていた腕が解かれ、バランスを崩し後ろに倒れこむ。その前に、また誰かが黎の体を引き上げた。

 グンッと前に倒れこむ黎の体に何かが当たった。また壁だ、でも今度のはさっきと違う。足元を見ると、黎を拘束していた男が倒れ伏していた。


「――大丈夫か?」


 壁の方から声がした。聞き覚えの無い、低くて深い音。それはいたわるように黎を包み込んだ。恐る恐る顔を上げると、


「――あ、」


 黎の目に飛び込んできたのは、それはそれは美しい、宵暁珀しょうぎょうはくと同じ瑠璃るりの宝石。

 一対の輝きを持つその男は、底の見えない青いほのおのような視線を黎に寄こしていた。

 黎は動けなかった。息をすることすら忘れていた。

 恐怖ではない。もっと別の衝動が電流のように体内をほとばしって、黎の体を停止させた。



 のちに黎はこの日の事を何度も思い返す事になる。この日新堂とデートに行かなければ、護衛の二人を悪戯半分で撒こうとしなければ、赤軍の暴動に新堂を向かわせなければ。

 ――目の前のこの男に出会わなければ。


 黎はきっと、この国を裏切る事はなかったのだろうと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る